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いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌と洋楽和訳メインのブログで、海外ドラマ感想もあります

「一首鑑賞」-388

「一首鑑賞」の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

388.両親が出会ったという群青の平均台でおやすみなさい

 (笹井宏之)

 

 砂子屋書房「一首鑑賞」コーナーで石川美南が紹介していました。

sunagoya.com

 これを読んでカート・ヴォネガットの言葉を思い出しました。

 

わたしの父が人生最良の日にいっしょにいたのは、若い妻だけでした。その日、わたしの両親は一心同体でした。祖父が人生最良の日にいっしょにいたのは、たったひとりの友達でした。ほとんど話もしない相手でした――なにしろ、機関車がものすごい音を立てていたもので。

 

 この「出会い」は、両親そのものの出会いの日というよりも配偶子同士の結びつきをイメージさせられます。つまり受精の日というか。ぼくは群青の平均台で生まれたのだという。でも「おやすみなさい」だからちょっと違うのかな。あるいはそこは生命の産まれる場所であり眠る場所でもあるという壮大なイメージでしょうか。しかし自分に当てはめて考えると、自分の両親(や、あるいは自分自身の誕生)を詩的に捉えることってかなりハードルが高いなぁと思いました。。

 石川美南は鑑賞文の中でこの歌のイメージを散文にしていますが、更に

 

美しい名前のひとがゆっくりと砲丸投げの姿勢に入る

 

という歌を引用して以下のように書いています。

 

砲丸投げの選手にとって、「美しい名前」を持っていることは何の武器にもならない。けれども、ここで大切にされているのは、砲丸投げの記録ではなく、砲丸投げをする前の「姿勢」の美しさだ(何なら姿勢をとるだけで、球は投げなくたっていい)。

 

もしかしたらこの歌は、本当に砲丸投げの試合を見ながら(そして、選手の中に美しい名前の一人を見つけて)作られたのかもしれないけれど、そういった文脈はすっぱり削ぎ落されて、この世の〈美しさ〉にだけ光が当たっているように見える。

 

ほとんど冷酷と言ってもいいほど潔いその手つきが、一首の危うい魅力になっていると思う。

 

「ほとんど冷酷と言ってもいいほど潔いその手つき」という言葉にどきっとしました。もしかしたら短歌という文学形式を選んで何かを表現するには、冷酷でいなくてはならない瞬間もあるのかもしれません。

 

 

今日と明日が取り換え可能であることの幸いを知る痛みとともに (yuifall)

 

 

短歌タイムカプセル- 笹井宏之 感想 - いろいろ感想を書いてみるブログ

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「一首鑑賞」-387

「一首鑑賞」の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

387.あなたにはあなたの雲の数へ方ある 新しい眼鏡が似合ふ

 (目黒哲朗)

 

 砂子屋書房「一首鑑賞」コーナーで吉野裕之が紹介していました。

sunagoya.com

 あまり説明したくないように感じる歌です。あなたは新しい眼鏡をして、くっきりとした視界で雲を数える。あなたの数え方で。それは私とは違うかもしれないし同じかもしれないけど、どちらであっても尊重するという雰囲気を感じます。

 鑑賞文では、他にもたくさんの歌が引用されていました。特にお子さんを詠った歌が心に残りました。

 

ひぐらし」と息子が言へりわたしには比喩に汚れた意味がのこれり

 

かなへびが恐竜とどう違ふのか葉擦れのごとく息子が問へり

 

自転車の籠で運べば三歳の娘(こ)の生意気よ花束のやう

 

横浜の夜景忘れずありたしよこの子ら大きくなつてしまふよ

 

 この歌の「あなた」もお子さんなのだろうか。でもここで詠われている子供はまだ眼鏡をかけるような年齢じゃないように思えるので、これは誰か身近な大人の人のことかもしれません。

 

 

気配すらあなたはそこに燃えている白い産着に包まれながら (yuifall)

 

 

現代歌人ファイル その157-目黒哲朗 感想 - いろいろ感想を書いてみるブログ

「一首鑑賞」-232 - いろいろ感想を書いてみるブログ

読書日記 2025年11月26日-12月2日

2025年11月26日-12月2日

トム・ロブ・スミス田口俊樹訳)『チャイルド44』下

・M・W・クレイヴン(東野さやか訳)『デスチェアの殺人』上下

コーディー・キャシディー、ポール・ドハティー(梶山あゆみ訳)『とんでもない死に方の科学』

エーリヒ・マリア・レマルク秦豊吉訳)『西部戦線異状なし

コーディー・キャシディー(梶山あゆみ訳)『人類の歴史をつくった17の大発見 先史時代の名もなき天才たち』

 

以下コメント・ネタバレあり

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「一首鑑賞」-386

「一首鑑賞」の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

386.4Bの鉛筆をもてはじめての円形脱毛塗りつぶすなり

 (小島ゆかり

 

 砂子屋書房「一首鑑賞」コーナーで都築直子が紹介していました。

sunagoya.com

 え~?鉛筆?油性ペンじゃなく?といううっすい感想で読んでいたのですが、鑑賞文には「短歌やエッセイで自分を描写するときの心構え」みたいなことが書いてあって面白かったです。要は「自慢話をしないこと」「自分をサゲる」みたいな感じなのですが、「歌人は社会的弱者になりたがる」精神がここでも生きてるんかね。まあ巷にあふれるコミックエッセイとかもほとんど自sageなのでそういうものかもしれませんが、でもポップスだと自ageは許されてるよね。特に洋楽なんて「私最強」「I was born this way!」の嵐だし、最近は邦楽にもその流れが来つつあります。『私は最強』(Ado)とか『可愛くてごめん』(HoneyWorks)とか。短歌はそこまで来てないのか?それともこの記事2013年のものなので、今では「私イケてる」系の歌も受け入れられているのだろうか?

 

鉄則その1と2は、いいかえればこうだ。〈わたし〉を美人美男にしてはいけないが、かといって露悪的なことばで読者をつらくしてはいけない。

とはいえ、しょぼくれた自画像の提示は、露悪趣味と紙一重だから油断できない。このあたりのバランスは、作者の技量が試されるところだ。

 

近代短歌からこちら、〈わたし〉のうたい下げ短歌、とりわけ身体的弱点を素材にした歌は、男性作者の専売特許だった。斎藤茂吉〈あかがねの色になりたるはげあたまかくの如くに生きのこりけり〉(『小園』)を始めとする、しょぼくれ自画像短歌の系譜がある。一方、女性作者には、どういうわけかこの素材に取り組む人があまりいなかった。それが、ここへきてようやく、青木昭子〈減量を五キロと決める、だがしかし五キロを被ふ皮膚はどうなる〉(『さくらむすび』)などユーモアのあるしょぼくれ自画像を描く人が出てきた。浦河奈々〈脳天の白髪のあたり見られつつ宅急便にシャチハタを捺す〉(『マトリョーシカ』*「白髪」に「しらが」のルビ)も、堂々たるものだ。

 

と、性差による違いにも触れられていて興味深く読みました。

 

 ちょっと前に性格診断みたいなの(16 personalities, MBTI)が流行ってたときしみじみ気付いたのですが、自分がどんな人間なのかにもはや興味ないな…、と。だって普通なんだもん。最近コンビニ行くとアニメ声で「陰キャの人も陽キャの人も自分らしく」みたいな宣伝がしょっちゅう流れていて不愉快なのですが、たいていの人は別に陰キャでも陽キャでもなくない?私は取り立てて内向的でも外向的でもないし、取り立てて感情的でも理性的でもないし、知らない人に「私はこうです」と受け入れてほしいとも思わない。だから自分を「やや自虐的に、でも露悪的でなく」描写する、って考えた時、虚無でした。特に自慢できることも、逆に(面白く)サゲれることもないんだよな。せいぜい「運動神経が悪い」くらいだけど、中年になったらたいていの人がそんなに運動できないし運動することもないので子供時代と比べると大した特徴でもありません。見た目も、特徴的な点って特にないし。

 こういう「円形脱毛」「白髪」の短歌読んでると、その生き生きとした人物描写に感服を受けるし、一方で私自身の自分への興味のなさ、ひいては他者への興味のなさが、私の短歌をつまらないものにしているのだなぁ、という古文現代語訳の詠嘆のような感想を抱きましたが、まあだから何だって感じですね。

 

 

ハイスぺに溺愛される話はさぁ、現実だけでお腹いっぱい♡ (yuifall)

 

 

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「一首鑑賞」-62 - いろいろ感想を書いてみるブログ

「一首鑑賞」-385

「一首鑑賞」の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

385.気が付いた時には世界の中にゐて海見むと海に来るのことのあり

 (香川ヒサ)

 

 砂子屋書房「一首鑑賞」コーナーで石川美南が紹介していました。

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 こういう読み方間違っているかもしれませんが、なんか許されたような気になりました。というのも自分は普段生活していてあんまりものを見ていないなと感じることが多く、街並みや景色を思い出せないし、あらゆる記憶がぼんやりしています。でも要所要所で思い浮かぶ光景があって、そんな風に「気が付いた時には世界の中にゐて」って思ってもいいのか、ってこの歌読んで思いました。

 とはいえ、鑑賞文を読むとこの歌は旅行詠のようです。イギリス旅行に際して詠まれた歌なのだとか。しかしながらこの歌からはどこの海なのかは判然とせず、歌集全体を読んでもよく分からないようです。

 うーん。どこの海でもよい、と考えていいのだろうか。この「世界」という言葉から、近所の海ではないことを読みとるべきだっただろうか。でも近所の海も「世界」の中にあるよなぁ。

 

 鑑賞文の最後がとてもよかったです。

 

冒頭に挙げた一首は、『The Blue』を象徴するような歌。一首だけ取り出した場合、いつどこで詠まれたのか、さっぱりわからないのだが、世界の中にぽーんと投げ込まれたような感覚が、抽象化された海の青さとよく合っていて、妙に得心がいく。

 

歌集最後の2首も引いておく。

 

教会の影は芝生を移りつつこの公園から出ることはない

 

往く人の影は芝生を移りつつこの世界から出ることはない

 

 教会の影は公園を出ることはなく、往く人の影はこの世界から出ることはないと。当たり前のことを言っているのですがぞくっとしますね。教会や往く人そのものではなく、影に注目しているのも面白いです。

 でも公園が消滅したり、この世界が消滅したりすることはあるよなあ、とも思いました。まあその前に教会なり往く人なりの方が先に消滅するのか?

 

僕は僕の世界全部を差し出してそんなんゴミにもならんゆうやみ (yuifall)

 

 

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読書日記 2025年11月19-25日

2025年11月19-25日

笠井潔『夜と霧の誘拐』

・芥見下々、北國ばらっど、瀬古浩司『劇場版 呪術廻戦0 ノベライズ』

・芥見下々、北國ばらっど『呪術廻戦 夜明けのいばら道』

コーディー・キャシディー(梶山あゆみ訳)『とんでもないサバイバルの科学 恐竜絶滅から、ポンペイ黒死病タイタニックまで、史上最悪レベルの大事件をどう生きのびる?』

トム・ロブ・スミス田口俊樹訳)『チャイルド44』上

 

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「一首鑑賞」-384

「一首鑑賞」の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

384.百枚のまぶたつぎつぎ閉じられてもう耳だけの町となりたり

 (久野はすみ)

 

 砂子屋書房「一首鑑賞」コーナーで都築直子が紹介していました。

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 50人の人がいて、みんな眠ってしまう?耳だけは目覚めていて何かの音を聞いている?

 状況がうまくつかめないのですが心惹かれる歌です。鑑賞文には二通りの読み方が紹介されていました。一つは私と同じように、「眠る街」という読み。そしてもう一つは、「瀕死の街」という読み。

 

あるいは、「耳だけの町」は、死ぬ直前の町かもしれない。人が死ぬとき、聴覚は最後まで残るという。瀕死の町。もうすぐ完全な死を迎える町。なぜなら人々は皆殺しにされたか、どこかへ連れ去られてしまったから。無人の町。地上にヒトがあらわれてから、こういう町はさまざまな時代のさまざまな場所に存在しただろう。「もう耳だけの町となりたり」というフレーズに、想像が広がる。

 

 ああ、それは思わなかったですね。そうか。この「百枚」の「百」も、別に「50対」というわけではなくてnumerousという意味合いなのだろうと思います。「千」でなくてよかった、と鑑賞文には書かれています。

 

 この「耳」はどうなるんでしょうね。やはり失われてしまうのか、それともいつまでもあるのか。京極夏彦の『姑獲鳥の夏』だったかなぁ、「目は閉じられるけど耳は閉じられない」みたいな台詞あったような気がする。そういうことなのかな。何かから目を背けても、あるいは目に入ってても見えてはいないということはあっても、耳だけは残るのだと。

 しかしながら、そういう受け止め方だと、「匂い」というか「鼻」はどうなのかなーと思ったりする。例えば死のシーンって、視覚の刺激からは目を背けられても匂いからは逃れられないと思うんだよなぁ。

 作者は演劇の仕事に携わっていた人で、歌集タイトルも『シネマ・ルナティック』とあることから、そこには匂いは存在しないのかもしれませんが。

 

 

パッケージされた匂いのない街の冷えた画面に串刺しの豚 (yuifall)

 

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