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先月の WirelessWire News 連載原稿だが、評判が良かったようで正直ホッとした。
昔だったら、「まだAI驚き屋で消耗してるの?」とか煽ったタイトルにしたのかもしれないが、そういうのは無益だと分かるくらいにはワタシも歳をとったのである。
たまたま、この原稿に関連する記事が、原稿の公開直後にいくつか出たので取り上げておく。正直、ワタシの文章が公開される前に出てなくて良かった(笑)。
正直、これは驚いた。ワタシの原稿は、ティム・オライリーの話から始まり、最後にはアーヴィンド・ナラヤナンとサヤッシュ・カプールの「普通のテクノロジーとしてのAI」論に着地するのだが、そのティム・オライリーが生配信番組Live with Tim O'Reilly にアーヴィンド・ナラヤナンをゲストとして招いているのである。
オライリーはナラヤナンらの論文を以下のように評している。
優れたアイデアは誇大宣伝の霧を切り裂き、世界をより明確に見せてくれる。だからこそ、アーヴィンド・ナラヤナンとサヤッシュ・カプールの論文「普通のテクノロジーとしてのAI」に私は強く惹かれた。彼らは、AI が確かに変革をもたらす一方で、決して前例のないものではないと論じている。むしろ、電化、自動車、インターネットといった他の広範囲におよぶ技術革命とほぼ同様のパターンを辿る可能性が高い。つまり、技術変化のテンポはイノベーションの速度ではなく、経済的、社会的、インフラ的要因、そして変化に適応しようとする人間の必要性に制約される普及の速度によって決まるのだ(ある意味で、この考え方はスチュワート・ブランドの「ペースレイヤリング」の概念を想起させる)。
「優れたアイデアは誇大宣伝の霧を切り裂き、世界をより明確に見せてくれる」って大変な賛辞よね。オライリーをナラヤナンらに接続したワタシの見立ては間違ってなかったようだ。
しかも、まさかここでスチュアート・ブランドに接続されるとはね!
「ペースレイヤリング」については、浅野紀予さんの「思想としてのペースレイヤリング」が参考になる(浅野さんは今いずこ……)。
Wired の記事でもナラヤナンとカプールの「普通のテクノロジーとしてのAI」論が取り上げられている。
ここではAI 2027 との対比で語られており、以下のくだりはちょっと笑った。
「AI 2027」と「AI as Normal Technology」は同じ現実を描こうとしていて、どちらも深い知識をもつ専門家によって書かれているのに、呆れるほど異なる結論に達している。カプール、ナラヤナン、ココタイロとAIの未来について議論していると、まるでリチャード・ドーキンスと法王を相手に精神性について話しているかのような気分になる。
話題のレポート「AI 2027」から、分岐する未来を読み解く | WIRED.jp
ワタシとしては、この記事にある「だが「AI 2027」には、人間が一連の誤った選択をする様子が描かれている」という見方を支持します。
id:yomoyomoはてなブログPro雑文書き、翻訳者。1973年生まれ。著書に『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』、『情報共有の未来』、訳書に『デジタル音楽の行方』、『Wiki Way』、『ウェブログ・ハンドブック』がある。

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