
その日、俺(まさかず)は、特に目的もなく週末の雑踏を歩いていました。 変わり映えのしない日常。少しだけくたびれた革靴。 そんな灰色の風景の中で、ふいに、時が止まったかのような声が耳に届いたのです。
「あれ…もしかして、まさかず君?」
振り返った先にいた人物に、俺は言葉を失いました。 少しウェーブのかかった髪、優しげな眼差し、薄いニット越しにも伝わる華奢なシルエット。 記憶の中にある姿よりもずっと大人びて、ずっと綺麗になった彼女。
「…ハルカ?」
それは、俺が小学生の頃、クラスで一番輝いて見えた女の子。 卒業式の日に、ついに一言も声をかけられなかった、俺の「初恋」そのものでした。
15年ぶり、でしょうか。 心臓が、忘れていたリズムを刻み始めます。
「久しぶり!すごい偶然!」
お互いに驚きながら、懐かしさが一気にこみ上げてきました。
「この後、時間ある?よかったらお茶でも…」
どちらからともなく、そんな言葉が出ました。 俺たちは吸い寄せられるように、近くのカフェに入ったのです。
「まさかず君、全然変わらないね」
カフェラテを前に、ハルカは昔と同じように柔らかく笑いました。 その笑顔だけで、俺の心は12歳の頃に戻ってしまいます。
積もる話は尽きません。 お互いがどんな学生時代を送り、今どんな仕事をしているのか。 俺は、この奇跡的な再会に、少し浮足立っていました。
「ハルカは今、どうしてるの?」
何気なく尋ねた俺に、彼女は少し照れたように左手を見せました。 そこには、シンプルな指輪が光っています。
「私ね、ずいぶん前に結婚したんだ。子供も二人いて、毎日バタバタだよ」
…ああ、そうか。 一瞬、頭を鈍器で殴られたような衝撃がありました。 考えてみれば当然です。これだけ魅力的な彼女が、フリーであるはずがない。 画像のような、この優しい眼差しは、きっと「母」としての顔なのでしょう。
「そっか…!おめでとう!なんか、すごいなハルカ。お母さんかぁ」
必死で平静を装いながら、祝福の言葉を口にしました。 封印していたはずの淡い恋心が、音を立てて砕けていくのを感じながら。
幸せそうな家庭。 そう思っていた矢先でした。 ふと会話が途切れ、ハルカがカップを見つめたまま、小さな声で呟いたのです。
「…まさかず君だから言うけどね」
彼女がゆっくりと顔を上げると、その瞳は少し潤んでいるように見えました。
「最近、旦那さんと、あんまり上手くいってなくて…」
聞けば、夫婦の会話は減り、子育てに対する価値観の違いが浮き彫りになってきたとのこと。家にいても、どこか居心地の悪さを感じている、と。
俺は、どう答えるべきか分かりませんでした。 ただ、「そうか」「大変だったな」と相槌を打つことしかできません。 幸せそうに見えた彼女が、そんな悩みを抱えていたなんて。
目の前で、初恋の人が傷ついている。 その事実が、俺の心の奥底に眠っていた何かを激しく揺さぶりました。
小学生の頃の後悔が、フラッシュバックします。 いつも遠くから見ているだけだった。 結局、何もできなかった。
(今なら、俺は)
ダメだ。彼女は既婚者だ。二児の母だ。 頭の中で、理性が必死に警告を鳴らします。
でも、彼女の寂しそうな笑顔を見ているうちに、その警告音はどんどん小さくなっていきました。 守ってあげたい。 俺が、彼女を笑顔にしてあげたい。 その黒く、甘い感情が、俺の思考を支配していったのです。
気づけば俺は、テーブルの上にあった彼女の左手…指輪のない、右手をそっと握っていました。
「え…?」
驚くハルカ。 もう、止まれませんでした。
「ハルカがそんな辛い思いしてるなんて、知らなかった。俺…昔から、ずっとハルカのことが…!」
「もし、俺でよければ、いつでも…!」
自分でも何を言っているのか分かりません。 15年分の後悔と、今この瞬間の独善的な庇護欲がごちゃ混ぜになって、言葉になって溢れ出します。
これは「暴走」でした。 彼女の事情も俺の立場もすべてを無視した、身勝手な行動でした。
ハルカは驚きに目を見開いたまま固まっていましたが…やがて、ゆっくりと俺の手を振り払いました。
「…ごめん。まさかず君」
その一言で、俺は一気に現実へと引き戻されました。 カフェのBGMがやけに大きく耳に響きます。
「あ…いや、ごめん。俺、今のは…」
「ううん、話聞いてくれてありがとう。でも、ごめんね」
気まずい沈黙。 俺は、まだ湯気が立っているカフェラテに視線を落とすことしかできませんでした。
その後、どうやってカフェを出たのか、あまり覚えていません。 駅までの帰り道、俺たちはほとんど無言でした。
「それじゃ、また」
そう言って改札に向かうハルカの背中を、俺は呼び止めることができませんでした。
初恋の人との、15年ぶりの再会。 それは、甘酸っぱい思い出の続きなどではなく、ただ、自分の浅ましさと現実を突きつけられるだけの、苦い時間となって幕を閉じました。
もし、あの時。 俺がただの「良き相談相手」に徹していれば、何かが違ったのでしょうか。 暴走した感情の行き場を、俺は今も見つけられずにいます。
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