
2025年11月21日
中国広東省の地下700メートル。そこに建設された人類史上最大の「幽霊粒子」捕獲装置が、物理学の教科書を書き換える準備を整えた。
中国科学院高エネルギー物理学研究所(IHEP)が主導する国際プロジェクト「江門地下ニュートリノ観測所(JUNO: Jiangmen Underground Neutrino Observatory)」は、2025年8月の稼働開始からわずか2カ月足らずで、過去半世紀にわたる世界のニュートリノ研究が積み上げてきた精度を単独で塗り替えるという驚異的な成果を発表したのだ。
これは宇宙を構成する物質の起源や、物理学の標準模型を超える「新しい物理」への扉を開く、極めて重要なマイルストーンと言えるだろう。
59日間が50年を凌駕する:前例なき「超精密測定」の実態
2025年11月19日、JUNOのコラボレーションチームが発表した初期結果は、世界の物理学コミュニティに衝撃を与えた。2025年8月26日の正式稼働から11月2日までのわずか「59日間」の有効データのみを用いて、JUNOは以下の偉業を成し遂げたのである。
過去の全実験を上回る測定精度
ニュートリノが空間を伝播する際にその種類(フレーバー)を変える現象を「ニュートリノ振動」と呼ぶ。この振る舞いを記述する「太陽ニュートリノ振動パラメータ」において、JUNOは過去のあらゆる実験データの累積と比較して、1.5倍から1.8倍もの高い精度で測定することに成功した。
これは、カミオカンデ(日本)やSNO(カナダ)、Borexino(イタリア)、KamLAND(日本)といった歴史的なプロジェクトが数十年かけて積み上げてきた到達点を、JUNOが始動直後の「試運転」に近い段階で軽々と超えてしまったことを意味する。
「太陽ニュートリノ・テンション」の確証
さらに重要なのは、この高精度測定によって物理学界の長年の謎であった「太陽ニュートリノ・テンション(Solar Neutrino Tension)」の存在を明確に確認した点にある。
これまで、太陽から飛来するニュートリノを観測して得られたパラメータと、原子炉から出る反ニュートリノを用いて得られたパラメータの間には、統計的に無視できない「ズレ(不一致)」が存在していた。以前の実験データでは、これが測定誤差なのか、それとも未知の物理現象なのか断定できなかった。
しかし、JUNOの圧倒的な統計精度は、このズレが単なる誤差ではなく、「現実に起きている現象」であることを強く示唆する結果を突きつけたのである。これは、現在の素粒子物理学の標準模型(Standard Model)が完全ではない可能性、すなわち未発見の物理法則が隠されている可能性を現実的に帯びさせるものである。
なぜ「幽霊」を捕まえるのか:ニュートリノ振動と質量の謎
この成果の凄みを理解するためには、そもそもニュートリノとは何か、そしてその存在の何が「不思議」なのかを理解する必要がある。
宇宙をすり抜ける「幽霊粒子」
ニュートリノは、宇宙で光子(光の粒子)に次いで2番目に多い素粒子である。毎秒、あなたの指の爪ほどの面積を数千億個ものニュートリノが通り抜けている。しかし、電気的に中性であり、質量が極めて小さいため、通常の物質とほとんど相互作用しない。地球全体さえも、あたかも透明なガラスであるかのように通り抜けてしまう。この性質こそが「幽霊粒子(Ghost Particle)」と呼ばれる所以である。
量子力学的「変身」のミステリー
ニュートリノには、電子ニュートリノ、ミューニュートリノ、タウニュートリノという3つの「フレーバー(種類)」が存在する。驚くべきことに、これらは飛行中に相互に入れ替わる。これを「ニュートリノ振動」と呼ぶ。
例えば、太陽の中心核融合で作られた「電子ニュートリノ」が、地球に届くころには「ミューニュートリノ」に変身しているのだ。この現象は、ニュートリノが質量を持たないと仮定していたかつての標準模型を覆し、「ニュートリノには質量がある」ことを証明した(2015年ノーベル物理学賞:梶田隆章氏ら)。
しかし、3つのニュートリノのうち「どれが最も重く、どれが最も軽いのか」という「質量順序(Mass Ordering)」は、未だに解明されていない。この順序の決定こそが、JUNOの最大の使命であり、宇宙から反物質が消え、物質だけが残った謎(CP対称性の破れ)を解く鍵となる。
地下700メートルの巨大な目:JUNOの驚異的エンジニアリング
JUNOがこれほどの短期間で記録的な成果を出せた背景には、その圧倒的なスケールと技術的洗練がある。
2万トンの「液体」が捉える微かな光
広東省江門市の地下700メートルに建設された実験ホール。その中心には、直径35.4メートルの巨大なアクリル球体が鎮座している。球体内部は、20,000トンもの「液体シンチレータ」と呼ばれる特殊な油で満たされている。
ニュートリノがごく稀にこの液体中の水素原子核に衝突すると、目には見えないほど微弱な青い光(シンチレーション光)を発する。この光を捉えるため、球体の周囲には45,000本以上の光電子増倍管(PMT)が張り巡らされている。
- なぜ地下なのか?:宇宙から降り注ぐ宇宙線(ミューオンなど)のノイズを遮断するため、700メートルもの岩盤の下に隠れる必要がある。
- なぜ巨大なのか?:ニュートリノの反応確率は極めて低いため、ターゲットとなる原子(液体の量)を増やし、確率を上げる必要がある。2万トンという規模は、この種の検出器として世界最大である。
原子炉からの「人工幽霊」を利用する
JUNOは、近隣にある台山(Taishan)原子力発電所と陽江(Yangjiang)原子力発電所から放出される大量の「原子炉反ニュートリノ」を観測源として利用している。これらは約53キロメートル離れており、この距離はニュートリノ振動を精密測定するために計算し尽くされた「魔法の距離」である。
今回の成果は、この原子炉由来のデータを解析することで、太陽ニュートリノ実験で得られていたパラメータと比較検証を行ったものである。
「新たな物理」への予兆:観測結果が示唆する未来
JUNOが確認した「太陽ニュートリノと原子炉ニュートリノのパラメータのズレ(テンション)」は、何を意味するのか。
標準模型の「ほころび」か
物理学において、異なる方法で測定した同じはずの数値が食い違う場合、そこには2つの可能性がある。
- 測定精度の限界や誤り
- 未知の物理法則の介在
JUNOの圧倒的な精度は、前者の「誤り」の可能性を排除しつつある。となれば、後者の可能性が高まる。このズレは、現在の3世代のニュートリノ枠組みでは説明できない現象かもしれない。これは「ステライル・ニュートリノ」のような第4のニュートリノの存在や、非標準的な相互作用(Non-Standard Interactions)の兆候である可能性がある。
質量順序の決定へ
プロジェクトマネージャーである王貽芳(Wang Yifang)氏は、「この精度があれば、JUNOは間もなくニュートリノの質量順序を決定できる」と明言している。
質量順序が「順階層(Normal Ordering)」なのか「逆階層(Inverted Ordering)」なのかが決まれば、宇宙の進化論、特にビッグバン直後の物質生成のシナリオに決定的な制約を与えることになる。JUNOは今後6年程度の運用で、これを信頼度3シグマ〜4シグマで決定することを目指しているが、今回のスタートダッシュは、その目標達成が予想より早まる可能性を示唆している。
科学は「見えないもの」を見る時代へ
JUNOの成功は、中国の科学技術力の象徴であると同時に、基礎科学における国際協力(17カ国・地域、75機関、700名以上の科学者)の勝利でもある。
始動からわずか2ヶ月で50年の歴史を精度の面で追い抜いたという事実は、我々が今、素粒子物理学の「データ爆発」の時代に突入したことを告げている。これまで見えなかった微細な「ズレ」が明確に見えるようになった今、そこから「新しい物理法則」が顔を出すのは時間の問題かもしれない。
かつてアインシュタインが「神はサイコロを振らない」と言及した量子力学の世界において、JUNOは今、そのサイコロの目がどのような法則で出ているのかを、かつてない解像度で読み取ろうとしているのだ。
ポチップSources










