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ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

仁徳天皇・難波高津宮についての私説】近鉄上本町駅周辺(考察その①)

今では謎となった #仁徳天皇 #難波高津宮 があった場所。先日 #近鉄上本町駅 周辺(大阪市天王寺区上本町駅)ではないかというお話を書きましたが今回は少し詳しく。#東高津宮 #仁徳天皇社(現存せず)#古代河内湖 #古代河内のウォーターフロント

目次

本文

www.zero-position.com

大阪市内二つの「高津」の地名

近鉄百貨店8階から北の方角、上本町周辺(高津)を撮影。中央の幹線道路(ケンフラ看板)が上町筋

今回はなぜ私がそう考えるのか?を書いておきたいと思います。

難波高津宮から「かまどの煙」が立つ国を眺める仁徳天皇と皇后(高津宮、絵馬)

その前にまず、現在、大阪で「高津」という地名は2か所あります。

西の高津宮(中央区高津)と東高津宮(天王寺区東高津町)

高津宮の「大阪市中央区高津」と東高津宮の「天王寺区東高津町」。

高津宮は秀吉公が大坂城築城の際に域内の仁徳天皇社をヒメコソ神社があったとされる現在地に移築した経緯があります(ヒメコソ=ヒメ様=下照姫)

一方、東高津宮はかつて現在の近鉄上本町駅あたりにあった仁徳天皇社(平野社)を駅の建設に伴い現在地に移したと御由緒に書かれています。

ゆえに東高津宮は「元高津宮」と名乗っています。

東高津宮 御由緒

仁徳天皇社が仁徳天皇の難波高津宮跡と考えると、その所在地論争は二つに絞られそうですが、一般的にはなぜか大坂城築城に関連した難波宮説が主流です。

しかし難波宮跡からは古墳時代の難波高津宮跡を証明する遺物は出土していません。

仁徳天皇の難波高津宮は、難波宮説と高津高校説がよく知られている

仁徳天皇が宮から眺めたのは発展著しい東の古代河内湖

仁徳天皇の古墳時代中期(西暦400年代)、現在の大阪市東部から東大阪市のほぼ全域が古代河内湖で、大和川と淀川が運ぶ膨大な土砂の堆積で土地が広がり、

その沿岸域(ウォーターフロント*1)は稲作とともに鉄器や土器(須恵器)などの「ものづくり」の発展と人口の増加が著しく当時の日本で最も繁栄した地域となりました*2

ここが仁徳天皇がクニを眺めた方角が東であったことを考えるポイントになります。

右端図の産湯稲荷神社が近鉄上本町駅周辺

現在の高津宮と東高津宮は、ほぼ同緯度の直線上の東西に約1キロ離れていますが、途中、南北に走る上町台地の最標高地点(熊野街道、標高22㍍)を挟むため、

東高津宮からは発展著しい古代河内湖沿岸 を常日頃、眺めることができました。

西の高津宮(中央区高津)と東高津宮(天王寺区東高津町)

仁徳天皇が「国見」をするには上町台地の東側、眼下に広がる「葦原中津國」を眺める高台がふさわしく、そこは東高津宮の元宮、現在の上本町駅あたりだった可能性が非常に高いと考えます。

冒頭の写真の通り現在ではビル街ですが…

しかしこの中に、古代を想像するに足る複数の『こん跡』が残されているのです。

*****

ここまで長くなりましたので次回に。

次回は、東高津宮や近鉄上本町駅、磐船山の碑などに残された『こん跡』から「磐船」「磐船山」の伝承を絡めて少し深掘りします。

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*1:古代河内のウォーターフロントは古墳時代後期より河内物部氏(物部宗家)の支配下に

*2:東大阪市や大阪市平野区は今でも「ものづくりの街」です

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