今では謎となった #仁徳天皇 #難波高津宮 があった場所。先日 #近鉄上本町駅 周辺(大阪市天王寺区上本町駅)ではないかというお話を書きましたが今回は少し詳しく。#東高津宮 #仁徳天皇社(現存せず)#古代河内湖 #古代河内のウォーターフロント
目次
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今回はなぜ私がそう考えるのか?を書いておきたいと思います。

その前にまず、現在、大阪で「高津」という地名は2か所あります。

高津宮の「大阪市中央区高津」と東高津宮の「天王寺区東高津町」。
高津宮は秀吉公が大坂城築城の際に域内の仁徳天皇社をヒメコソ神社があったとされる現在地に移築した経緯があります(ヒメコソ=ヒメ様=下照姫)
一方、東高津宮はかつて現在の近鉄上本町駅あたりにあった仁徳天皇社(平野社)を駅の建設に伴い現在地に移したと御由緒に書かれています。
ゆえに東高津宮は「元高津宮」と名乗っています。

仁徳天皇社が仁徳天皇の難波高津宮跡と考えると、その所在地論争は二つに絞られそうですが、一般的にはなぜか大坂城築城に関連した難波宮説が主流です。
しかし難波宮跡からは古墳時代の難波高津宮跡を証明する遺物は出土していません。

仁徳天皇の古墳時代中期(西暦400年代)、現在の大阪市東部から東大阪市のほぼ全域が古代河内湖で、大和川と淀川が運ぶ膨大な土砂の堆積で土地が広がり、
その沿岸域(ウォーターフロント*1)は稲作とともに鉄器や土器(須恵器)などの「ものづくり」の発展と人口の増加が著しく当時の日本で最も繁栄した地域となりました*2
ここが仁徳天皇がクニを眺めた方角が東であったことを考えるポイントになります。

現在の高津宮と東高津宮は、ほぼ同緯度の直線上の東西に約1キロ離れていますが、途中、南北に走る上町台地の最標高地点(熊野街道、標高22㍍)を挟むため、
東高津宮からは発展著しい古代河内湖沿岸 を常日頃、眺めることができました。

仁徳天皇が「国見」をするには上町台地の東側、眼下に広がる「葦原中津國」を眺める高台がふさわしく、そこは東高津宮の元宮、現在の上本町駅あたりだった可能性が非常に高いと考えます。
冒頭の写真の通り現在ではビル街ですが…
しかしこの中に、古代を想像するに足る複数の『こん跡』が残されているのです。
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ここまで長くなりましたので次回に。
次回は、東高津宮や近鉄上本町駅、磐船山の碑などに残された『こん跡』から「磐船」「磐船山」の伝承を絡めて少し深掘りします。
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