難波の高津宮 に宮殿を置いたとされる古墳時代中期の #仁徳天皇(第16代)。#難波高津宮 は難波宮公園あたりにあったというのが定説ですが、私は現在の #近鉄上本町駅 周辺ではなかったかと考えて(妄想して)います。#東高津宮 #元高津
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本文
西暦400年代、古墳時代中期の第16代仁徳天皇(大鷦鷯天皇、おおささぎのすめらみこと)は難波の高津宮(こうづのみや、たかつのみや)で善政を施したとされています。
「高津、こうづ」という地名は現在の天王寺区から中央区にかけた東西の広い範囲の中に、地名や神社名として残っていますが、
難波高津宮がどこにあったかは、遺跡や発掘物はなく所在は不明です。
私の推定(妄想)も含めたマップ(大阪市天王寺区・中央区に限定)を作ってみました。

豊臣秀吉公が大坂城築城の際に、敷地内にあった高津神社(高津宮)を現在の中央区高津(マップの左)に移転させたという話から、
現在の大坂城の南側から難波宮あたりにあったのではないかというのが定説です。
しかし難波宮跡からは飛鳥時代(36代孝徳天皇)の前期難波宮と、奈良時代(45代聖武天皇)の後期難波宮の遺跡は発掘されていますが、
それより以前の仁徳天皇時代の遺物は何ひとつ発見されていません。
明治時代には仁徳天皇の宮を探す運動が盛んになり、その関係で、現在の大阪府立高津高校の敷地内に「仁徳天皇難波高津宮跡碑」が建立されました。(敷地内のため写真無し。学校に申請すれば見学できます。)



個人的に最も可能性があると考えているのが近鉄上本町駅周辺。
今はご覧の通りビルで埋まってしまっていますが…
理由はいくつかあるのですが、第一は「元高津」といわれる東高津宮(神社)の存在。
当社はもともと現在の近鉄上本町駅の敷地内に鎮座していたのですが、駅開発に伴い、現在地(天王寺区東高津町)に遷座しました。
ゆえに現在の中央区高津の高津宮に対して「元高津」と呼ばれているのです。
東高津宮境内には磐船稲荷神社も鎮座しており「磐船、いわふね」というキーワードで「磐船山の碑」とも繋がっていると考えられます。
私が下照姫とアメノワカヒコの住まい(宮殿)があったと推理している産湯稲荷神社あたりが磐船山とすれば、
仁徳天皇の難波高津宮は「磐船山」に関連して置かれた可能性も考えられます。
なぜならば、古墳時代の磐船山は、弥生時代以降、大和川と淀川の堆積で古代河内湖が大阪平野に変貌する「クニウミ」の現場(国見の台)であったからです。

妄想ついでにもうひとつ書いておきますと、もしかしたら仁徳天皇の墓(古墳)は、マップの真田山(戦国時代、真田幸村公の活躍にちなんだ呼称)、現在の陸軍墓地あたりにあったのかも知れないと考えたりします。
確証はないですが、あのあたりは大きな古墳だったんじゃないかと考えるからです。
もしかしたら境内の「真田の抜け穴」は古墳の石室跡かも知れませんよ。
じゃあ、仁徳天皇陵(堺市、大仙古墳)には誰が葬られているの?という疑問はさておいて😀
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