二・二六後、軍に逆らえず・・・第一章日中戦争
事件は、村中、磯部を主導者に、約一千四百人の部隊が首相官邸などを襲い、蔵相高橋是清、内大臣斎藤実、陸軍教育総監渡辺錠太郎らを殺害した。難を逃れた首相岡田啓介は、後年こう振り返っている。「二・二六事件は、陸軍の政治干与を押さえる最大のチャンスではなかったか。……ごくいい潮時だったと思うが、軍に逆らうとまた血を見るという恐怖の方が強くなって、ますます思い通りのことをされるようになってしまった」(『岡田啓介回顧録』中公文庫)。

広田内閣が発足するのは、三六年(昭和十一年)の二・二六事件の直後である。この事件は、「広田外交」はもちろん、日本の針路に重大な影響を及ぼした。
歴史社会学の筒井清忠氏によると、三〇年代の陸軍には、中枢部をなした宇垣(一成)派に抵抗してきた荒木貞夫、真崎甚三郎ら九州閥の将官たちと、彼らを担いでいた一夕会の幕僚グループ、その下に青年将校のグループが存在した。ここに「皇道派」が形成され、荒木陸相(犬養、斎藤内閣)は、彼らとの提携によって実現したのである。
荒木は、参謀次長に真崎を充てたのをはじめ、陸軍省、参謀本部の中枢に山下奉文(ともゆき)、小畑敏四郎(おばたとししろう)、鈴木率道(よりみち)らを起用するなど党派的人事を行った。結局、荒木は、強引な人事への反発と政治力の不足などから辞任せざるをえなくなり、後任には林銑十郎が就いた。林は、永田鉄山(てつざん)を軍務局長に起用した。永田は、東条英機、武藤章、富永恭次(とみながきょうじ)らと「統制派」を形成し、皇道派との対立が先鋭化していく。
三四年十一月、皇道派の青年将校の村中孝次(むらなかたかじ)、磯部浅一(いそべあさいち)らがクーデター計画容疑で逮捕され、続いて真崎教育総監が罷免されると、皇道派はついに永田軍務局長を暗殺(三五年八月)した。こうして追いつめられた形の皇道派が起死回生をはかろうと引き起こしたのが、二・二六事件だった。
事件は、村中、磯部を主導者に、約一千四百人の部隊が首相官邸などを襲い、蔵相高橋是清(これきよ)、内大臣斎藤実(まこと)、陸軍教育総監渡辺錠太郎(じょうたろう)らを殺害した。難を逃れた首相岡田啓介は、後年こう振り返っている。「二・二六事件は、陸軍の政治干与(かんよ)を押さえる最大のチャンスではなかったか。……ごくいい潮時だったと思うが、軍に逆らうとまた血を見るという恐怖の方が強くなって、ますます思い通りのことをされるようになってしまった」(『岡田啓介回顧録』中公文庫)。

残虐非道のテロリズムの前に、政治指導者は震え上がり、抵抗の術(すべ)をなくしてしまう。
二・二六事件後は、寺内寿一陸相のもと、梅津美治郎陸軍次官が重きをなす一方、石原莞爾系と、武藤章系の両グループが力をつけていく。間もなく石原と武藤は対立していくが、それを予感させるエピソードがある。
三六年秋、関東軍参謀の武藤は、内蒙古を日本の影響圏にしようと、綏遠(すいえん)事件を起こした。参謀本部戦争指導課長だった石原莞爾は満州に飛んで、中止を直接指示したが、武藤はこう反論した。「私たちは、石原さんが満州事変の時に、やられたものを模範としてやっている。あなたからおしかりを受けようとは思ってもいなかった」。下克上のリーダーは、下克上によって報復されることになった。