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1964年10月23日夜、東京・駒沢屋内球技場で行われた東京五輪女子バレーボールの決勝。戦後復興の象徴となる大会で、国の威信を懸けてソ連と戦った日本は、鉄壁の守備で3―0のストレート勝ちを収めた。
“魔女”と呼ばれた選手たちも一斉に泣き崩れる。ただひとり、主将の中村昌枝さん(旧姓・河西。2013年に80歳で死去)は、落ち着いて仲間をねぎらっていた。もしかしたら、この時、中村さんの心には、ふるさとの父の顔が浮かんでいたのかもしれない。

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1933年、現在の南アルプス市で、4きょうだいの末っ子として生まれた。「幼い頃からとても大きくて、落ち着いていた」。そう振り返るのは、中村さんの3歳上のいとこ・原しめじさん(95)(同市)。原さんが小学校低学年の時には、中村さんはすでに原さんより10センチほど背が高かったという。中学でバレーを始めた中村さんと一緒に練習をすることもあったが、「スパイクも強く、その時からバレーが上手だった」。
中村さんは県立巨摩高に進学後、エースとして活躍。後に「東洋の魔女」と称された日本代表を築く「大日本紡績貝塚工場」(大阪府貝塚市)の実業団へと進む。

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「鬼の大松」と知られた大松博文監督がいたが、「中村さんのほうが厳しかった」。当時の主力メンバー、神田好子さん(84)(大阪府)は、そう懐かしむ。レシーブ練習では、中村さんの強烈なスパイクにミスをすると「なんで取れへんの」とさらに厳しいコースへと放つ。練習は朝日が昇るまで続いたこともあった。そのかいもあり、チームは体を回転させて素早く立ち上がる独自の技術「回転レシーブ」を編み出す。「『私がしごいたからやで』と中村さんはよく笑っていましたね」
62年のモスクワでの世界選手権で優勝を果たすと、中村さんは「100%引退するつもりでいた」。「結婚適齢期」が強く意識された時代。他も皆同じ考えだった。だが、開催が決まった東京五輪でバレーボールが正式競技に採用される。チームには「出場してほしい」と数千通の手紙が届き、国民の強い願いが心を変えた。翌年早々、大松監督が意思を問うと、真っ先に「やります」と中村さん。仲間らもそれに続いた。
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その決意は、並々ならぬものだった。五輪を3か月後に控えた7月、父・栄一さんが危篤に。だが、「動揺すらみせなかった」と神田さん。父が亡くなっても、日帰りで葬儀に参列するだけだった。

ただ、原さんは、葬儀に訪れた中村さんの疲弊しきった様子を覚えていた。激しい練習だけではなく、悲しみもあったのか。「ボロボロの様子で、足を引きずりながら帰ってきたし、さみしい顔をしていた」。花嫁姿を楽しみにしていたという栄一さんに、中村さんは「親不孝をわび、墓前に金メダルを供えることだけを心に誓った」。
念願のメダル獲得後、中村さんらが地元
最後に訪れた実家では、庭で母・まさ代さんが金メダルを掲げた。観衆からは大歓声が上がり、隣の中村さんも満面の笑みをみせた。原さんは「一番見せたかったお父さんに、見せたんでしょう」と目を細める。
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引退後は子宝にも恵まれ、各地のママさんバレーの指導などに携わり、後進の育成に力を入れた。2007年6月には、山梨市で行われたバレーイベントに参加。地元ケーブルテレビの映像には、背筋をピンと伸ばし、はつらつと話す中村さんの様子が残る。「私にとってのふるさと・山梨で開催できることをうれしく思っております」
13年に2度目の東京五輪開催が決まった直後、中村さんは脳出血でこの世を去る。仲間が駆け付けた