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初めて眺めた風景だったが、違和感を覚えた。切り開かれた山の斜面に9万5000枚の太陽光パネルが光る。福島市の西部、先達山に建設されたメガソーラーだ。景観の

今年はメガソーラーを巡る地元との
日本の太陽光発電政策は、オイルショック翌年の1974年、政府が始めた「サンシャイン計画」にたどり着く。2000年をメドに太陽光、地熱、水素など、石油に代わるエネルギーの活用技術を産学官が連携して開発するという、長期の国家プロジェクトだ。その名の通り、主役は太陽光だった。「太陽エネルギーを考えるとき、その量の大きさは我々に未来を約束している」。計画には期待の大きさが表れている。

元三洋電機社長の桑野幸徳さん(84)は、計画に参加した一人だ。計画では、当時1ワット当たり数万円だった太陽電池製造コストを00年に100円まで下げる目標を設定した。「コストを100分の1に下げれば、既存の発電コストに対抗できる。そこから逆算した目標だった」と桑野さんは振り返る。
1992年7月、桑野さんは自宅で住宅用の太陽光発電を稼働させた。余った電気は電力会社に売る仕組みだ。「太陽光発電の普及に売電は欠かせない」。今では当たり前だが、「なぜ桑野さんから電気を買わないといけないんですか」と言う電力会社を説得した。
自宅に設置したのは、世界初のワクチンを開発した英国の医師ジェンナーからの連想だったという。ジェンナーは、まず、自分の子どもに試してその効果を確かめた――後に、このエピソードは誤解だと知ったそうだが、当時は信じていた。これが、日本で初めて電力会社の送電線につながった住宅用太陽光発電だ。
その後、国の補助金政策などもあり、この仕組みは一般住宅に広がった。計画が果たした意義は大きい。
今、メガソーラーを巡る問題をどう見ているのだろうか。「自宅には見学者も多く訪れた。電気は危険でもある。安全性を示すため、現場もデータも公開した」「どんな政策も国民の理解なしには成り立たない。建設に地元の理解が必要なのは当然」。農地の上部にパネルを設置する営農型太陽光発電や、折り曲げられる次世代のペロブスカイト太陽電池が場所の確保に有効だと訴える。
軋轢は、普及の裏返しで起きている問題だろう。普及に尽力した桑野さんの話を聞いて、半世紀前の計画が行き着いた一つの「到達点」とも思えてくる。

福島市のメガソーラーを見た夜、市内の映画館に立ち寄った。上映されていたのは福島テレビが制作したドキュメンタリー「劇場版 かげる針路」。原発事故以降、メガソーラーが増えるにつれ、住民の不信感も高まる現状を丹念に取材した。放送は、優れたテレビ番組に贈られるギャラクシー賞で今年度の奨励賞を受賞した。「どんどん景観が悪くなっていく」と訴える市民の言葉が印象に残った。