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太平洋戦争開戦の日、12月8日が近づいてきた。ほとんどの日本人が「終戦の日」は「8月15日」と即答できるだろうが、開戦の日を聞かれると戸惑う人もいるのではないか。日本時間の昭和16年(1941年)12月8日、日本はマレー半島に上陸し、ハワイの真珠湾を奇襲して米英と戦闘状態に入った。
8月15日は「戦後」が始まった日でもあるから、歴史の節目としても重要な日だ。だが、なぜ日本が対米開戦という無謀かつ最悪の道を選んだのかを知り、同じ失敗を繰り返さないことを誓う日は、本来は12月8日なのかもしれない。

ノンフィクション作家の

夢枕に立った山本の要請にもかかわらず、半藤が『[真珠湾]の日』を書きあげたのは、『日本のいちばん長い日』から36年も後のことだった。真珠湾攻撃に至るまでの経緯について、半藤の言葉を借りれば「牛もへたばるくらいの」膨大な研究がすでにあり、文献、論文の整理だけでも大変な作業になったことが一因だという。
開戦直前まで約半年にわたって続いた避戦に向けた日米交渉の経緯は複雑で、当事者の思惑や駆け引きが

だが、日本が最終的に開戦を選択した日が、83年前の昭和16年11月27日(米国時間11月26日)だったという点は、研究者の見方はほぼ一致している。この日、米国務長官のコーデル・ハル(1871~1955)が駐米大使の野村吉三郎(1877~1964)と特命全権大使の来栖三郎(1886~1954)を国務省に呼んで「ハル・ノート」を手渡した。一切譲歩しない中身を読んだ日本は、米国の最後通告と受け止めた。
実はハルはその前日まで、日本側の最終譲歩案(乙案)に配慮した「暫定協定案」を手渡す予定だった。それが見送られたのは、前日になってフランクリン・ルーズベルト大統領(1882~1945)が指示したため、といわれている。

ルーズベルトはなぜ突然、暫定協定案をハル・ノートに差し替えさせたのか。米国の一日も早い参戦を望むウィンストン・チャーチル英首相(1874~1965)と中華民国の胡適駐米大使(1891~1962)が暫定協定案の提示に猛烈に反対したから、日本が大輸送船団を仏印(インドシナ半島)近海に集結させつつあるという情報が入り、ルーズベルトが激怒したから、など、あまたの文献でさまざまな説が唱えられているが、誰もが納得できるものはいまだにない。だが、謎の中に、どうやら間違いないことがある。心変わりの背景に、日米交渉を通じてルーズベルトが日本に不信感を募らせていたことがあったというのだ。
昭和6年(1931年)の満州事変以降、日米は直接の軍事衝突は避けつつ、太平洋を挟んでアジアの覇権をめぐる確執を続けてきた。昭和15年(1940年)9月23日、陸軍が北部仏印に進駐すると、その3日後に米国は
こうした中で関係修復を目指して日米交渉が始まったわけだが、交渉はたたき台となる「日米
米国は諒解案と同時に〈1〉すべての国の領土と主権の尊重〈2〉他国への内政不干渉〈3〉通商上の機会均等〈4〉平和的手段による変更を除く太平洋の現状維持――という「ハル4原則」を野村に示し、日本にくぎを刺しているのだが、交渉が最初から不首尾に終わることを恐れた野村は、4原則をすぐに日本に打電しなかった。

ドイツ・イタリア訪問中だった松岡洋右外相(1880~1946)が帰国すると、交渉の先行きはさらに不透明になる。松岡は諒解案の中身以前に、「自分は聞いていない」とへそを曲げ、交渉をつぶそうと動いた。近衛は松岡外相を更迭し、ルーズベルトとの首脳会談を提案して局面打開を目指すが、近衛は米側の反応を読み違えて南部仏印進駐を容認し、米国は石油輸出を全面停止する。事態を悪化させた近衛は、交渉が暗礁に乗り上げると政権を投げ出してしまう。
石油がなければ戦闘機も軍艦も動かせない。軍部は「備蓄があり、荒天が少ない12月までに開戦しないと勝機はない」と焦り、和平交渉をしつつ対米英開戦を準備するという国策が決められた。これが知れたら米国の譲歩は絶望的になるから、開戦準備は秘密とされたが、米国にはそれが筒抜けになっていた。

日米交渉前から米国は日本の暗号電信の解読に成功し、日本の交渉方針をはじめとする機密情報は「Magic(マジック)情報」として大統領や主要閣僚、軍の幹部に届けられていた。それだけでも万事休すといえるが、暗号解読では、さらに対日不信を増幅させる問題が起きていた。解読した暗号の英訳に、米国の対日不信を増幅させるような誤訳があったのだ。
最もひどかったのは、日米交渉の最終段階での日本側提案の誤訳だろう。日本は交渉の最終段階で、これで収まればありがたいと考える「甲案」と、ギリギリの譲歩案といえる「乙案」を用意した。米側はマジック情報で、甲、乙両案はもちろん、野村に「甲案の後に乙案があることを米側に悟られないように」という指示が出ていることまで事前に知っていたから、甲案を示されたハルはまったく関心を示さなかった。

だが、その理由は、最終譲歩案でないから、だけではなかった。甲案は〈1〉通商無差別問題〈2〉三国条約の解釈及び履行問題〈3〉撤兵問題――の3章で構成され、暗号電報には最後に「なお、(ハル)4原則については今回の日米の正式な取り決め事項に入れないように努力せよ」という野村への指示が書かれていたのだが、マジック情報ではこの「なお書き」が、「〈4〉原則として、これを日米間の正式な取り決め事項に入れないように努める」と誤訳されていたのだ。

これでは〈1〉から〈3〉までは提案はするが、正式文書にする気はありません、と読めてしまう。そこまで小細工をした案が最終提案でないことも、次に出てくる乙案の中身も、米国はすべて知っているのだ。この期に及んでも日本はなお不誠実極まりない、と米側が考えたのも無理はない。
ほかにも「国民に真に戦争への決意を固めさせる」を「新たな(シンニを新にと誤読)戦争への決意」と誤訳して、日本に戦線拡大の意図ありとみなしたり、「撤兵までの期間は25年をめどにする方針で交渉せよ」という指示を「25年くらいとぼかして答えよ」と誤訳し、兵を退く気がない証拠とされたりした例があった。歴史学者の森山

それでも米国が交渉を続けたのは、時間稼ぎのためだった。ドイツは日米交渉の開始直後にソ連に侵攻し、モスクワまであと20キロの地点にいた。早々に交渉を決裂させてしまうと、ソ連がドイツに降伏したのを見届けた日本と戦うことになり、米国は欧州で英国を十分支援できなくなる。米陸海軍もハルに対し、「対日戦の準備にはもう少し時間がかかる。できるだけ引き延ばしてほしい」と要請していた。
ハル・ノートを野村に手渡した後、ハルは米陸軍長官に「私はそれ(暫定協定案)から手を洗ったよ。あとは陸海軍でやってくれ」と告げ、引き延ばし交渉が終ったことを告げている。ハルも暫定協定案をハル・ノートに差し替えた時点で日米交渉の決裂を覚悟していた。
ハルが日本の乙案に対して用意していた暫定協定案は、日本が仏印、満州国境、南方にこれ以上軍隊を増派しないこと、米国が欧州戦争に参加しても日本は三国同盟を発動(米国との戦争を)しないことを約束すれば、3か月間は対日石油禁輸を解く、とする内容だった。開戦が3か月延びただけではないか、と思われるかもしれないが、この3か月には大きな意味があった。

ハル・ノートを受け取り、日本が12月8日の開戦を決めた後の12月6日、ソ連軍の総反撃でモスクワ郊外のドイツ軍は総崩れとなっている。可能性は小さいとはいえ、いったん頭を冷やし、「ドイツがソ連と英国を破れば米国は戦意を喪失し、早期講和に持ち込める」という甘い見通しが崩れるのを見た日本が、対英米開戦の回避に動く可能性はゼロではなかったはずだ。半藤は『[真珠湾]の日』の中で、「歴史に『もしも』はない、とは承知していながら、どうしても、乙案によりそったようなこの暫定協定案が日本に提示されていたならば、といささか未練がましく問いただしたくなってくる」と記している。
こうした経緯を踏まえると、半藤の夢枕に立った山本が、開戦の日に二つの無念を抱えたことがみえてくる。最後まで日米開戦に反対だった山本は、どうしても戦うならこれくらい奇想天外な作戦をやってのけないと、と真珠湾攻撃を立案した。海軍機動部隊はハル・ノートが手渡される前日に

奇襲にもかかわらず、山本は事前に米国に最後通告を伝えることを強く望んだ。ところが事実上の宣戦布告となるハル・ノートへの日本の回答、つまり日米交渉の打ち切り通告は、駐米日本大使館が暗号の解読と清書に時間がかかったために遅れてしまう。これが二つ目の無念だ。
半藤によると、山本がそのことを知ったのは昭和16年の暮れか、17年(1942年)の初め。山本は「残念だなあ。僕が死んだら、陛下と日本国民には、連合艦隊は決して初めからそういう(だまし討ちのような)計画をしておりませんと、そうはっきり伝えてほしい」と語っていたという。