

戦国時代の大名の中でも大きな勢力を持っていた武田信玄によって、戦国の陣形とも言える戦国八陣(せんごくはちじん)が生み出されます。ただ、生み出すというよりは、すでにあった陣形の史料を皆が理解しやすいように解釈したもの。戦国八陣誕生のきっかけになったのが、信玄の家臣で、兵法家でもあった「山本勘助」(やまもとかんすけ)です。当時は、中国から伝わっていた八陣の考え方が良いものだというイメージはあっても、内容をしっかり理解できる日本人は限られていました。そのため、日本の陣形には決まった形があるとは言えず、古代中国の軍法は、ほとんど導入されていなかったのです。勘助は、まずは利用価値のある中国の軍法を自軍に取り入れて、戦局で優位に立てるようにした方が良いのではと考えました。そこで、信玄配下の武将によって、これらの陣形を組むことができるようにすることを信玄に提案。この進言を、信玄が採用したことにより、日本の合戦シーンに戦国八陣が登場したのです。戦国八陣は、ひとつの史料に基づいたものではなく、実際は中国・三国時代の軍師「諸葛亮孔明」(しょかつりょうこうめい)の八陣図、唐代の知識人「李善」(りぜん)の「雑兵書」に見られる八陣、さらには秦から漢の時代にかけての軍師「張良」(ちょうりょう)が創作したとされている八陣として伝承されたものが参考にされたのではないかと言われているのです。以下において、武田信玄の戦国八陣「長蛇の陣、偃月(えんげつ)の陣、鋒矢(ほうし)の陣、鶴翼(かくよく)の陣、雁行(がんこう)の陣、方円の陣、魚鱗(ぎょりん)の陣、衡軛(こうやく)の陣」を見ていくことにします。

長蛇の陣
隊がほぼ縦一列になり、長い列を作って長蛇のように見えることからこう呼ばれました。
縦方向の兵の層が厚くなる一方で、手薄になる横からの攻撃に弱かったため、平地ではあまり戦法として使われず、谷での合戦など、地理的に横に広がることが不可能で、どうしても縦長にならざるを得ない場合の陣形として使われていたのです。

偃月の陣
「偃月」(えんげつ)とは、半月のこと。つまり、半月のように中央部分を前衛にし、両翼を下げる陣形のことを指しました。
中央部分が戦場の最前線に立つということは、大将を含めた精鋭部隊が前に出て戦うということ。前線で戦う大将の姿を見て後方にいる兵の士気は高まります。
しかし、大将が討ちとられる危険性が高まりますし、大将が先頭に立って戦うことになるため、戦闘中の軍の指揮系統が十分に機能するとは言い切れません。そのため、通常の状況では、このような陣形は好まれませんでした。
偃月の陣が好まれたのが、背面に川などがあって逃げ切れないような、「背水の陣」とも言える状態の場合。大将としては、何とかして兵の士気を高めて戦を乗り切り、あわよくば勝利へと導く必要があります。絶体絶命の状況や、厳しい地形などの不利な条件下において取り入れられたのです。

鋒矢の陣
上矢印のような陣形のことで、先頭に立つ隊に重点を置きました。攻撃重視で、敵が前方だけにいることが分かっている場合に有効な陣形。
先頭集団の真ん中を中心に両翼を下げる形は、偃月の陣に通じる部分もありますが、偃月の陣とは大将のいる位置が違いました。偃月の陣では大将も前線にいますが、鋒矢の陣では大将は後方にいるためです。
もっとも、鋒矢の陣は前方の敵に対する攻撃には有効な手段ではありましたが、前方を重視している分、横や後方からの攻撃に弱い部分もありました。
つまり敵の援軍などによって、敵に囲まれる可能性のある戦には向かない陣形であると言えます。

鶴翼の陣
一般的には、鶴が翼を広げるようにV字型に開いた陣形を指します。実際の戦でも用いられた、八陣の中でもよく知られる陣形でした。
しかし、鶴翼の陣に関しては必ずしも陣形がV字であったとは限らないという説があるのも事実。戦国時代以降の軍事書物の中には、鶴翼の陣とされているものでも、大将を真ん中の奥に配置する部分は共通しているものの、陣形がV字と言えないものもあるためです。
これは鶴翼の陣がV字という固定された形ではなかったことを意味しています。実際には、鶴が翼をはばたかせるように逆V字型になったり、Wのような形になったりと変化する陣形だったのです。
いずれの鶴翼の陣においても共通していたのは、大軍を操って敵を包囲するように仕向けるということ。鶴翼の陣とは、V字型の陣形を組むというより、相手を包囲するようにして追い込む形の号令だったのではないかとの見方もあります。

雁行の陣
雁行の陣は、雁が群れるような形状となっているものを指した陣形。一見、長蛇の陣に近い陣形ですが、長蛇の陣のように一列にまっすぐ並ぶのではなく、兵を少しずつずらして斜めに並ぶような形でした。
また、列に厚み(横幅)を持たせて、長蛇の列よりも列が短い分、横からの攻撃に対応できるようにしているのも特徴です。
単独で使った以外にも、他の陣形と組み合わせて用いることもあり、他の陣と組み合わせた場合は、雁行の陣を盾や壁代わりにしていました。

方円の陣
方円の陣は、円のように陣を組む陣形のこと。四方に同じくらいの兵力を注ぐことで、どの方向からの攻撃にも対応可能であるというメリットがありました。そのため、いつどこから攻撃されるか分からない奇襲に対して強さを発揮します。
しかし、全方位に薄く広く兵を配置しているため、敵が鋒矢の陣などを用いて一部を集中的に攻撃されてしまうと、攻撃を受けた部分の兵力が不足してしまい、一気に崩れてしまうデメリットも。そのため長期の合戦には向かず、あくまでも奇襲攻撃に備えるという意味で効果を発揮できる陣形だと言えます。

魚鱗の陣
魚の鱗のような、逆三角形の陣形のことを指します。一点突破の攻撃に特化した陣形で、兵が集まって陣を作るため、兵が分散しない特長がありました。
兵が散らないということは、敗走した兵との相討ちも防げますし、兵の士気を高めたまま戦を続けることも可能。攻撃を展開して、相手の隙を突く点では効果が期待できたのです。
この陣形は、攻撃に特化した形であることから、敵からの攻撃を防ぐ点については、弱さが見られました。
具体的には、後方などからの攻撃など、不意討ちに対応しにくかったのです。また、兵が一点に集中してしまうため、敵に包囲された場合、形勢逆転されてしまう脆さがありました。

衡軛の陣
魚鱗の陣のように敵を包みこむように前列を布陣し、後列は前列とずらすように防衛のための布陣を作る陣形です。敵を包み込めるだけの兵力がある場合に有効でした。
また、魚鱗の陣は攻撃よりの布陣になりますが、衡軛の陣は攻撃にも防御にも対応できるようにした陣です。
そのため、積極的に敵陣に攻撃を仕掛けるというよりは、敵陣を誘い込み攻撃を仕掛けるよう誘導して、一気に包囲して攻撃を畳みかけたい場合に使われました。
ここまで、武田信玄の戦国八陣について見てきましたが、実際に、戦国八陣には決まった定型があった訳ではないと言われています。一般論としての戦国八陣は、あくまでも後世において固められたものであり、実際の戦場では共通のイメージとして定着していました。同じ陣形であっても、違う形の陣形として紹介されている中世以降の軍事史料があるのもこのためです。
例えば、魚鱗の陣であれば、魚の鱗のようにきれいに布陣するのではなく、一点に兵が集まっているというイメージになります。武田信玄が目指したのは、陣形を固定した形にするのではなく、イメージの可視化だったのです。
実際の戦場におけるイメージとしての陣形は、地形や戦況に合わせた流動的なものでした。そのため、ひとつの固定した陣形に縛られるのではなく、複数の陣形を組み合わせることも少なくなかったと言われています。



