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- 2025年11月
Cboeジャパン撤退の意味―日本の株式市場の構造変化
森本 学・当研究所理事長
要旨
この8月末をもって、Cboeジャパンは日本におけるPTS業務を終了した。Cboe(シカゴ・オプション取引所)は、言うまでもなく米国三大取引所グループの一つであり、2021年に買収により日本に進出して以来、その事業展開は注目されてきた。この予想外に早いCboe撤退(これにより日本に独立系PTSは無くなった)の背景には、現在、日本で急速に進む大手リテール証券の株式取引執行の内部化(インターナライゼーション)の動きがある。そうした取引執行の内部化は、ネット取引の手数料無料化や海外におけるPFOFと同様の現象が引き金となっており、この傾向は継続するものと思われる。その結果、日本の株式市場の市場構造は、唯一のマルチの取引ベニューである東証と複数の内部化市場からなる独特なものとなる。これは、「市場間競争」の変質を意味しており、その適切な競争環境を保っていくためには、新たな市場ルールの形成が必要である。
Cboeの日本進出
2021年、Cboe(シーボー)はChi-X(チャイエックス)の日本及び豪州の業務を買収して、日本進出を果たした。一部では、ナスダック・ジャパン(2000年)以来の黒船来航と評された。当時、CboeのトムチクCEOは、「日本は大きな市場だ。長期的に関与したい」、「売買シェアを高め、金商法上の取引所になりたい」と述べ、さらに、「日本で競争力のある市場を作るには、複数の取引所が必要だ」と語った。そして、Cboeが取引所になる場合に問題となる、日本には非上場取引特権(UTP)が無いことや取引所に対する大口出資規制(20%)について、早くも問題提起し、当局と議論したいという意向を示していた。
Cboe撤退の理由
Cboeが日本のPTS業務から撤退した直接の理由は、楽天証券からのオーダーフローの事実上の途絶である。Cboeジャパンは、株式取引の4~5%の市場シェア(SBIジャパンネクストに次ぐPTS第2位)を占めていたが、注文の6~7割は楽天証券からのものであった。その楽天証券が中心となって自前のPTS(「JAX」)を設立し、2024年12月に運用を開始したため、楽天証券からCboeジャパンへのオーダーフローは段階的に縮小し今夏にはほぼ途絶した。このためCboeは、日本の市場環境に事業の見込み無し、として早期撤退を決断した(Cboeの見切りの早さも、印象的である)。
株式取引執行の内部化進行の背景
2024年に、既述のように楽天証券は自前のPTSを始めたが、一方、SBI証券は「SBIクロス」と称する自社ダークプールでの自社注文執行を開始した(4月)。楽天証券は既に、「Rクロス」という自社ダークプールでの執行を行っており、SBI証券は自前のPTS(SBIジャパンネクスト)で執行していたので、昨年、日本の二大リテール証券は自社注文を自前のPTS又はダークプールで優先的に執行する体制を整えたことになる。
それでは、何故、大手リテール証券は自らPTSやダークプールを運営し、そこで自社注文を執行しようとするのであろうか。
一般的にリテールのオーダーフロー(注文)は、市場動向を予測する上で価値が高く、マーケットメーカー(現代ではHFT)は、その注文を執行するのに(執行費用の徴収ではなく)逆に対価を払うことを厭わないのである。米国では、大手のリテール証券(チャールズ・シュワブ、ロビンフッドなど)は、ホールセラーと呼ばれる証券業者(実態はシタデルなどHFT)に自社の注文を取り次ぎ、PFOF(ペイメント・フォー・オーダーフロー)と呼ばれる報酬を得ている。
日本では、このメカニズムがインハウス化しており、大手リテール証券は自前のPTS(以下、「内部化PTS」)や自社ダークプールを自社注文の優先的な執行の場としている。それは、内部化PTSや自社ダークプールに参加するマーケットメーカー(HFT)から厚めのフィーを徴収するためである。そして、その収入は2023年秋から始まったネット証券の「手数料無料化」を賄う原資となっているのである(実際、SBI証券(「ゼロ革命」)や楽天証券(「ゼロコース」)の手数料無料コースは、内部化PTSや自社ダークプールでの優先執行が条件になっている)。
「市場間競争」の変質
「市場間競争の促進」は、金融ビッグバン(1998年)で取引所集中義務を撤廃したとき以来の金融行政のドクトリンである。そして、東証・大証統合の際、当局はPTSを東証の主たる競争相手と位置付けた(公取の合併審査において、金融庁は規制緩和によりPTSの取引増加を促し、公取はそれにより東証とPTSとの間に競争が存在するとして合併を承認した(2012年))。
今回のCboeジャパンの撤退により、日本に独立系PTSは存在しなくなった。それは、多数の金商業者の注文を付け合わせるマルチな取引ベニューは、事実上東証だけになったことを意味する。他の取引ベニューは、(他社からのオーダーフローも多少あるものの)基本的に内部化PTSか自社ダークプールであり、(東証との間は別として)相互に殆ど競争は存在しない(「日本型市場構造」)。また、現在、SBI証券や楽天証券は、信用取引は内部化PTS、現物取引は自社ダークプールを優先執行の場としているが、それは金融庁の規制により、信用取引はダークプールでは執行できないからであって、もしそれが無ければ、PTSでの取引は、運営コストが安く自由度が高いダークプールに大幅にシフトするだろうと言われている。
つまり、東証と同種のマルチの取引ベニューはもはや存在せず、「市場間競争」はあるとしても、相当異なる性質の者同士のいわば「異種格闘技」のような様相を呈しているのである。
日本型市場構造の成因と評価
それでは何故、日本の株式市場の構造はこの様になってしまったのだろうか。勿論、東証一極集中という歴史的な経緯はある。しかし、マルチのPTSが(当初は多数参入があったものの)結局無くなったことには、他にも理由があるものと思われる。
米国では、約50の取引ベニューが併存し、マルチの取引ベニューも多数存在している。それは、NBBO(全米最良気配)での執行義務付けが、取引ベニューの参入の敷居を著しく低くしていることが影響している。新しい取引ベニューでも、少しでも良い気配を出せば、米国中から注文が回送されて来るからである。
日本の最良執行方針は、マルチの価格比較を必ずしも求めておらず(「価格を比較する市場」、「市場の選択方法」などの明示を求めている)、このため、SBI、楽天などネット証券の執行方針は、自前のPTS・ダークプールと東証の価格を比較することが中心になっている。こうした取引ルールの違いも、現在の日本株式市場の極端な二極化(東証のマルチ一極+内部化市場)を招いている一因であるものと思われる。
2022年に金融審市場制度ワーキングは、「適切な市場間競争」による「市場インフラの機能の向上」のため、PTSに対する(オークション方式にかかる)取引高上限規制の緩和を答申した。その審議の過程では、PTSの機能強化により、東証のシステム障害時の取引代替を期待する意見も表明された。しかし、現在の市場構造では、東証障害時にPTSが取引を代替することは、とても覚束ないであろう。なぜなら、唯一のマルチ取引ベニューである東証の価格形成が機能していないと、HFTもPTSでマーケットメイクしづらいし、リテール証券も自社市場の気配だけで(東証と比較することなく)注文を執行することは、かなり憚られるからである。
足元では、PTS及びダークプールの市場シェアは顕著に上昇している(2021年から2025年(1-6月)にかけて、PTSは8.8%→12.2%、ダークプールは3.1%→5.0%となっている)。そして、大手リテール証券が自前の執行体制を整えたのが、昨年から今年にかけてであったことを考えると、この趨勢はしばらく続くであろう。
新たなルール形成の必要性
従来から、金融庁は「市場間競争」の重要性を強調してきたが、その際には、漠然と同種の取引ベニュー間の競争を念頭に置いていた様に思われる。しかし、上述の様に日本の市場間競争は異種格闘技になっていることから、これからの取引・市場ルールは、(単に市場対市場ではなく)市場参加者の関係性やインセンティブなど、より市場の中身に踏み込んだものに転換することが必要である。
例えば、PFOFは、米国では利益相反や最良執行の点で懸念があることから、リテール証券会社には詳細な開示(PFOFの受取額など)や顧客説明が求められている。また、英国、豪州や一部EU諸国は、PFOFを禁止している。金融庁は、「日本でPFOFの例は確認されていない」(「金融審「最良執行のあり方等に関するタスクフォース」報告書(2021年6月))としているが、経済的には同等のことがインハウスで進行しており、実態に即した議論が必要である。
また、リテール大手は(簡単に言えば)「東証に比べて有利又は同値の時は」自社市場で執行する方針をとっているが、ティックサイズを(東証比)細かくすることで(微差で)有利な価格を現出させている。欧米ではティックサイズの市場ルールが定められており、日本でも異種格闘技におけるフェアな競争条件とは何かという観点から、そうした市場ルールの整備も検討すべきであろう。
さいごに
近年、株式市場では(米国でもそうであるが)、ネット取引無料化などの影響もあり、大手リテール証券とHFTの影響力が強まっている。日本では、SBI証券、楽天証券を中心とするネット証券の株式取引における量的プレゼンスは圧倒的になってきている(対面のリテール証券は、投信・ラップや外国株に注力しているところが多い)。それに応じて、日本の株式市場の構造もかなり質的に変化している。
Cboeジャパンの撤退は一事業者の動きに過ぎないが、市場構造の観点から、「桐一葉落ちて天下の秋を知る」必要もあるのではないだろうか。
(以上)
(本稿の内容は、金融ファクシミリ新聞社の許可を得たうえで、筆者が同社の「金融資本市場展望」に掲載した記事を加筆修正したものである)