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私の個人主義
夏目漱石
――大正三年十一月二十五日学習院輔仁会において述――
私は今日初めてこの学習院というものの中に
這入
(
はい
)
りました。もっとも以前から学習院は多分この見当だろうぐらいに考えていたには
相違
(
そうい
)
ありませんが、はっきりとは存じませんでした。中へ這入ったのは無論今日が初めてでございます。
さきほど岡田さんが
紹介
(
しょうかい
)
かたがたちょっとお話になった通りこの春何か講演をというご注文でありましたが、その当時は何か
差支
(
さしつかえ
)
があって、――岡田さんの方が当人の私よりよくご
記憶
(
きおく
)
と見えてあなたがたにご納得のできるようにただいまご説明がありましたが、とにかくひとまずお断りを
致
(
いた
)
さなければならん事になりました。しかしただお断りを致すのもあまり失礼と存じまして、この次には参りますからという条件をつけ加えておきました。その時念のためこの次はいつごろになりますかと岡田さんに
伺
(
うかが
)
いましたら、
此年
(
ことし
)
の十月だというお返事であったので、心のうちに春から十月までの日数を大体
繰
(
く
)
ってみて、それだけの時間があればそのうちにどうにかできるだろうと思ったものですから、よろしゅうございますとはっきりお
受合
(
うけあい
)
申したのであります。ところが幸か不幸か病気に
罹
(
かか
)
りまして、九月いっぱい
床
(
とこ
)
についておりますうちにお
約束
(
やくそく
)
の十月が参りました。十月にはもう
臥
(
ふ
)
せってはおりませんでしたけれども、何しろひょろひょろするので講演はちょっとむずかしかったのです。しかしお約束を忘れてはならないのですから、腹の中では、今に何か
云
(
い
)
って来られるだろう来られるだろうと思って、
内々
(
ないない
)
は
怖
(
こわ
)
がっていました。
そのうちひょろひょろもついに
癒
(
なお
)
ってしまったけれども、こちらからは十月末まで何のご
沙汰
(
さた
)
もなく打ち過ぎました。私は無論病気の事をご通知はしておきませんでしたが、二三の新聞にちょっと出たという話ですから、あるいはその辺の事情を察せられて、
誰
(
だれ
)
かが私の代りに講演をやって下さったのだろうと推測して安心し出しました。ところへまた岡田さんがまた
突然
(
とつぜん
)
見えたのであります。岡田さんはわざわざ長靴を
穿
(
は
)
いて見えたのであります。(もっとも雨の降る日であったからでもありましょうが、)そう云った
身拵
(
みごしら
)
えで、
早稲田
(
わせだ
)
の
奥
(
おく
)
まで来て下すって、例の講演は十一月の末まで繰り延ばす事にしたから約束通りやってもらいたいというご口上なのです。私はもう責任を
逃
(
のが
)
れたように考えていたものですから実は少々
驚
(
おど
)
ろきました。しかしまだ一カ月も
余裕
(
よゆう
)
があるから、その間にどうかなるだろうと思って、よろしゅうございますとまたご返事を致しました。
右の次第で、この春から十月に至るまで、十月末からまた十一月二十五日に至るまでの間に、何か
纏
(
まとま
)
ったお話をすべき時間はいくらでも拵えられるのですが、どうも少し気分が悪くって、そんな事を考えるのが
面倒
(
めんどう
)
でたまらなくなりました。そこでまあ十一月二十五日が来るまでは構うまいという横着な
料簡
(
りょうけん
)
を
起
(
おこ
)
して、ずるずるべったりにその日その日を送っていたのです。いよいよと時日が
逼
(
せま
)
った二三日前になって、何か考えなければならないという気が少ししたのですが、やはり考えるのが
不愉快
(
ふゆかい
)
なので、とうとう絵を
描
(
か
)
いて
暮
(
く
)
らしてしまいました。絵を描くというと何かえらいものが描けるように
聞
(
きこ
)
えるかも知れませんが、実は他愛もないものを描いて、それを
壁
(
かべ
)
に
貼
(
は
)
りつけて一人で二日も三日もぼんやり
眺
(
なが
)
めているだけなのです。昨日でしたかある人が来て、この絵は大変面白い――いや面白いと云ったのではありません、面白い気分の時に描いた
画
(
え
)
らしく見えると云ってくれたのでした。それから私は愉快だから描いたのではない、不愉快だから描いたのだと云って私の心の状態をその男に説明してやりました。世の中には愉快でじっとしていられない結果を画にしたり、書にしたり、または文にしたりする人がある通り、不愉快だから、どうかして好い
心持
(
こころもち
)
になりたいと思って、筆を
執
(
と
)
って画なり文章なりを作る人もあります。そうして不思議にもこの二つの心的状態が結果に現われたところを見るとよく
一致
(
いっち
)
している場合が起るのです。しかしこれはほんのついでに申し
上
(
あげ
)
る事で、話の筋に関係した問題でもありませんから深くは立ち入りません。――何しろ私はその変な画を眺めるだけで、講演の内容をちっとも組み立てずに暮らしてしまったのです。
そのうちいよいよ二十五日が来たので、
否
(
いや
)
でも応でもここへ顔を出さなければすまない事になりました。それで
今朝
(
けさ
)
少し
考
(
かんがえ
)
を
纏
(
まと
)
めてみましたが、準備がどうも不足のようです。とてもご満足の行くようなお話はできかねますから、そのつもりでご
辛防
(
しんぼう
)
を願います。
この会はいつごろから始まって今日まで続いているのか存じませんが、そのつどあなたがたがよその人を連れて来て、講演をさせるのは、一般の慣例として
毫
(
ごう
)
も不都合でないと私も認めているのですが、また一方から見ると、それほどあなた方の希望するような面白い講演は、いくらどこからどんな人を
引張
(
ひっぱ
)
って来ても容易に聞かれるものではなかろうとも思うのです。あなたがたにはただよその人が
珍
(
めず
)
らしく見えるのではありますまいか。
私が
落語家
(
はなしか
)
から聞いた話の中にこんな
諷刺的
(
ふうしてき
)
のがあります。――
昔
(
むか
)
しあるお大名が
二人
(
ふたり
)
目黒辺へ
鷹狩
(
たかがり
)
に行って、所々方々を
馳
(
か
)
け
廻
(
まわ
)
った末、大変空腹になったが、あいにく弁当の用意もなし、家来とも
離
(
はな
)
れ
離
(
ばな
)
れになって口腹を
充
(
み
)
たす
糧
(
かて
)
を受ける事ができず、仕方なしに二人はそこにある
汚
(
きた
)
ない
百姓家
(
ひゃくしょうや
)
へ馳け込んで、何でも好いから食わせろと云ったそうです。するとその農家の
爺
(
じい
)
さんと
婆
(
ばあ
)
さんが気の毒がって、ありあわせの
秋刀魚
(
さんま
)
を
炙
(
あぶ
)
って二人の大名に麦飯を勧めたと云います。二人はその秋刀魚を
肴
(
さかな
)
に非常に
旨
(
うま
)
く飯を済まして、そこを
立出
(
たちいで
)
たが、翌日になっても昨日の秋刀魚の
香
(
かおり
)
がぷんぷん鼻を
衝
(
つ
)
くといった始末で、どうしてもその味を忘れる事ができないのです。それで二人のうちの一人が他を招待して、秋刀魚のご
馳走
(
ちそう
)
をする事になりました。その
旨
(
むね
)
を
承
(
うけたま
)
わって驚ろいたのは家来です。しかし主命ですから
反抗
(
はんこう
)
する訳にも行きませんので、料理人に命じて秋刀魚の細い骨を
毛抜
(
けぬき
)
で一本一本
抜
(
ぬ
)
かして、それを
味淋
(
みりん
)
か何かに
漬
(
つ
)
けたのを、ほどよく焼いて、主人と客とに勧めました。ところが食う方は腹も減っていず、また
馬鹿丁寧
(
ばかていねい
)
な料理方で秋刀魚の味を失った
妙
(
みょう
)
な肴を
箸
(
はし
)
で
突
(
つ
)
っついてみたところで、ちっとも旨くないのです。そこで二人が顔を見合せて、どうも秋刀魚は目黒に限るねといったような変な言葉を発したと云うのが話の
落
(
おち
)
になっているのですが、私から見ると、この学習院という立派な学校で、立派な先生に始終接している諸君が、わざわざ私のようなものの講演を、春から秋の末まで待ってもお聞きになろうというのは、ちょうど大牢の美味に
飽
(
あ
)
いた結果、目黒の秋刀魚がちょっと味わってみたくなったのではないかと思われるのです。
この席におられる大森教授は私と同年かまたは前後して大学を出られた方ですが、その大森さんが、かつて私にどうも
近頃
(
ちかごろ
)
の生徒は自分の講義をよく
聴
(
き
)
かないで困る、どうも
真面目
(
まじめ
)
が足りないで
不都合
(
ふつごう
)
だというような事を云われた事があります。その評はこの学校の生徒についてではなく、どこかの私立学校の生徒についてだったろうと記憶していますが、何しろ私はその時大森さんに対して失礼な事を云いました。
ここで繰り返していうのもお
恥
(
は
)
ずかしい訳ですが、私はその時、君などの講義をありがたがって聴く生徒がどこの国にいるものかと申したのです。もっとも私の主意はその時の大森君には通じていなかったかも知れませんから、この機会を利用して、誤解を防いでおきますが、私どもの書生時代、あなたがたと
同年輩
(
どうねんぱい
)
、もしくはもう少し大きくなった時代、には、今のあなたがたよりよほど横着で、先生の講義などはほとんど聴いた事がないと云っても好いくらいのものでした。もちろんこれは私や私の周囲のものを本位として述べるのでありますから、
圏外
(
けんがい
)
にいたものには通用しないかも知れませんけれども、どうも今の私からふり返ってみると、そんな気がどこかでするように思われるのです。現にこの私は
上部
(
うわべ
)
だけは温順らしく見えながら、けっして講義などに耳を
傾
(
かたむ
)
ける性質ではありませんでした。始終
怠
(
なま
)
けてのらくらしていました。その記憶をもって、真面目な今の生徒を見ると、どうしても大森君のように、彼らを
攻撃
(
こうげき
)
する勇気が出て来ないのです。そう云った意味からして、つい大森さんに対してすまない乱暴を申したのであります。今日は大森君に
詫
(
あや
)
まるためにわざわざ出かけた次第ではありませんけれども、ついでだからみんなのいる前で、謝罪しておくのです。
話がついとんだところへ
外
(
そ
)
れてしまいましたから、再び元へ引き返して筋の立つように云いますと、つまりこうなるのです。
あなたがたは立派な学校に入って、立派な先生から始終指導を受けていらっしゃる、またその方々の専門的もしくは
一般的
(
いっぱんてき
)
の講義を毎日聞いていらっしゃる。それだのに私みたようなものを、ことさらによそから連れて来て、講演を聴こうとなされるのは、ちょうど先刻お話したお大名が目黒の秋刀魚を
賞翫
(
しょうがん
)
したようなもので、つまりは珍らしいから、一口食ってみようという料簡じゃないかと推察されるのです。実際をいうと、私のようなものよりも、あなたがたが毎日顔を見ていらっしゃる
常雇
(
じょうやと
)
いの先生のお話の方がよほど有益でもあり、かつまた面白かろうとも思われるのです。たとい私にしたところで、もしこの学校の教授にでもなっていたならば、単に新らしい
刺戟
(
しげき
)
のないというだけでも、このくらいの人数が集って私の講演をお聴きになる熱心なり
好奇心
(
こうきしん
)
なりは起るまいと考えるのですがどんなものでしょう。
私がなぜそんな仮定をするかというと、この私は現に昔しこの学習院の教師になろうとした事があるのです。もっとも自分で運動した訳でもないのですが、この学校にいた知人が私を
推薦
(
すいせん
)
してくれたのです。その時分の私は卒業する間際まで何をして衣食の道を講じていいか知らなかったほどの
迂濶者
(
うかつもの
)
でしたが、さていよいよ世間へ出てみると、
懐手
(
ふところで
)
をして待っていたって、下宿料が入って来る訳でもないので、教育者になれるかなれないかの問題はとにかく、どこかへ
潜
(
もぐ
)
り
込
(
こ
)
む必要があったので、ついこの知人のいう通りこの学校へ向けて運動を開始した次第であります。その時分私の敵が一人ありました。しかし私の知人は私に向ってしきりに
大丈夫
(
だいじょうぶ
)
らしい事をいうので、私の方でも、もう任命されたような気分になって、先生はどんな着物を着なければならないのかなどと
訊
(
き
)
いてみたものです。するとその男はモーニングでなくては教場へ出られないと云いますから、私はまだ事のきまらない先に、モーニングを
誂
(
あつ
)
らえてしまったのです。そのくせ学習院とはどこにある学校かよく知らなかったのだから、すこぶる変なものです。さていよいよモーニングが
出来上
(
できあが
)
ってみると、あに計らんやせっかく
頼
(
たの
)
みにしていた学習院の方は落第と事がきまったのです。そうしてもう一人の男が英語教師の空位を充たす事になりました。その人は何という名でしたか今は忘れてしまいました。別段
悔
(
くや
)
しくも何ともなかったからでしょう。何でも米国帰りの人とか聞いていました。――それで、もしその時にその米国帰りの人が採用されずに、この私がまぐれ当りに学習院の教師になって、しかも今日まで永続していたなら、こうした
鄭重
(
ていちょう
)
なお招きを受けて、高い所からあなたがたにお話をする機会もついに来なかったかも知れますまい。それをこの春から十一月までも待って聴いて下さろうというのは、とりも直さず、私が学習院の教師に落第して、あなたがたから目黒の秋刀魚のように珍らしがられている
証拠
(
しょうこ
)
ではありませんか。
私はこれから学習院を落第してから以後の私について少々
申上
(
もうしあ
)
げようと思います。これは今までお話をして来た順序だからという意味よりも、今日の講演に必要な部分だからと思って聴いていただきたいのです。
私は学習院は落第したが、モーニングだけは着ていました。それよりほかに着るべき洋服は持っていなかったのだから仕方がありません。そのモーニングを着てどこへ行ったと思いますか? その時分は今と
違
(
ちが
)
って就職の
途
(
みち
)
は大変楽でした。どちらを向いても相当の口は開いていたように思われるのです。つまりは人が
払底
(
ふってい
)
なためだったのでしょう。私のようなものでも高等学校と、高等
師範
(
しはん
)
からほとんど同時に口がかかりました。私は高等学校へ
周旋
(
しゅうせん
)
してくれた先輩に半分
承諾
(
しょうだく
)
を与えながら、高等師範の方へも
好
(
い
)
い加減な
挨拶
(
あいさつ
)
をしてしまったので、事が変な具合にもつれてしまいました。もともと私が若いから手ぬかりやら、
不行届
(
ふゆきとどき
)
がちで、とうとう自分に
祟
(
たた
)
って来たと思えば仕方がありませんが、弱らせられた事は事実です。私は私の先輩なる高等学校の古参の教授の所へ呼びつけられて、こっちへ来るような事を云いながら、
他
(
ほか
)
にも相談をされては、仲に立った私が困ると云って
譴責
(
けんせき
)
されました。私は年の若い上に、馬鹿の
肝癪持
(
かんしゃくもち
)
ですから、いっそ
双方
(
そうほう
)
とも断ってしまったら好いだろうと考えて、その手続きをやり始めたのです。するとある日当時の高等学校長、今ではたしか京都の理科大学長をしている久原さんから、ちょっと学校まで来てくれという通知があったので、さっそく出かけてみると、その座に高等師範の校長
嘉納治五郎
(
かのうじごろう
)
さんと、それに私を周旋してくれた例の先輩がいて、相談はきまった、こっちに
遠慮
(
えんりょ
)
は
要
(
い
)
らないから高等師範の方へ行ったら好かろうという忠告です。私は
行
(
いき
)
がかり上
否
(
いや
)
だとは云えませんから承諾の旨を答えました。が腹の中では
厄介
(
やっかい
)
な事になってしまったと思わざるを得なかったのです。というものは今考えるともったいない話ですが、私は高等師範などをそれほどありがたく思っていなかったのです。嘉納さんに始めて会った時も、そうあなたのように教育者として学生の
模範
(
もはん
)
になれというような注文だと、私にはとても勤まりかねるからと
逡巡
(
しゅんじゅん
)
したくらいでした。嘉納さんは上手な人ですから、否そう正直に断わられると、私はますますあなたに来ていただきたくなったと云って、私を離さなかったのです。こういう訳で、未熟な私は双方の学校を
懸持
(
かけもち
)
しようなどという
慾張根性
(
よくばりこんじょう
)
は
更
(
さら
)
になかったにかかわらず、関係者に要らざる手数をかけた後、とうとう高等師範の方へ行く事になりました。
しかし教育者として
偉
(
えら
)
くなり得るような資格は私に最初から欠けていたのですから、私はどうも
窮屈
(
きゅうくつ
)
で
恐
(
おそ
)
れ入りました。嘉納さんもあなたはあまり正直過ぎて困ると云ったくらいですから、あるいはもっと横着をきめていてもよかったのかも知れません。しかしどうあっても私には
不向
(
ふむき
)
な所だとしか思われませんでした。奥底のない打ち明けたお話をすると、当時の私はまあ肴屋が
菓子家
(
かしや
)
へ手伝いに行ったようなものでした。
一年の後私はとうとう
田舎
(
いなか
)
の中学へ
赴任
(
ふにん
)
しました。それは
伊予
(
いよ
)
の松山にある中学校です。あなたがたは松山の中学と聞いてお笑いになるが、おおかた私の書いた「坊ちゃん」でもご覧になったのでしょう。「坊ちゃん」の中に赤シャツという
渾名
(
あだな
)
をもっている人があるが、あれはいったい誰の事だと私はその時分よく訊かれたものです。誰の事だって、当時その中学に文学士と云ったら私一人なのですから、もし「坊ちゃん」の中の人物を一々実在のものと認めるならば、赤シャツはすなわちこういう私の事にならなければならんので、――はなはだありがたい仕合せと申上げたいような訳になります。
松山にもたった一カ年しかおりませんでした。立つ時に知事が留めてくれましたが、もう先方と内約ができていたので、とうとう断ってそこを立ちました。そうして今度は
熊本
(
くまもと
)
の高等学校に
腰
(
こし
)
を
据
(
す
)
えました。こういう順序で中学から高等学校、高等学校から大学と順々に私は教えて来た経験をもっていますが、ただ小学校と女学校だけはまだ足を入れた
試
(
ためし
)
がございません。
熊本には大分長くおりました。突然文部省から英国へ留学をしてはどうかという内談のあったのは、熊本へ行ってから何年目になりましょうか。私はその時留学を
断
(
こと
)
わろうかと思いました。それは私のようなものが、何の目的ももたずに、外国へ行ったからと云って、別に国家のために役に立つ訳もなかろうと考えたからです。しかるに文部省の内意を
取次
(
とりつ
)
いでくれた教頭が、それは先方の見込みなのだから、君の方で自分を評価する必要はない、ともかくも行った方が好かろうと云うので、私も絶対に反抗する理由もないから、命令通り英国へ行きました。しかし
果
(
はた
)
せるかな何もする事がないのです。
それを説明するためには、それまでの私というものを一応お話ししなければならん事になります。そのお話がすなわち今日の講演の一部分を構成する訳なのですからそのつもりでお聞きを願います。
私は大学で英文学という専門をやりました。その英文学というものはどんなものかとお
尋
(
たず
)
ねになるかも知れませんが、それを三年専攻した私にも何が何だかまあ
夢中
(
むちゅう
)
だったのです。その頃はジクソンという人が教師でした。私はその先生の前で詩を読ませられたり文章を読ませられたり、作文を作って、
冠詞
(
かんし
)
が落ちていると云って
叱
(
しか
)
られたり、発音が間違っていると
怒
(
おこ
)
られたりしました。試験にはウォーズウォースは何年に生れて何年に死んだとか、シェクスピヤのフォリオは幾通りあるかとか、あるいはスコットの書いた作物を年代順に
並
(
なら
)
べてみろとかいう問題ばかり出たのです。年の若いあなた方にもほぼ想像ができるでしょう、はたしてこれが英文学かどうだかという事が。英文学はしばらく
措
(
お
)
いて第一文学とはどういうものだか、これではとうてい
解
(
わか
)
るはずがありません。それなら自力でそれを
窮
(
きわ
)
め得るかと云うと、まあ
盲目
(
めくら
)
の
垣覗
(
かきのぞ
)
きといったようなもので、図書館に入って、どこをどううろついても
手掛
(
てがかり
)
がないのです。これは自力の足りないばかりでなくその道に関した書物も
乏
(
とぼ
)
しかったのだろうと思います。とにかく三年勉強して、ついに文学は解らずじまいだったのです。私の
煩悶
(
はんもん
)
は第一ここに根ざしていたと申し上げても差支ないでしょう。
私はそんなあやふやな態度で世の中へ出てとうとう教師になったというより教師にされてしまったのです。幸に語学の方は
怪
(
あや
)
しいにせよ、どうかこうかお茶を
濁
(
にご
)
して行かれるから、その日その日はまあ無事に済んでいましたが、腹の中は常に
空虚
(
くうきょ
)
でした。空虚ならいっそ思い切りがよかったかも知れませんが、何だか不愉快な
煮
(
に
)
え切らない
漠然
(
ばくぜん
)
たるものが、至る所に
潜
(
ひそ
)
んでいるようで
堪
(
た
)
まらないのです。しかも一方では自分の職業としている教師というものに少しの興味ももち得ないのです。教育者であるという素因の私に欠乏している事は始めから知っていましたが、ただ教場で英語を教える事がすでに面倒なのだから仕方がありません。私は始終中腰で
隙
(
すき
)
があったら、自分の本領へ飛び移ろう飛び移ろうとのみ思っていたのですが、さてその本領というのがあるようで、無いようで、どこを向いても、思い切ってやっと飛び移れないのです。
私はこの世に生れた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当がつかない。私はちょうど
霧
(
きり
)
の中に閉じ込められた
孤独
(
こどく
)
の人間のように立ち
竦
(
すく
)
んでしまったのです。そうしてどこからか一筋の日光が
射
(
さ
)
して来ないかしらんという希望よりも、こちらから探照灯を用いてたった
一条
(
ひとすじ
)
で好いから先まで明らかに見たいという気がしました。ところが不幸にしてどちらの方角を眺めてもぼんやりしているのです。ぼうっとしているのです。あたかも
嚢
(
ふくろ
)
の中に
詰
(
つ
)
められて出る事のできない人のような気持がするのです。私は私の手にただ一本の
錐
(
きり
)
さえあればどこか一カ所突き破って見せるのだがと、
焦燥
(
あせ
)
り
抜
(
ぬ
)
いたのですが、あいにくその錐は人から与えられる事もなく、また自分で発見する訳にも行かず、ただ腹の底ではこの先自分はどうなるだろうと思って、人知れず
陰欝
(
いんうつ
)
な日を送ったのであります。
私はこうした不安を
抱
(
いだ
)
いて大学を卒業し、同じ不安を連れて松山から熊本へ
引越
(
ひっこ
)
し、また同様の不安を胸の底に
畳
(
たた
)
んでついに外国まで
渡
(
わた
)
ったのであります。しかしいったん外国へ留学する以上は多少の責任を新たに自覚させられるにはきまっています。それで私はできるだけ骨を折って何かしようと努力しました。しかしどんな本を読んでも
依然
(
いぜん
)
として自分は嚢の中から出る訳に参りません。この嚢を突き破る錐は
倫敦
(
ロンドン
)
中探して歩いても見つかりそうになかったのです。私は下宿の一間の中で考えました。つまらないと思いました。いくら書物を読んでも腹の
足
(
たし
)
にはならないのだと
諦
(
あきら
)
めました。同時に何のために書物を読むのか自分でもその意味が解らなくなって来ました。
この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その
概念
(
がいねん
)
を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだと
悟
(
さと
)
ったのです。今までは全く他人本位で、根のない
萍
(
うきぐさ
)
のように、そこいらをでたらめに
漂
(
ただ
)
よっていたから、
駄目
(
だめ
)
であったという事にようやく気がついたのです。私のここに他人本位というのは、自分の酒を人に飲んでもらって、後からその品評を聴いて、それを理が非でもそうだとしてしまういわゆる
人真似
(
ひとまね
)
を指すのです。一口にこう云ってしまえば、馬鹿らしく聞こえるから、誰もそんな人真似をする訳がないと
不審
(
ふしん
)
がられるかも知れませんが、事実はけっしてそうではないのです。近頃
流行
(
はや
)
るベルグソンでもオイケンでもみんな
向
(
むこ
)
うの人がとやかくいうので日本人もその
尻馬
(
しりうま
)
に乗って
騒
(
さわ
)
ぐのです。ましてその頃は西洋人のいう事だと云えば何でもかでも
盲従
(
もうじゅう
)
して
威張
(
いば
)
ったものです。だからむやみに片仮名を並べて人に
吹聴
(
ふいちょう
)
して得意がった男が比々
皆
(
みな
)
是
(
これ
)
なりと云いたいくらいごろごろしていました。
他
(
ひと
)
の悪口ではありません。こういう私が現にそれだったのです。たとえばある西洋人が
甲
(
こう
)
という同じ西洋人の作物を評したのを読んだとすると、その評の当否はまるで考えずに、自分の
腑
(
ふ
)
に落ちようが落ちまいが、むやみにその評を
触
(
ふ
)
れ散らかすのです。つまり
鵜呑
(
うのみ
)
と云ってもよし、また機械的の知識と云ってもよし、とうていわが所有とも血とも肉とも云われない、よそよそしいものを
我物顔
(
わがものがお
)
にしゃべって歩くのです。しかるに時代が時代だから、またみんながそれを
賞
(
ほ
)
めるのです。
けれどもいくら人に賞められたって、元々人の借着をして威張っているのだから、内心は不安です。手もなく
孔雀
(
くじゃく
)
の羽根を身に着けて威張っているようなものですから。それでもう少し
浮華
(
ふか
)
を去って
摯実
(
しじつ
)
につかなければ、自分の腹の中はいつまで
経
(
た
)
ったって安心はできないという事に気がつき出したのです。
たとえば西洋人がこれは立派な詩だとか、口調が大変好いとか云っても、それはその西洋人の見るところで、私の参考にならん事はないにしても、私にそう思えなければ、とうてい
受売
(
うけうり
)
をすべきはずのものではないのです。私が独立した一個の日本人であって、けっして英国人の
奴婢
(
どひ
)
でない以上はこれくらいの見識は国民の一員として
具
(
そな
)
えていなければならない上に、世界に共通な正直という徳義を重んずる点から見ても、私は私の意見を曲げてはならないのです。
しかし私は英文学を専攻する。その本場の批評家のいうところと私の
考
(
かんがえ
)
と
矛盾
(
むじゅん
)
してはどうも
普通
(
ふつう
)
の場合気が引ける事になる。そこでこうした矛盾がはたしてどこから出るかという事を考えなければならなくなる。風俗、人情、習慣、
溯
(
さかのぼ
)
っては国民の性格皆この矛盾の原因になっているに相違ない。それを、普通の学者は単に文学と科学とを混同して、甲の国民に気に入るものはきっと
乙
(
おつ
)
の国民の賞讃を得るにきまっている、そうした必然性が
含
(
ふく
)
まれていると誤認してかかる。そこが間違っていると云わなければならない。たといこの矛盾を
融和
(
ゆうわ
)
する事が不可能にしても、それを説明する事はできるはずだ。そうして単にその説明だけでも日本の
文壇
(
ぶんだん
)
には一道の光明を投げ
与
(
あた
)
える事ができる。――こう私はその時始めて悟ったのでした。はなはだ
遅
(
おそ
)
まきの話で
慚愧
(
ざんき
)
の
至
(
いたり
)
でありますけれども、事実だから
偽
(
いつわ
)
らないところを申し上げるのです。
私はそれから文芸に対する自己の
立脚地
(
りっきゃくち
)
を
堅
(
かた
)
めるため、堅めるというより新らしく建設するために、文芸とは全く
縁
(
えん
)
のない書物を読み始めました。一口でいうと、自己本位という四字をようやく考えて、その自己本位を立証するために、科学的な研究やら
哲学的
(
てつがくてき
)
の
思索
(
しさく
)
に
耽
(
ふけ
)
り出したのであります。今は時勢が違いますから、この辺の事は多少頭のある人にはよく解せられているはずですが、その頃は私が
幼稚
(
ようち
)
な上に、世間がまだそれほど進んでいなかったので、私のやり方は実際やむをえなかったのです。
私はこの自己本位という言葉を自分の手に
握
(
にぎ
)
ってから大変強くなりました。
彼
(
かれ
)
ら何者ぞやと
気慨
(
きがい
)
が出ました。今まで
茫然
(
ぼうぜん
)
と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと
指図
(
さしず
)
をしてくれたものは実にこの自我本位の四字なのであります。
自白すれば私はその四字から新たに出立したのであります。そうして今のようにただ人の尻馬にばかり乗って空騒ぎをしているようでははなはだ心元ない事だから、そう西洋人ぶらないでも好いという動かすべからざる理由を立派に彼らの前に投げ出してみたら、自分もさぞ愉快だろう、人もさぞ喜ぶだろうと思って、著書その他の手段によって、それを成就するのを私の
生涯
(
しょうがい
)
の事業としようと考えたのです。
その時私の不安は全く消えました。私は軽快な心をもって
陰欝
(
いんうつ
)
な倫敦を眺めたのです。
比喩
(
ひゆ
)
で申すと、私は多年の間
懊悩
(
おうのう
)
した結果ようやく自分の
鶴嘴
(
つるはし
)
をがちりと鉱脈に
掘
(
ほ
)
り当てたような気がしたのです。なお
繰
(
く
)
り
返
(
かえ
)
していうと、今まで霧の中に閉じ込まれたものが、ある角度の方向で、明らかに自分の進んで行くべき道を教えられた事になるのです。
かく私が
啓発
(
けいはつ
)
された時は、もう留学してから、一年以上経過していたのです。それでとても外国では私の事業を
仕上
(
しあげ
)
る訳に行かない、とにかくできるだけ材料を纏めて、本国へ立ち帰った後、立派に始末をつけようという気になりました。すなわち外国へ行った時よりも帰って来た時の方が、
偶然
(
ぐうぜん
)
ながらある力を得た事になるのです。
ところが帰るや否や私は衣食のために
奔走
(
ほんそう
)
する義務がさっそく起りました。私は高等学校へも出ました。大学へも出ました。後では金が足りないので、私立学校も一
軒
(
けん
)
稼
(
かせ
)
ぎました。その上私は
神経衰弱
(
しんけいすいじゃく
)
に罹りました。最後に下らない創作などを雑誌に
載
(
の
)
せなければならない
仕儀
(
しぎ
)
に
陥
(
おちい
)
りました。いろいろの事情で、私は私の
企
(
くわだ
)
てた事業を
半途
(
はんと
)
で中止してしまいました。私の
著
(
あら
)
わした文学論はその記念というよりもむしろ失敗の
亡骸
(
なきがら
)
です。しかも
畸形児
(
きけいじ
)
の亡骸です。あるいは立派に建設されないうちに
地震
(
じしん
)
で
倒
(
たお
)
された未成市街の
廃墟
(
はいきょ
)
のようなものです。
しかしながら自己本位というその時得た私の考は依然としてつづいています。否年を経るに従ってだんだん強くなります。著作的事業としては、失敗に終りましたけれども、その時確かに握った自己が主で、他は
賓
(
ひん
)
であるという信念は、今日の私に非常の自信と安心を与えてくれました。私はその引続きとして、今日なお生きていられるような心持がします。実はこうした高い壇の上に立って、諸君を相手に講演をするのもやはりその力のお
蔭
(
かげ
)
かも知れません。
以上はただ私の経験だけをざっとお話ししたのでありますけれども、そのお話しを致した意味は全くあなたがたのご参考になりはしまいかという
老婆心
(
ろうばしん
)
からなのであります。あなたがたはこれからみんな学校を去って、世の中へお出かけになる。それにはまだ大分時間のかかる方もございましょうし、またはおっつけ実社界に活動なさる方もあるでしょうが、いずれも私の一度経過した
煩悶
(
はんもん
)
(たとい種類は違っても)を
繰返
(
くりかえ
)
しがちなものじゃなかろうかと推察されるのです。私のようにどこか突き抜けたくっても突き抜ける訳にも行かず、何か
掴
(
つか
)
みたくっても
薬缶頭
(
やかんあたま
)
を掴むようにつるつるして
焦燥
(
じ
)
れったくなったりする人が多分あるだろうと思うのです。もしあなたがたのうちですでに自力で切り開いた道を持っている方は例外であり、また
他
(
ひと
)
の後に従って、それで満足して、在来の古い道を進んで行く人も悪いとはけっして申しませんが、(自己に安心と自信がしっかり
附随
(
ふずい
)
しているならば、)しかしもしそうでないとしたならば、どうしても、一つ自分の鶴嘴で掘り当てるところまで進んで行かなくってはいけないでしょう。いけないというのは、もし掘りあてる事ができなかったなら、その人は生涯不愉快で、始終中腰になって世の中にまごまごしていなければならないからです。私のこの点を力説するのは全くそのためで、何も私を
模範
(
もはん
)
になさいという意味ではけっしてないのです。私のようなつまらないものでも、自分で自分が道をつけつつ進み得たという自覚があれば、あなた方から見てその道がいかに下らないにせよ、それはあなたがたの批評と観察で、私には
寸毫
(
すんごう
)
の損害がないのです。私自身はそれで満足するつもりであります。しかし私自身がそれがため、自信と安心をもっているからといって、同じ
径路
(
けいろ
)
があなたがたの模範になるとはけっして思ってはいないのですから、誤解してはいけません。
それはとにかく、私の経験したような煩悶があなたがたの場合にもしばしば起るに違いないと私は
鑑定
(
かんてい
)
しているのですが、どうでしょうか。もしそうだとすると、何かに打ち当るまで行くという事は、学問をする人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、あるいは十年二十年の仕事としても、必要じゃないでしょうか。ああここにおれの進むべき道があった! ようやく掘り当てた! こういう感投詞を心の底から
叫
(
さけ
)
び出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事ができるのでしょう。容易に打ち
壊
(
こわ
)
されない自信が、その叫び声とともにむくむく首を
擡
(
もた
)
げて来るのではありませんか。すでにその域に達している方も多数のうちにはあるかも知れませんが、もし途中で霧か
靄
(
もや
)
のために懊悩していられる方があるならば、どんな
犠牲
(
ぎせい
)
を
払
(
はら
)
っても、ああここだという
掘当
(
ほりあ
)
てるところまで行ったらよろしかろうと思うのです。必ずしも国家のためばかりだからというのではありません。またあなた方のご家族のために申し上げる次第でもありません。あなたがた自身の幸福のために、それが絶対に必要じゃないかと思うから申上げるのです。もし私の通ったような道を通り過ぎた後なら致し方もないが、もしどこかに
こだわり
があるなら、それを
踏潰
(
ふみつぶ
)
すまで進まなければ駄目ですよ。――もっとも進んだってどう進んで好いか解らないのだから、何かにぶつかる所まで行くよりほかに仕方がないのです。私は忠告がましい事をあなたがたに強いる気はまるでありませんが、それが将来あなたがたの幸福の一つになるかも知れないと思うと
黙
(
だま
)
っていられなくなるのです。腹の中の煮え切らない、
徹底
(
てってい
)
しない、ああでもありこうでもあるというような
海鼠
(
なまこ
)
のような精神を
抱
(
いだ
)
いてぼんやりしていては、自分が不愉快ではないか知らんと思うからいうのです。不愉快でないとおっしゃればそれまでです、またそんな不愉快は通り
越
(
こ
)
しているとおっしゃれば、それも結構であります。
願
(
ねがわ
)
くは通り越してありたいと私は
祈
(
いの
)
るのであります。しかしこの私は学校を出て三十以上まで通り越せなかったのです。その苦痛は無論
鈍痛
(
どんつう
)
ではありましたが、年々
歳々
(
さいさい
)
感ずる
痛
(
いたみ
)
には相違なかったのであります。だからもし私のような病気に罹った人が、もしこの中にあるならば、どうぞ
勇猛
(
ゆうもう
)
にお進みにならん事を希望してやまないのです。もしそこまで行ければ、ここにおれの尻を落ちつける場所があったのだという事実をご発見になって、生涯の安心と自信を握る事ができるようになると思うから申し上げるのです。
今まで申し上げた事はこの講演の第一
篇
(
ぺん
)
に相当するものですが、私はこれからその第二篇に移ろうかと考えます。学習院という学校は社会的地位の好い人が這入る学校のように世間から
見傚
(
みな
)
されております。そうしてそれがおそらく事実なのでしょう。もし私の推察通り大した貧民はここへ来ないで、むしろ上流社会の子弟ばかりが集まっているとすれば、向後あなたがたに附随してくるもののうちで第一番に挙げなければならないのは権力であります。
換言
(
かんげん
)
すると、あなた方が世間へ出れば、貧民が世の中に立った時よりも余計権力が使えるという事なのです。前申した、仕事をして何かに掘りあてるまで進んで行くという事は、つまりあなた方の幸福のため安心のためには相違ありませんが、なぜそれが幸福と安心とをもたらすかというと、あなた方のもって生れた個性がそこにぶつかって始めて腰がすわるからでしょう。そうしてそこに尻を落ちつけてだんだん前の方へ進んで行くとその個性がますます発展して行くからでしょう。ああここにおれの安住の地位があったと、あなた方の仕事とあなたがたの個性が、しっくり合った時に、始めて云い得るのでしょう。
これと同じような意味で、今申し上げた権力というものを
吟味
(
ぎんみ
)
してみると、権力とは
先刻
(
さっき
)
お話した自分の個性を他人の頭の上に無理矢理に
圧
(
お
)
しつける道具なのです。道具だと断然云い切ってわるければ、そんな道具に使い得る利器なのです。
権力に次ぐものは金力です。これもあなたがたは貧民よりも余計に所有しておられるに相違ない。この金力を同じくそうした意味から眺めると、これは個性を拡張するために、他人の上に
誘惑
(
ゆうわく
)
の道具として使用し得る至極重宝なものになるのです。
してみると権力と金力とは自分の個性を
貧乏人
(
びんぼうにん
)
より余計に、他人の上に押し
被
(
かぶ
)
せるとか、または他人をその方面に
誘
(
おび
)
き寄せるとかいう点において、大変
便宜
(
べんぎ
)
な道具だと云わなければなりません。こういう力があるから、偉いようでいて、その実非常に危険なのです。先刻申した個性はおもに学問とか文芸とか
趣味
(
しゅみ
)
とかについて自己の落ちつくべき所まで行って始めて発展するようにお話し致したのですが、実をいうとその応用ははなはだ広いもので、単に学芸だけにはとどまらないのです。私の知っている兄弟で、弟の方は家に
引込
(
ひっこ
)
んで書物などを読む事が好きなのに
引
(
ひ
)
き
易
(
か
)
えて、兄はまた
釣道楽
(
つりどうらく
)
に
憂身
(
うきみ
)
をやつしているのがあります。するとこの兄が自分の弟の引込思案でただ家にばかり
引籠
(
ひきこも
)
っているのを非常に
忌
(
い
)
まわしいもののように考えるのです。
必竟
(
ひっきょう
)
は釣をしないからああいう風に
厭世的
(
えんせいてき
)
になるのだと
合点
(
がてん
)
して、むやみに弟を釣に引張り出そうとするのです。弟はまたそれが不愉快でたまらないのだけれども、兄が高圧的に
釣竿
(
つりざお
)
を担がしたり、
魚籃
(
びく
)
を提げさせたりして、釣堀へ随行を命ずるものだから、まあ目を
瞑
(
つむ
)
ってくっついて行って、気味の悪い
鮒
(
ふな
)
などを釣っていやいや帰ってくるのです。それがために兄の計画通り弟の性質が直ったかというと、けっしてそうではない、ますますこの釣というものに対して反抗心を起してくるようになります。つまり釣と兄の性質とはぴたりと合ってその間に何の隙間もないのでしょうが、それはいわゆる兄の個性で、弟とはまるで
交渉
(
こうしょう
)
がないのです。これはもとより金力の例ではありません、権力の他を威圧する説明になるのです。兄の個性が弟を
圧迫
(
あっぱく
)
して無理に魚を釣らせるのですから。もっともある場合には、――例えば授業を受ける時とか、兵隊になった時とか、また寄宿舎でも軍隊生活を主位におくとか――すべてそう云った場合には多少この高圧的手段は
免
(
まぬ
)
かれますまい。しかし私はおもにあなたがたが
一本立
(
いっぽんだち
)
になって世間へ出た時の事を云っているのだからそのつもりで聴いて下さらなくては困ります。
そこで前申した通り自分が好いと思った事、好きな事、自分と性の合う事、幸にそこにぶつかって自分の個性を発展させて行くうちには、自他の区別を忘れて、どうかあいつもおれの仲間に
引
(
ひ
)
き
摺
(
ず
)
り込んでやろうという気になる。その時権力があると前云った兄弟のような変な関係が出来上るし、また金力があると、それをふりまいて、
他
(
ひと
)
を自分のようなものに仕立上げようとする。すなわち金を誘惑の道具として、その誘惑の力で他を自分に気に入るように変化させようとする。どっちにしても非常な危険が起るのです。
それで私は常からこう考えています。第一にあなたがたは自分の個性が発展できるような場所に尻を落ちつけべく、自分とぴたりと合った仕事を発見するまで
邁進
(
まいしん
)
しなければ一生の不幸であると。しかし自分がそれだけの個性を尊重し得るように、社会から許されるならば、他人に対してもその個性を認めて、彼らの
傾向
(
けいこう
)
を尊重するのが理の当然になって来るでしょう。それが必要でかつ正しい事としか私には見えません。自分は天性右を向いているから、あいつが左を向いているのは
怪
(
け
)
しからんというのは不都合じゃないかと思うのです。もっとも複雑な分子の寄って出来上った善悪とか
邪正
(
じゃせい
)
とかいう問題になると、少々込み入った
解剖
(
かいぼう
)
の力を借りなければ何とも申されませんが、そうした問題の関係して来ない場合もしくは関係しても
面倒
(
めんどう
)
でない場合には、自分が
他
(
ひと
)
から自由を
享有
(
きょうゆう
)
している限り、他にも同程度の自由を与えて、同等に取り
扱
(
あつか
)
わなければならん事と信ずるよりほかに仕方がないのです。
近頃自我とか自覚とか唱えていくら自分の勝手な真似をしても構わないという
符徴
(
ふちょう
)
に使うようですが、その中にははなはだ怪しいのがたくさんあります。彼らは自分の自我をあくまで尊重するような事を云いながら、他人の自我に至っては毫も認めていないのです。いやしくも公平の眼を具し正義の観念をもつ以上は、自分の幸福のために自分の個性を発展して行くと同時に、その自由を他にも与えなければすまん事だと私は信じて疑わないのです。我々は他が自己の幸福のために、
己
(
おの
)
れの個性を勝手に発展するのを、相当の理由なくして
妨害
(
ぼうがい
)
してはならないのであります。私はなぜここに妨害という字を使うかというと、あなたがたは正しく妨害し得る地位に将来立つ人が多いからです。あなたがたのうちには権力を用い得る人があり、また金力を用い得る人がたくさんあるからです。
元来をいうなら、義務の附着しておらない権力というものが世の中にあろうはずがないのです。私がこうやって、高い壇の上からあなた方を見下して、一時間なり二時間なり私の云う事を
静粛
(
せいしゅく
)
に聴いていただく権利を保留する以上、私の方でもあなた方を静粛にさせるだけの説を述べなければすまないはずだと思います。よし
平凡
(
へいぼん
)
な講演をするにしても、私の態度なり様子なりが、あなたがたをして礼を正さしむるだけの立派さをもっていなければならんはずのものであります。ただ私はお客である、あなたがたは主人である、だからおとなしくしなくてはならない、とこう云おうとすれば云われない事もないでしょうが、それは
上面
(
うわつら
)
の礼式にとどまる事で、精神には何の関係もない云わば
因襲
(
いんしゅう
)
といったようなものですから、てんで議論にはならないのです。別の例を挙げてみますと、あなたがたは教場で時々先生から叱られる事があるでしょう。しかし叱りっ放しの先生がもし世の中にあるとすれば、その先生は無論授業をする資格のない人です。叱る代りには骨を折って教えてくれるにきまっています。叱る権利をもつ先生はすなわち教える義務をももっているはずなのですから。先生は規律をただすため、
秩序
(
ちつじょ
)
を保つために与えられた権利を十分に使うでしょう。その代りその権利と引き離す事のできない義務も
尽
(
つく
)
さなければ、教師の職を勤め
終
(
おお
)
せる訳に行きますまい。
金力についても同じ事であります。私の
考
(
かんがえ
)
によると、責任を解しない金力家は、世の中にあってならないものなのです。その訳を一口にお話しするとこうなります。金銭というものは至極重宝なもので、何へでも自由自在に
融通
(
ゆうずう
)
が利く。たとえば今私がここで、相場をして十万円
儲
(
もう
)
けたとすると、その十万円で家屋を立てる事もできるし、
書籍
(
しょせき
)
を買う事もできるし、または
花柳
(
かりゅう
)
社界を
賑
(
にぎ
)
わす事もできるし、つまりどんな形にでも変って行く事ができます。そのうちでも人間の精神を買う手段に使用できるのだから恐ろしいではありませんか。すなわちそれをふりまいて、人間の徳義心を買い
占
(
し
)
める、すなわちその人の
魂
(
たましい
)
を
堕落
(
だらく
)
させる道具とするのです。相場で
儲
(
もう
)
けた金が徳義的
倫理的
(
りんりてき
)
に大きな威力をもって働らき得るとすれば、どうしても不都合な応用と云わなければならないかと思われます。思われるのですけれども、実際その通りに金が活動する以上は致し方がない。ただ金を所有している人が、相当の徳義心をもって、それを道義上害のないように使いこなすよりほかに、人心の
腐敗
(
ふはい
)
を防ぐ道はなくなってしまうのです。それで私は金力には必ず責任がついて廻らなければならないといいたくなります。自分は今これだけの富の所有者であるが、それをこういう方面にこう使えば、こういう結果になるし、ああいう社会にああ用いればああいう
影響
(
えいきょう
)
があると呑み込むだけの見識を養成するばかりでなく、その見識に応じて、責任をもってわが富を所置しなければ、世の中にすまないと云うのです。いな自分自身にもすむまいというのです。
今までの
論旨
(
ろんし
)
をかい
摘
(
つま
)
んでみると、第一に自己の個性の発展を
仕遂
(
しと
)
げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに附随している義務というものを心得なければならないという事。第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに
伴
(
ともな
)
う責任を
重
(
おもん
)
じなければならないという事。つまりこの三カ条に帰着するのであります。
これをほかの言葉で言い直すと、いやしくも倫理的に、ある程度の修養を積んだ人でなければ、個性を発展する価値もなし、権力を使う価値もなし、また金力を使う価値もないという事になるのです。それをもう一
遍
(
ぺん
)
云い
換
(
か
)
えると、この三者を自由に
享
(
う
)
け楽しむためには、その三つのものの背後にあるべき人格の支配を受ける必要が起って来るというのです。もし人格のないものがむやみに個性を発展しようとすると、
他
(
ひと
)
を妨害する、権力を用いようとすると、
濫用
(
らんよう
)
に流れる、金力を使おうとすれば、社会の腐敗をもたらす。ずいぶん危険な現象を
呈
(
てい
)
するに至るのです。そうしてこの三つのものは、あなたがたが将来において最も接近しやすいものであるから、あなたがたはどうしても人格のある立派な人間になっておかなくてはいけないだろうと思います。
話が少し横へそれますが、ご存じの通り
英吉利
(
イギリス
)
という国は大変自由を尊ぶ国であります。それほど自由を愛する国でありながら、また英吉利ほど秩序の調った国はありません。実をいうと私は英吉利を好かないのです。
嫌
(
きら
)
いではあるが事実だから仕方なしに申し上げます。あれほど自由でそうしてあれほど秩序の行き届いた国は恐らく世界中にないでしょう。日本などはとうてい
比較
(
ひかく
)
にもなりません。しかし彼らはただ自由なのではありません。自分の自由を愛するとともに他の自由を尊敬するように、小供の時分から社会的教育をちゃんと受けているのです。だから彼らの自由の背後にはきっと義務という観念が伴っています。 England expects every man to do his duty といった有名なネルソンの言葉はけっして当座限りの意味のものではないのです。彼らの自由と表裏して発達して来た深い
根柢
(
こんてい
)
をもった思想に
違
(
ちがい
)
ないのです。
彼らは不平があるとよく示威運動をやります。しかし政府はけっして
干渉
(
かんしょう
)
がましい事をしません。黙って放っておくのです。その代り示威運動をやる方でもちゃんと心得ていて、むやみに政府の
迷惑
(
めいわく
)
になるような乱暴は働かないのです。近頃女権拡張論者と云ったようなものがむやみに
狼藉
(
ろうぜき
)
をするように新聞などに見えていますが、あれはまあ例外です。例外にしては数が多過ぎると云われればそれまでですが、どうも例外と見るよりほかに仕方がないようです。
嫁
(
よめ
)
に行かれないとか、職業が見つからないとか、または昔しから養成された、女を尊敬するという気風につけ込むのか、何しろあれは英国人の平生の態度ではないようです。名画を破る、
監獄
(
かんごく
)
で
断食
(
だんじき
)
して
獄丁
(
ごくてい
)
を困らせる、議会のベンチへ
身体
(
からだ
)
を
縛
(
しば
)
りつけておいて、わざわざ
騒々
(
そうぞう
)
しく叫び立てる。これは意外の現象ですが、ことによると女は何をしても男の方で遠慮するから構わないという意味でやっているのかも分りません。しかしまあどういう理由にしても変則らしい気がします。一般の英国気質というものは、今お話しした通り義務の観念を離れない程度において自由を愛しているようです。
それで私は何も英国を手本にするという意味ではないのですけれども、要するに義務心を持っていない自由は本当の自由ではないと考えます。と云うものは、そうしたわがままな自由はけっして社会に存在し得ないからであります。よし存在してもすぐ他から
排斥
(
はいせき
)
され
踏
(
ふ
)
み
潰
(
つぶ
)
されるにきまっているからです。私はあなたがたが自由にあらん事を切望するものであります。同時にあなたがたが義務というものを納得せられん事を願ってやまないのであります。こういう意味において、私は個人主義だと公言して
憚
(
はばか
)
らないつもりです。
この個人主義という意味に誤解があってはいけません。ことにあなたがたのようなお若い人に対して誤解を
吹
(
ふ
)
き
込
(
こ
)
んでは私がすみませんから、その辺はよくご注意を願っておきます。時間が逼っているからなるべく単簡に説明致しますが、個人の自由は先刻お話した個性の発展上極めて必要なものであって、その個性の発展がまたあなたがたの幸福に非常な関係を
及
(
およ
)
ぼすのだから、どうしても他に影響のない限り、
僕
(
ぼく
)
は左を向く、君は右を向いても差支ないくらいの自由は、自分でも
把持
(
はじ
)
し、他人にも
附与
(
ふよ
)
しなくてはなるまいかと考えられます。それがとりも直さず私のいう個人主義なのです。金力権力の点においてもその通りで、
俺
(
おれ
)
の好かないやつだから畳んでしまえとか、気に
喰
(
く
)
わない者だからやっつけてしまえとか、悪い事もないのに、ただそれらを
濫用
(
らんよう
)
したらどうでしょう。人間の個性はそれで全く
破壊
(
はかい
)
されると同時に、人間の不幸もそこから起らなければなりません。たとえば私が何も不都合を働らかないのに、単に政府に気に入らないからと云って、
警視総監
(
けいしそうかん
)
が
巡査
(
じゅんさ
)
に私の家を取り巻かせたらどんなものでしょう。警視総監にそれだけの権力はあるかも知れないが、徳義はそういう権力の使用を彼に許さないのであります。または三井とか岩崎とかいう
豪商
(
ごうしょう
)
が、私を嫌うというだけの意味で、私の家の
召使
(
めしつかい
)
を買収して事ごとに私に反抗させたなら、これまたどんなものでしょう。もし彼らの金力の背後に人格というものが多少でもあるならば、彼らはけっしてそんな無法を働らく気にはなれないのであります。
こうした
弊害
(
へいがい
)
はみな道義上の個人主義を理解し得ないから起るので、自分だけを、権力なり金力なりで、一般に推し広めようとするわがままにほかならんのであります。だから個人主義、私のここに述べる個人主義というものは、けっして俗人の考えているように国家に危険を及ぼすものでも何でもないので、他の存在を尊敬すると同時に自分の存在を尊敬するというのが私の解釈なのですから、立派な主義だろうと私は考えているのです。
もっと解りやすく云えば、党派心がなくって理非がある主義なのです。
朋党
(
ほうとう
)
を結び団隊を作って、権力や金力のために
盲動
(
もうどう
)
しないという事なのです。それだからその裏面には人に知られない
淋
(
さび
)
しさも潜んでいるのです。すでに党派でない以上、我は我の行くべき道を勝手に行くだけで、そうしてこれと同時に、他人の行くべき道を妨げないのだから、ある時ある場合には人間がばらばらにならなければなりません。そこが淋しいのです。私がかつて朝日新聞の
文芸欄
(
ぶんげいらん
)
を担任していた頃、だれであったか、
三宅雪嶺
(
みやけせつれい
)
さんの悪口を書いた事がありました。もちろん人身攻撃ではないので、ただ批評に過ぎないのです。しかもそれがたった二三行あったのです。出たのはいつごろでしたか、私は担任者であったけれども病気をしたからあるいはその病気中かも知れず、または病気中でなくって、私が出して好いと認定したのかも知れません。とにかくその批評が朝日の文芸欄に載ったのです。すると「日本及び日本人」の連中が怒りました。私の所へ直接にはかけ合わなかったけれども、当時私の下働きをしていた男に
取消
(
とりけし
)
を申し込んで来ました。それが本人からではないのです。雪嶺さんの子分――子分というと何だか
博奕打
(
ばくちうち
)
のようでおかしいが、――まあ同人といったようなものでしょう、どうしても取り消せというのです。それが事実の問題ならもっともですけれども、批評なんだから仕方がないじゃありませんか。私の方ではこちらの自由だというよりほかに途はないのです。しかもそうした取消を申し込んだ「日本及び日本人」の一部では毎号私の悪口を書いている人があるのだからなおのこと人を驚ろかせるのです。私は直接談判はしませんでしたけれども、その話を間接に聞いた時、変な
心持
(
こころもち
)
がしました。というのは、私の方は個人主義でやっているのに反して、向うは党派主義で活動しているらしく思われたからです。当時私は私の作物をわるく評したものさえ、自分の担任している文芸欄へ載せたくらいですから、彼らのいわゆる同人なるものが、一度に雪嶺さんに対する評語が気に入らないと云って怒ったのを、驚ろきもしたし、また変にも感じました。失礼ながら時代後れだとも思いました。
封建
(
ほうけん
)
時代の人間の団隊のようにも考えました。しかしそう考えた私はついに一種の淋しさを
脱却
(
だっきゃく
)
する訳に行かなかったのです。私は意見の相違はいかに親しい
間柄
(
あいだがら
)
でもどうする事もできないと思っていましたから、私の家に出入りをする若い人達に助言はしても、その人々の意見の発表に
抑圧
(
よくあつ
)
を加えるような事は、他に重大な理由のない限り、けっしてやった事がないのです。私は
他
(
ひと
)
の存在をそれほどに認めている、すなわち他にそれだけの自由を与えているのです。だから向うの気が進まないのに、いくら私が汚辱を感ずるような事があっても、けっして助力は頼めないのです。そこが個人主義の淋しさです。個人主義は人を目標として
向背
(
こうはい
)
を決する前に、まず理非を明らめて、去就を定めるのだから、ある場合にはたった一人ぼっちになって、淋しい心持がするのです。それはそのはずです。
槙雑木
(
まきざっぽう
)
でも
束
(
たば
)
になっていれば
心丈夫
(
こころじょうぶ
)
ですから。
それからもう一つ誤解を防ぐために一言しておきたいのですが、何だか個人主義というとちょっと国家主義の反対で、それを打ち壊すように取られますが、そんな
理窟
(
りくつ
)
の立たない
漫然
(
まんぜん
)
としたものではないのです。いったい何々主義という事は私のあまり好まないところで、人間がそう一つ主義に片づけられるものではあるまいとは思いますが、説明のためですから、ここにはやむをえず、主義という文字の下にいろいろの事を申し上げます。ある人は今の日本はどうしても国家主義でなければ立ち行かないように云いふらしまたそう考えています。しかも個人主義なるものを
蹂躙
(
じゅうりん
)
しなければ国家が
亡
(
ほろ
)
びるような事を唱道するものも少なくはありません。けれどもそんな馬鹿気たはずはけっしてありようがないのです。事実私共は国家主義でもあり、世界主義でもあり、同時にまた個人主義でもあるのであります。
個人の幸福の
基礎
(
きそ
)
となるべき個人主義は個人の自由がその内容になっているには相違ありませんが、各人の
享有
(
きょうゆう
)
するその自由というものは国家の安危に従って、寒暖計のように上ったり下ったりするのです。これは理論というよりもむしろ事実から出る理論と云った方が好いかも知れません、つまり自然の状態がそうなって来るのです。国家が危くなれば個人の自由が
狭
(
せば
)
められ、国家が
泰平
(
たいへい
)
の時には個人の自由が
膨脹
(
ぼうちょう
)
して来る、それが当然の話です。いやしくも人格のある以上、それを踏み違えて、国家の亡びるか亡びないかという場合に、
疳違
(
かんちが
)
いをしてただむやみに個性の発展ばかりめがけている人はないはずです。私のいう個人主義のうちには、火事が済んでもまだ火事
頭巾
(
ずきん
)
が必要だと云って、用もないのに窮屈がる人に対する忠告も含まれていると考えて下さい。また例になりますが、昔し私が高等学校にいた時分、ある会を創設したものがありました。その名も主意も
詳
(
くわ
)
しい事は忘れてしまいましたが、何しろそれは国家主義を
標榜
(
ひょうぼう
)
したやかましい会でした。もちろん悪い会でも何でもありません。当時の校長の木下広次さんなどは大分肩を入れていた様子でした。その会員はみんな胸に
めだる
を下げていました。私は
めだる
だけはご
免
(
めん
)
蒙
(
こうむ
)
りましたが、それでも会員にはされたのです。無論発起人でないから、ずいぶん異存もあったのですが、まあ入っても差支なかろうという主意から入会しました。ところがその発会式が広い講堂で行なわれた時に、何かの
機
(
はずみ
)
でしたろう、一人の会員が壇上に立って演説めいた事をやりました。ところが会員ではあったけれども私の意見には大分反対のところもあったので、私はその前ずいぶんその会の主意を攻撃していたように記憶しています。しかるにいよいよ発会式となって、今申した男の演説を聴いてみると、全く私の説の
反駁
(
はんばく
)
に過ぎないのです。故意だか偶然だか解りませんけれども勢い私はそれに対して答弁の必要が出て来ました。私は仕方なしに、その人のあとから演壇に上りました。当時の私の態度なり行儀なりははなはだ見苦しいものだと思いますが、それでも簡潔に云う事だけは云って
退
(
の
)
けました。ではその時何と云ったかとお尋ねになるかも知れませんが、それはすこぶる簡単なのです。私はこう云いました。――国家は大切かも知れないが、そう朝から晩まで国家国家と云ってあたかも国家に取りつかれたような真似はとうてい我々にできる話でない。
常住坐臥
(
じょうじゅうざが
)
国家の事以外を考えてならないという人はあるかも知れないが、そう間断なく一つ事を考えている人は事実あり得ない。
豆腐
(
とうふ
)
屋が豆腐を売ってあるくのは、けっして国家のために売って歩くのではない。根本的の主意は自分の衣食の料を得るためである。しかし当人はどうあろうともその結果は社会に必要なものを供するという点において、間接に国家の利益になっているかも知れない。これと同じ事で、今日の
午
(
ひる
)
に私は飯を三
杯
(
ばい
)
たべた、晩にはそれを四杯に
殖
(
ふ
)
やしたというのも必ずしも国家のために増減したのではない。正直に云えば胃の具合できめたのである。しかしこれらも間接のまた間接に云えば天下に影響しないとは限らない、否
観方
(
みかた
)
によっては世界の大勢に
幾分
(
いくぶん
)
か関係していないとも限らない。しかしながら
肝心
(
かんじん
)
の当人はそんな事を考えて、国家のために飯を食わせられたり、国家のために顔を洗わせられたり、また国家のために便所に行かせられたりしては大変である。国家主義を
奨励
(
しょうれい
)
するのはいくらしても差支ないが、事実できない事をあたかも国家のためにするごとくに
装
(
よそお
)
うのは偽りである。――私の答弁はざっとこんなものでありました。
いったい国家というものが危くなれば誰だって国家の安否を考えないものは一人もない。国が強く戦争の
憂
(
うれい
)
が少なく、そうして他から犯される憂がなければないほど、国家的観念は少なくなってしかるべき訳で、その空虚を充たすために個人主義が這入ってくるのは理の当然と申すよりほかに仕方がないのです。今の日本はそれほど安泰でもないでしょう。貧乏である上に、国が小さい。したがっていつどんな事が起ってくるかも知れない。そういう意味から見て吾々は国家の事を考えていなければならんのです。けれどもその日本が今が今潰れるとか
滅亡
(
めつぼう
)
の憂目にあうとかいう国柄でない以上は、そう国家国家と騒ぎ廻る必要はないはずです。火事の起らない先に火事
装束
(
しょうぞく
)
をつけて窮屈な思いをしながら、町内中
駈
(
か
)
け歩くのと一般であります。必竟ずるにこういう事は実際程度問題で、いよいよ戦争が起った時とか、危急存亡の場合とかになれば、考えられる頭の人、――考えなくてはいられない人格の修養の積んだ人は、自然そちらへ向いて行く訳で、個人の自由を
束縛
(
そくばく
)
し個人の活動を切りつめても、国家のために尽すようになるのは天然自然と云っていいくらいなものです。だからこの二つの主義はいつでも矛盾して、いつでも
撲殺
(
ぼくさつ
)
し合うなどというような厄介なものでは万々ないと私は信じているのです。この点についても、もっと詳しく申し上げたいのですけれども時間がないからこのくらいにして切り上げておきます。ただもう一つご注意までに申し上げておきたいのは、国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いもののように見える事です。元来国と国とは辞令はいくらやかましくっても、徳義心はそんなにありゃしません。
詐欺
(
さぎ
)
をやる、ごまかしをやる、ペテンにかける、めちゃくちゃなものであります。だから国家を標準とする以上、国家を一団と見る以上、よほど低級な道徳に
甘
(
あま
)
んじて平気でいなければならないのに、個人主義の基礎から考えると、それが大変高くなって来るのですから考えなければなりません。だから国家の
平穏
(
へいおん
)
な時には、徳義心の高い個人主義にやはり重きをおく方が、私にはどうしても当然のように思われます。その辺は時間がないから今日はそれより以上申上げる訳に参りません。
私はせっかくのご招待だから今日まかり出て、できるだけ個人の生涯を送らるべきあなたがたに個人主義の必要を説きました。これはあなたがたが世の中へ出られた後、幾分かご参考になるだろうと思うからであります。はたして私のいう事が、あなた方に通じたかどうか、私には分りませんが、もし私の意味に不明のところがあるとすれば、それは私の言い方が足りないか、または悪いかだろうと思います。で私の云うところに、もし
曖昧
(
あいまい
)
の点があるなら、好い加減にきめないで、私の宅までおいで下さい。できるだけはいつでも説明するつもりでありますから。またそうした手数を尽さないでも、私の本意が
充分
(
じゅうぶん
)
ご会得になったなら、私の満足はこれに越した事はありません。あまり時間が長くなりますからこれでご免を蒙ります。
底本:「ちくま日本文学全集 夏目漱石」筑摩書房
1992(平成4)年1月20日第1刷発行
底本の親本:「夏目漱石全集10」ちくま文庫、筑摩書房
1988(昭和63)年7月26日第1刷発行
入力:真先芳秋
校正:かとうかおり
1998年11月19日公開
2008年10月5日修正
青空文庫作成ファイル:
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