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≪けっきょくみんなは仲間なんだ。口さきだけでけなしあったり、ふざけあったりしてるだけなんだ。みんなで楽しんでるんだ。ぼくだけが場違いな人間なんだ。≫(p.140)
マリオ・バルガス=リョサが死んだ。
存命中に岩波文庫の赤帯に収録されるという栄に浴した*1作家の一人であったが、その彼も亡くなり、残るはもうクッツェーくらいだろうか。
その彼の死を伝える記事が指し示す「代表作」の豊かなことといったらない。『緑の家』、『世界終末戦争』、『ラ・カテドラルでの対話』、『チボの狂宴』、『フリアとシナリオライター』、『楽園への道』【過去記事】、そして本作。
彼は根っからの長編作家であった。文学史に名を連ねる数多の大作家の中でも、彼ほど多数の長篇を物し、そしてそのどれもが成功を収めた作家はかつていなかっただろう。
本作は、彼が最初に書いた長編小説であるとともに彼の出世作であり、そして傑作である。
本当はあらすじなどという無粋なものは書きたくない。なぜなら、作品冒頭の見事なカメラワークをちゃんと味わって欲しいからだ。
「四だ」とジャガーは言った。
若者たちはほっと胸をなでおろした。(p.5)
場面設定も、状況説明も、人物紹介も一切なしの書き出し。なのにどうだろう。
「若者たち」よりも「ジャガー」の立場の方が強そうなこと、「胸をなでおろ」さなければならないような不穏なことが行われていたこと、そして「四」って何?という小さな謎、これらをせーの!で読者の脳内に植えこんでくる。
カメラは続いて「三と一の目」を出したサイコロを捉え、先の小さな謎を解決してくれる。どうも「四」に当たってしまった若者はカーバというらしい。
カメラは徐々に徐々に引きの画を映していき、そこが便所であること、寮舎であること、士官学校であること、夜中であることが描かれていく。もちろん、当選者であるカーバがどのような運命に晒されてしまうのか、という謎は残されたままである。
最初の二行からここまでおおよそ二頁。登場人物は既に7名。冒頭の一節は三人称の文章だが、カーバが建物を出た時点ではじめて、この節の視点人物がカーバであることがわかる仕掛けにもなっている。
これだけでも、当時26,7歳の若者が如何に文章を練り、物語の構成を考え抜いたかがわかろうというものである。
さて、もう少し踏み込んであらすじを説明しよう。
本作はいわば汚い『飛ぶ教室』*2である。つまりは、寄宿学校に通う少年たち(=犬ども)の群像劇である。そして、ケストナーの作品とは違い、暴力と狡猾とが支配する剝き出しの男性社会をグロテスクに描き出している。もちろんリョサ本人が意識していたわけではないが、ケストナーの「正義先生」に相当するような若者に信頼される大人も登場してくる。
ここからは、本作の特質を紹介していこう。なお、以下の諸点はそのまま他のリョサ作品にもあてはまる特徴でもある。
まずは、徹底したリアリズムであること。彼の小説には、幽霊船も、墜落した天使も、シーツに包まれて空に舞い上がり消えていく美女【過去記事】も登場しない。
良く出来たリアリズムの美点は、それが簡単に時代を超越し、自然と普遍性を獲得することだ。
本作で描かれている寄宿制の士官学校という閉鎖社会に、ある種の社会の縮図を見ない人は居ないだろう。上級生から下級生へ振るわれる「洗礼」という名の暴力シーンは衝撃的だし、教官から下される「直角蹴り」という体罰もあまりにこの種社会に典型的だ。また、権力構造と暴力とが、より弱い者へと連鎖していく様子も活写されている。
スクールカースト、ホモソーシャル。そんな言葉が存在しなかった時代の作品であるが、明らかに本作ではそういった問題意識が描かれている。
二点目が、堅固な構成力を持っていること。このことは、冒頭に取り上げた書き出しの部分からもご理解いただけるだろう。他にも例を挙げておくと、本作には動物が登場するシーンが多い。ビクーニャ、雌鶏、ヤセッポチと名付けられた犬。このどれもが、登場する意味を担わされているのも面白い。
リョサの文章は、気の向くまま、才能のの赴くままに書き連ねられた文章ではない。構成に構成を重ね、推敲に推敲を重ね、書き上げられたものをさらに彫琢して生まれた文章だ。このため、長編作家であるのにも関わらず、まるで短篇作品のように、全てのパーツに役割が担わされている、そんな作品に仕上がっている。
それもそのはず、リョサ自身が最も影響を受けた作家と公言しているのは、フローベールなの【過去記事】である。なお、リョサ自身の手によるフローベール論の中では、ドストエフスキーとトルストイであれば、トルストイの方が好みであるとも述べられている。
三点目が、高いエンターテイメント性である。リョサ自身の評価はこれとは異なるが、私のフローベールのイメージは、筆致は凄まじいが、物語の筋自体は比較的凡庸でありきたりというものだ。しかし、その影響を受けたリョサの作品は実に面白い。波乱万丈でたえず読者を飽きさせない工夫がされている。
実は、リョサが憧れを持っていたのはフローベールだけではない。アレクサンドル=デュマ【過去記事】の小説の大ファンでもあったのだ。つまり、リョサは右目で十九世紀フランスの偉大な純文学作家を見つつ、同時に左目で十九世紀フランスの偉大な大衆作家を見ているのだ。
先に挙げたフローベール論の中で、リョサは魅力的な小説の要素を次のように説明している。
小説はわたしにとって、反抗と暴力とメロドラマとセックスだが、緻密な物語のなかに巧妙に組み込まれていればいるほど、魅力的なのだ。(『果てしなき饗宴』p.14)
この文章はまるで、リョサ自身による『都会と犬ども』の作品紹介のようだ。
本作にも、意外なほど多くの露骨な性的描写が登場する。週末の外出日ごとに売春婦を買いにいく。あるいは、同級生との巨根比べ。動物を犯すシーンなんかも登場する。
これらの表現は、やり場のない、沸き立つ性欲の描写として、先に挙げたリアリズムを支える一側面でもある。
だが、リョサのリアリティ、そして面白さは、この露骨な性描写と同時並行でメロドラマも描いている部分にある。
物語を走るいくつかの筋の一つとして、複数の少年たちがテレサという同じ女の子に恋をする話が出てくる。これがまた上手いんだ!
次の箇所は、一人の少年が、別の少年からの伝言を伝えるために、初めて彼女に会った場面。つまりは、恋に落ちる場面でもある。
≪やっぱりブスだ。≫彼女の姿を玄関口に見かけたとき、彼はそう思った。(p.96)
剝き出しの性欲ばかりが突っ走ってる描写と、その実、対人関係が未熟で不器用な恋愛をやってる様は、いかにもこの年齢の少年たちのリアルでもある。
最後に、作品の持つ実験色についても触れなければならない。
ラテン・アメリカの作家はみなフォークナー【過去記事】に影響を受けている、と言ったのはガルシア=マルケスだが、やはりリョサのこの部分の源泉はフォークナーだろう。
書き出しの紹介でも触れたが、基本的には三人称の小説だ。しかし、視点人物が誰かが敢えて取りにくいように描かれている。また、そもそも空行を挟んでころころと視点人物が変わるのである。あるときは一人の少年、あるときは別の少年の幼年時代、またあるときは別の少年・・・この仕掛けは、物語全体の大ネタにも効いてくる。
また、時折一人称視点の文章、いわゆる内的独白が差し挟まるのも面白い。内的独白というと、フォークナー以外にも、ウルフ【過去記事】やジョイスの名前が思い浮かぶ。しかし、リョサのそれはこうした大作家の手によるものと比べても全く遜色がない。
それどころか、内的独白の中に、自由間接話法*3で他者の発話が入り乱れるという癖の強いシークエンスは、斬新で読み応えがある。
以上のとおり、本作は高いエンターテイメント性を保ちながら、普遍性のあるテーマが隙のない文体で多声的に展開するという、まさしく文学作品の王道中の王道のような作品である。
かつて私は、『楽園への道』の感想で、リョサの作品を西欧の接ぎ木であると評したが、とんでもない過小評価だった。むしろ、19世紀西欧文学を完全に消化しきり、これを自家薬籠中の物とした、正当な後継者であるとの評こそが相応しいだろう。
お気に入り度:☆☆☆☆
人に勧める度:☆☆☆☆☆
・ラテンアメリカ文学の簡単ガイド
・リョサからもう一作
1963年発表。当時27歳というのだから、その天才性には恐れ入る。
かつての盟友、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』は1967年発表だから、本作の方が古いのだ。ガルシア=マルケスのノーベル賞受賞が1982年、彼に遅れること28年後の2010年、リョサも同賞を受賞した。
ノーベル賞の受賞理由というと、よく引用されるわりにわかったようなわからんようなことが書いてあるのでお馴染だが、リョサの場合はちょっと違う。
権力構造の地図と、個人の抵抗と反抗、そしてその敗北を鮮烈なイメージで描いたこと
本作の新潮社新版ハードカバーの帯文にも採用されているが、まさに的確なコメントといって良いだろう。
感想本文で取り上げたとおり、かなり複雑な構成になっている。
まず、全体は一部二部の構成に、エピローグが付加されたものとなっている。
各部及びエピローグにはそれぞれエピグラフが掲げられている。第一部がサルトルなのはまぁいいが、第二部はニザンの『アデン・アラビア』【過去記事】からというのはなかなかニクいセレクトだ。
そして、各部はそれぞれ8つの節から成っている。各部・各節は数字だけで、タイトルなどは付されない。
各節の構成が複雑だ。各節内では行アキで区切られ、この区切りが生じるたびに、視点が変わる仕掛けになっている。数名が視点人物に採用されていて、それぞれ現在視点と過去視点の場合とがある。
メインのプロットにはあまり関係ないものの、このうち一人称視点で語られる人物の語り口がまぁ見事である。
今回読んだのは、新潮社のハードカバー版、杉山訳の新装版である。かつて「新潮・現代世界の文学」という名のシリーズから出ていたものが、ノーベル賞受賞記念かなんかで新装焼き直しされたものだ。
このため訳文自体は1987年のものであり、若干の古めかしさを感じる。
他方で、本作には新訳にあたる寺尾訳が光文社古典新訳文庫から出ている。こちらは2022年の出版のため、訳文としては大分新しい。私自身は新訳に触れてはいないが、斯界の権威寺尾氏の訳文のため、間違いはないのだろう。
ただ、旧訳のタイトルは『都会と犬ども』新訳では『街と犬たち』。タイトルだけ見れば、正直なところ旧訳のほうに軍配を上げたい。
また、旧訳は旧訳で独特の味わいがある。例えば、ある生徒に懐いている野良犬の名前。新訳ではカタカナ転写のマルパペアーダだが、旧訳ではヤセッポチである。なんとなく愛すべきワーディングなのが伝わるだろうか。
ところで、光文社古典新訳文庫というと、登場人物一覧付きのしおりが評判である。
従ってぜひ、経済的に許するのであれば、ハードカバー版を選んで欲しい。感想でも書いたとおり、本作では語り手が誰なのかという手札の開示の順番が、作品自体の読み味を支えている側面がある。安易な登場人物一覧などあっては台無しだ。
光文社古典新訳文庫については、試み自体は非常に買うが、リーダビリティを重視するあまり、それ以外を軽視している感が否めない。
このため、もし本作をお手に取られる方が居れば、自身の好みに合わせて、慎重に吟味をして欲しい。
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