照明レーンのさらに上から垂れ下がる紗幕には細かく襞が寄っており、滝のようにも、大木のようにも見える。舞台上をも覆いつくした紗幕はうねるようにして凹凸を作り出し、無数に枝分かれした支流のようでもあれば、四方八方に広がる根のようでもある。床のところどころが不思議な緑色や茶色に光っている。小鳥の鳴き声のような音が絶えずささやかに響いている。この世界から異世界へと通じる森の奥のような雰囲気。
そのような幻想的な空気のなかで始まるかと見えた上田久美子潤色・演出の『ハムレット』は、期待を裏切るかのように、ドタバタ・コメディ的な様相へと切り替わり、わざとらしいほどに卑近な言葉を前面に押し出したかと思うと、口語性と古典的形式性を両立させた格調高い河合祥一朗訳が朗々と語られる。衣装は現代的とも言えるし、ファンタジー的な要素や、クリシェ的な部分もある。ここでは様々なものが併存しており、奇妙な異種混淆が生まれている。
「潤色」とあるように、上田の『ハムレット』は演出の域を超えている。ハムレットの正史の語り部として登場したマウンテンパーカー姿のホレイシオ(本多麻紀)は、劇が始まる前に観客にあらすじを説明する。しかし、オフィーリアを完全に無視した語り口に、最後の審判を経て2025年の静岡に甦った白いワンピース姿の11人のオフィーリアたちが抗議の声を挙げる。それはまるでピランデルロの『作者を探す六人の登場人物』のようなメタ的な介入だが、彼女たちはホレイシオを縛り上げると、彼が語ろうとしなかった自分たちの物語を上演するために、不承不承ながら、オフィーリア以外の役柄を引き受け始める。ハムレットを演じなければならなくなったオフィーリア(山崎皓司)が、第一独白に毒づくように、「クサイ、クサイ」を連発しながら舞台上を歩き回るという行為や、ぶりっ子なまでに少女性を強調するオフィーリア(榊原有美)が典型的に示しているように、ここでは『ハムレット』の男性独白中心主義が徹底的に茶化される。
ハムレットは理性と激情の狭間で、私人としての欲望と公人としての責務の軋轢のなかで揺れ続ける。父を殺し、母を娶った叔父に復讐すべきなのか、と。その意味で、彼は近代の幕開けを告げるキャラクターだが、最終的には個の意志と決断ではなく、神の思し召しにすべてをゆだねるという意味では、前近代的でもある。しかしながら、上田の『ハムレット』が前景化するのは、超越的な神でも、世俗的な社会でもなく、人間を取り巻く非人間的なもの=自然的存在であり、そのために、オフィーリアたちは割り振られた役柄を演じないときは、木へと生成変化し、または、人間ではない何かしらの有機体へと生成変化し、舞台上をただようように舞い踊り、床の上を転げまわる。
しかし、そのような非人間的な存在感の体現となると、俳優たちのあいだに温度差があったことも否定できない。クラシック・バレエの身体所作のレパートリーを流用したような、人間が動物を演じるような、あまりにも人間的な所作にとどまっていた者たちもいれば(宮城嶋遥加、ながいさやこ、杉山賢)、そのような身振りを几帳面すぎるほどに徹底することで、作為を不作為の域にまで昇華させていた者もいた(阿部一徳、武石守正)。かと思うと、まるで演武をゆるやかな舞いに変化させている者もいるし(舘野百代)、非人間的な存在を演じることを通り越して、非人間的な存在となり、器官なき身体を体現しているかのような、変幻自在に融通無下に手足をくねらせる者たちもいた(貴島豪、若宮羊市)。
俳優たちが肉体的なインスタレーションよろしく舞台の背景となる。そこに、吉見亮がaFrameという電子楽器で奏でる非有機的な人工音のノイズが重なることで、舞台はさらに重層的になっていく。音楽がすくない静かな舞台だからこそ、単体で聞いたら不快に感じるかもしれないような、引っ掻くような、擦るような、軋むような音が絶妙なアクセントになる。
とはいえ、『ハムレット』をオフィーリアによって簒奪させ、非人間的なもので舞台空間を充溢させるという上田の演出プランがどこまで戯曲自体と整合していたかは、疑問もある。つまるところ、この舞台の屋台骨となり、全体を稼働させていたのは、SPACのベテラン俳優である阿部一徳と貴島豪であり、彼らの演じる旅芸人や墓掘り人がなかったら、この演出は成立しなかったのではないかと思わされたほどである。俳優の地力に大いに依存した舞台であったことは否定できない。
5幕のハムレットとレアーティーズの決闘の最中、紗幕にはシェイクスピアの言葉が流れ落ちるように映し出され、俳優たちは、まるで全員がハムレットと化したかのように、彼の諸々の独白をリレーしていく。重低音がボリュームを増し、ハイトーンの歌声が高まり、舞台全体が凝縮していく。そこに全力で叩きこまれる打楽器が加わり、紗幕の裏からはウサギの被り物をしたオフィーリアたち、葉っぱのリースを首から下げたオフィーリアたちが躍り出てくる。祝祭的な雰囲気のなか、紗幕が落ち、それが観客席の上を運ばれていく。エンターテーメント性をあざとく担保している。観客は最終的にはなぜか満足させられた気がしてしまう。
しかしながら、オフィーリアを植物化——こう言ってよければ、ダフネ化——することは、ホレイシオによる正史からオフィーリアを救済することになるのだろうか。
ホレイシオがシェイクスピアのテクストどおり、すべての顛末を正しく伝えようとすると、オフィーリアたちは唇に人差し指を当てて、彼に沈黙を促す。それは、出しゃばりでこれ見よがしなマンスプレイン(男の説明)を封じ込める身振りではあるものの、それによって正史のオルタナティヴとして台頭してくるのは、女性を自然に開くという、また別のステレオタイプではないだろうか。
その意味で気になったのは、男の語り=正史の象徴たるホレイシオを本多麻紀に振るという配役。たとえ男装しているとはいえ、演出の対立軸を男の語り(ハムレット)と女の語り(オフィーリア)と設定するのなら、そして、オフィーリアのほうは男優女優の性別攪乱的にするのなら、ホレイシオのほうにもそのような転覆的操作があってしかるべきではなかっただろうか。
たしかにこの『ハムレット』は、「「SPAC秋のシーズン2025-2026」のアーティスティック・ディレクター」石神夏希の掲げる「きょうを生きるあなたとわたしのための演劇」に適うものである。わたしたちはたしかに、この舞台から、「物語を編み直す勇気」を受け取るだろう。
しかしながら、そのようなコンセプト的な「正しさ」と、演劇的な「美しさ」が相乗効果をもたらしているかとなると、首を傾げざるをえない部分が残っているように思えてならない。
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