ジョージ・ベンジャミンの音楽を知った経緯がいまひとつ思い出せないけれど、たしかブーレーズから始めて、ミュライユやグリゼーといったスペクトル楽派を聞いていくなかで、Nimbus Records からいくつもリリースされていたメシアンの愛弟子という早熟の天才ベンジャミンの曲を耳にしたのだと思う。
とはいえ、その後はベンジャミンの新作をフォローしていたわけではないし、折に触れて聞いていたというわけでもないので、正直な話、20年ぶりぐらいで彼の音楽を聞いた。というよりも、ベンジャミンの音楽がプログラムに含まれていたので、この演奏会に足を運んだ側面が大きい。
プレトークでやっとわかったけれど、野平一郎プロデュースで2年目となる「フェスティヴァル・ランタンポレル」は、キャロル・ロト=ドファンがフランソワ=グザヴィエ・ロトともに立ち上げたレ・ヴォルク音楽祭Festival Les Volques(フランス・ニーム)にインスパイアされたものらしい。とくに、現代と古典の対話を柱とするという点で。
もうひとつの柱は、若手音楽家を育てるという使命だ。こうして、キャロル・ロト=ドファンを核として、そこに日本の若手音楽家が加わというアンサンブルの基本構造が立ち上がってくる。ベンジャミンはモダン楽器で、モーツァルトはピリオド楽器でという持ち替えも、野平が若手に経験を積ませたいという気遣いのようだ。
日本の音楽家たちはみなコンクールの勝者であり、技術的には申し分ないものの、その音楽性となると、かなり開きがあるように感じた。
ベンジャミンのビオラデュオは、それぞれの音を追いかけるようにして進んでいくが、次第に混ざり合っていく。ピチカートから、ノイズを厭わない強奏まで、さまざまな技法を要求する難曲を悠然と弾くキャロル・ロト=ドファンに、田原綾子はひたむきに食らいついていく。そればかりか、彼女に拮抗し、音楽の密度を共に高めていく。
それに比べると、モーツァルトの「ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲ト長調 K423」をピリオド楽器で演奏した篠原悠那は、リズム的なパッセージでも有機的なしなやかさを失わないキャロル・ロト=ドファンに比べると、あまりにも杓子定規に聞こえる。縦線がズレるようなことはない。しかし、直線的で遊びのないメロディの歌いまわしは、アンサンブルの統一感という意味でチグハグに聞こえた。
その一方で、ベンジャミンのウェーベルン的な小曲集「3つの小品」では、 篠原の技術力の高さが際立っていた。開放弦をペダルトーンのように用いたり、左手でピチカートしたりしながら、旋律的動機を歌うという楽譜の要求を危なげなくクリアし、そのうえで、楽器を気持ちよく鳴らし、現代曲に血肉を与えることに成功していた。
ベンジャミンのメゾソプラノと7つの弦楽器のための「沈黙に」は、いまひとつとらえどころのない曲に聞こえたが、それは、ヴィオラ2、チェロ3、コントラバス2という特殊な編成であること、その割には聞こえてくる音がさして特殊でないという、視覚情報から期待してしまうものと、実際に聞こえてくるものがズレているからかもしれない。メゾソプラノがアンサンブルの中心ではなく、端に立っていたのも、声が音楽的にどう位置づけられるべきなのかーー弦楽器と溶け合うべきなのか、浮かび上がるべきなのかーーを、曖昧にしているように見える。きわめて的確ながら、整理に徹しすぎたように思われる馬場武蔵の指揮も、そのような印象の形成に一役買っていたのかもしれない。
この手の現代曲で歌詞が聞き取れないのは当然のことだから(なぜなら、言葉そのものが問い直され、意味ではなく純粋な音に転化されるというのは、よくあることだから)、そのことでメゾソプラノの花房英里子を批判する気はないけれど、それでも、何語を歌っているのかわからない発音は気になる。実在感のある声そのものとしてはきわめて魅力的で、声楽パートとしては申し分ない出来だったとは思う。しかし、母音の発音にはあやしいところがあったように聞こえたし、語末の子音だけがクリアなのには違和感を覚えないわけにはいかなかった。
モーツァルトの「弦楽五重奏曲ハ短調 K406/516b」のアンサンブルのコアはキャロル・ロト=ドファンかもしれないが、音楽の底を固めていたのはチェロの上村文乃だった(裸足で演奏しているように見えたけれど、見間違いだろうか)。リズム的な動機から、メロディ的な対話まで、柔軟さと力強さを共存させながら、各動機の音楽的要求に応えるように、みずからの役割を変化させていた。
ファーストバイオリンの篠原は、二重奏のときと同じ問題を感じた。メトロノーム的な均質なテンポ感は、フレーズを自由に呼吸させることなく、小節線のなかに閉じ込めてしまう。折り目正しいともいえるが、そこで犠牲になっているものがあまりに大きい。セカンドの福田麻子は、しなやかに動くビオラチェロと、ブレないファーストに挟まれ、両者のギャップを埋めるという難題に黙々と取り組んでいたのかもしれない。決して出しゃばることはなく、さりげないかたちで、アンサンブルにおける内声部の意義を体現していたように思う。
現在の日本のトップレベル弦楽奏者が技術的にはきわめて高いレベルにあり、古典も現代も難なくこなせることはよくわかったものの、ある意味では普遍的でメカニックなものである技術をベースとして、それをどこまで西洋音楽特有の美学で肉付けし、自身の音楽性を混ぜ合わせていけるかは、人それぞれというところなのだろう。当たり前の話といえば、当たり前の話ではあるけれど。
そうそう、野平一郎のプレトークでは、早熟に天才モーツァルトとベンジャミンを並置することで、これまで気づかなかったことが浮かび上がってくるのではないかとのことだったけれど、個人的にはそんなことは全然ありませんでした。
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