ヴァイオリン、チェロ、三味線のトリオに、尺八を加えたカルテットでバッハの『ゴルトベルク変奏曲』をやるとどうなるのか、そしてそれをクラシック音楽にはおよそ似つかわしくはない寺でやるとどうなるのかという、純粋というには夾雑物の多い好奇心から足…
ピエタリ・インキネンは音をつなぐタイプの指揮者だ。いや、「つなぐ」というよりも、「継ぐ」といったほうが正確かもしれない。ひとつのパートから別のパートへと旋律や動機が受け渡されるとき、それをひとつの滑らかなラインへと変容させる(その意味では…
大学、大学院時代と三鷹市に住んでいたけれど、買い物は吉祥寺だったし、図書館もそう。アーケードのある駅前商店街サンロードから少し外れたところにある図書館が、RCAの白黒のジャケットのトスカニーニのCDとの出会いの場だった。ここで『名作オペラブック…
個人的な趣味の問題として、テクニックをひけらかす演奏は好きではない。しかし、難曲を圧倒的な技術で駆け抜けていくパフォーマンスに惹かれるところがないといえば嘘になる。 YouTubeのサジェッションで出てきたFazioliのチャンネルにあった、プッチーニの…
冒頭から濃密。合唱全体が響き合うというよりも、ひとつの太い線となった声部が、先行する声部の作り出した響きに押し入り、みずからの響きを密着させ、融合させていくかのようだ。響きは澄んでいるが、古楽演奏にありがちなエーテル的な浮遊感ではなく、実…
ジョージ・ベンジャミンの音楽を知った経緯がいまひとつ思い出せないけれど、たしかブーレーズから始めて、ミュライユやグリゼーといったスペクトル楽派を聞いていくなかで、Nimbus Records からいくつもリリースされていたメシアンの愛弟子という早熟の天才…
アコーディオンひとり、パーカッションふたりのアンサンブルといわれても、まったく想像がつかない。しかし、プレトークに登壇した作曲家マルティン・マタロンによれば、アコーディオンの音域はフルオーケストラの最低音から最高音までカバーしており、その…
ベルクがビュヒナーの残した断章を再構成した『ヴォツェック』はきわめて演劇的なオペラだ。緻密すぎるほどに作り込まれたスコアは、演奏会形式の上演でも、録音でさえも、充分に自律して聞こえるものの、歌い演じる身体がなければ見えてこないものがある。 …
忌憚のない意見を言わせてもらうなら、少々看板に偽りありのコンサートだった。「オーケストラとバレエの饗宴」と謳われているけれど、それはコンサート後半だけのことで、前半は何の変哲もないコンサート(40分ほどの弦楽オケのヴァイオリン協奏曲)。ステ…
もはや現代音楽というよりは、20世紀の古典としての地位を確立したメシアンの『トゥランガリーラ交響曲』だが、個人的にはどこかどらえどころのない曲でもある。主要動機は頭に入っているし、次にどの音が来るかもだいたい覚えている。にもかかわらず、どう…
ミニマル・ミュージックはわりと好きで、作業用BGMとしてよく聞いているけれど(と書きながら、それでミニマル・ミュージック好きを名乗ってよいものだろうか)、実演で聞いて面白いのかという疑問はずっとあった。退屈するのではないか、と。しかし、一度は…
無伴奏合唱はクラシック音楽のなかでも独特のジャンルではないだろうか。人間の肉体だけが楽器となる。自分の声を他者の声に重ね、解け合わせたり際立たせたりしなければ、音楽にならない。ほかのどの編成にもまして、アンサンブルが、なくてはならないもの…
ベートーヴェンの「田園」が前プロ、ストラヴィンスキーの「春の祭典」がメインという、何か不思議なプログラム。「田園」は「なぜあえてこの曲を?」と首を傾げっぱなしの演奏だったが、しかし、「春祭」は分析と表現が高いレベルで拮抗していて素晴らしか…
シューベルトの「即興曲 Op. 90 No. 3」の冒頭のショパンを先取りしたようなアンニュイで軽やかなアルペッジョが、不思議なことに、滑らかに流れていかない。粘りはしないがトロみはある液体がその身を引きのばして地表を撫でるように移ろっていくように、ゆ…
ケント・ナガノは何かとても不思議な境地に至っているのだろうという気がした。無私の自然体とでも言おうか。指揮者のエゴが消え去り、音楽だけが純粋に響く。しかし、本当に譜面どおりで、余計な強調など一切ない音楽からは、今まで体験したことのない音が…
20250920 「ジョナサン・ノット&東京交響楽団 東京オペラシティシリーズ 第147回」 ハイドン、リゲティ、モーツァルト。「古典はモダンだ」がチラシの煽り文句。個人的にはリゲティの歌劇「ル・グラン・マカーブル」から抜粋された超絶技巧曲の「マカーブル…
大学のときのオーケストラサークルの知り合いが何人も入っているアマオケの公演チケットをもらったので、行ってきた。2階席の前の方のど真ん中。商業公演ならS席だろう。不思議なまでにステージが近く見える。まるで1階席に座っているかのように。 プログラ…
息の音、多言語でささやかれる「海」という言葉、悲劇を予感させるオーケストラのクラスター的な層状の響き。プロジェクションマッピングで舞台前方にも後方にも波紋が広がり、波にも霧にも見える白濁した蠢きが、もったりとした暗く静かな表面を斜めに移ろ…
「怒りの日」はいまここにある、戦争が死者を日々生み出している、わたしたちはこの現状に憤怒すべきではないのか――ジョナサン・ノットはそのような問いをわたしたちに突き付けていたように思えてならない。 tokyosymphony.jp 反戦主義者で平和主義者のベン…
永野英樹は和声を音響に脱構築している。彼のピアノによって、音楽は出来事になる。楽器の振動として、空間に放たれる音波として。旋律は運動する音群に変換され、蠢きや囁きとなる。譜面上の音のヒエラルキーは解体され、再構築される。 何かが付け足される…
20250708 読売交響楽団、第650回定期演奏会@サントリーホールメインはハンス・ツェンダ―の「シューマン・ファンタジー」、中プロは細川俊夫の「月夜の蓮 ―モーツァルトへのオマージュ―」、前プロがメンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」序曲。3曲中2曲が現代音…
86歳のホリガーは自由闊達であり、彼のオーボエが奏でる音には老いの影がない。高い音も低い音も、大きな音も小さな音も、きれいな音もきたない音も、すべてが巧みにコントロールされている。しかも、コントロールしているということを、聞き手に感じさせる…
ワーグナーの楽劇を室内楽に編曲するのは反ワーグナー的なようで、きわめてワーグナー的な試みでもあるように思われる。オーケストラを肥大化させたのがワーグナーだとしたら、妻コジマの誕生日を祝うクリスマス・プレゼントとして作曲した『ジークフリート…
20250111@静岡音楽館AOI 野平一郎のバッハに派手なところはなく、普通の演奏に聞こえてしまう。テンポは中庸。特定のパートを強調することもなければ、対位法的な絡み合いを神経質に作り上げることもない。旋律的ではあるものの、歌い込むまではいかない。…
ジュールズ・ゲイルとフライガイスト・アンサンブル(自由精神合奏団)——旧名アンサンブル・ミニ——による、室内楽的に編曲されたマーラーやブルックナーは、原曲に囚われはしないが、原曲から乖離するのではなく、離反したうえで回帰する、オルタナティヴな…
アイスランドの作曲家にして指揮者のダニエル・ビャルナソン(Daníel Bjarnason)——というカタカナ表記で正しいのかわからないけれど、Naxos ではそうなっているし、同名の父称を持つサッカー選手がそのように表記されているので、それに従っておく——による …
マーラーを室内楽的編成のためにアレンジしようというのは、きわめて反マーラー的であると同時に、マーラーの精神にかなう試みでもあるようにも思う。なるほど、たしかに、シェーンベルクたちの私的演奏協会のためにエルヴィン・シュタインが編曲した4番(19…
コンスタンティノス・カリディス作り出す生き生きとした荒々しさはまさに衝撃的としか言いようがない。1974年ギリシャ生まれ。ミュンヘンのバイエルン国立歌劇場が主催するカルロス・クライバー賞の初年度2011年の受賞者。37歳のときだ。指揮者としては遅咲…
サイモン・ラトルはもうすぐ70歳になろうとしているけれど、彼の作る音楽には若い頃から一貫した特徴がある。硬質でありながら柔軟なリズムの弾み方であり、ミクロなレベルでの高い運動性を、マクロなレベルでの音楽の全体的な強度へと昇華させる手腕だ。 内…
ジョージ・ベンジャミンは決して指揮の巧い人ではない。メシアンに学び、自作のピアノ曲を自演できるほどのピアノの腕前を持つ作曲家であり、専門的な指揮者ではまったくない。とはいえ、現代音楽を専門とするアンサンブルと関係を持ち、ずいぶん指揮台に立…
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