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updown_societyの日記

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「虚無の構造」の勧め

初めに

 

本書はニヒリズム(虚無主義)のどのように引き起こされるか。またそれが我々に対してどのような悪影響をもたらすのかを主に記している。

特徴として我々(著者自身)がニヒリズムに陥っていることを前提としている。これは哲学的学識をお持ちの方ならニヒリズムについて存じていると思われるが、そのような方でもインパクトのある本であることに間違いはない。また本書を哲学書という位置づけであれば、比較的に容易に読破可能であると思われる。

西部邁といえば保守思想家の中の最も有名な日本人であるが、本書は保守思想の本というよりは保守思想家になるための、実直に生きるためのものである。

少し古い本ではあるが現代と近代をテーマにしており現時点から読み始めても、むしろ現代を生きる我々が再びモダニズムを発生させないためにも虚無についての理解は不可欠である。

本記事では序章と一章の個人的印象深い箇所を抜粋しながら以下に述べていくつもりだ。その先の章については本記事での読者様の意向に任せたい。

どんな人に薦められるか

この本は素直(純粋)で活動的な方に読むことを薦めたい(もちろんどなたにも薦めていたいが強いたいのは)。前述したとおり難しい本ではなく(哲学の本という括りでは)読みやすいが、内容がニヒリズムということだけあって辛い本ではある。しかし自らの鬱憤や葛藤が常に渦巻いているような方は居心地の良い空間に満ちている。

序章:虚無について~自覚されざる自己喪失

 

1.『真理は物の見方によって様々でありうる・・・とみるのは相対主義がはらんでいる「ニヒリズム」の底知れなさを十分にとらえていない。』(p18 9行目抜粋)

 

ここでは「多様性、人によって異なる(=相対主義)」という現在でも現在も多く使われている言語についての指摘がされている。確かに価値の絶対視は危険であり、自由な価値を持つことを我々は容認しなければならない時代である。ここで西部が指摘しているのは現代の世人が発する「多様性、人によって異なる」は浅すぎるという点である。その後『真理相対主義者は、他者を無視するという意味で「ニヒリスト」となり、自己のみを拘泥するという意味での「エゴイスト」となる。』(p19 8行目抜粋)

相対主義者つまり多様性を口文句としている現代人は自分とは異なる他者に対しての価値観を理解し肯定しているのではない。本当に価値について理解を深めようとするものは自らの価値基準や他者の価値基準に優劣をつけ、その基準の原点を探させずにはいられない。しかし相対主義者は以上のことを考えず、相対主義を掲げている。その行いはまさに自分の意見(相対主義という)を絶対視しているということであろう。この結末にあるのは自己の精神的「無」を感じる他になく、結果的に世人は無を感じさせない為に自己を社会の意味体系に鎮座することになる。つまり規定された意味を表面的に受け止め、思考停止に追い込まれるさらにひどい状態へ陥る。

現代人の「多様性」は虚無的語句であり、これを連呼して自らの価値を絶対視している者は真の相対主義者ではない。ここでのポイントは、相対主義者は実直ではないということだ実直者であれば以上で説明したとおり他者との相違について熟考し、価値の転換や価値の存続のどちらかが結果となる。真の相対主義は価値について見出すことのできない者への立場だといって良い。虚しいのは西部含めほとんどの人がこの立場若しくはそれ以下という悲惨な価値喪失者となっていることだと言える。

この章で西部伝えたいのは現代人が価値を天秤にかけず、ただ記号化された多様性という口文句を使っているだけであるが、価値を天秤にかけたとしても絶対的価値を持つことは難しいということだ。(但し価値探求者は積極的ニヒリスト(=続きの章に記載)となる)

2.『価値相対主義が絶対視されているこの時代にあって、社会の表層では「価値の多様化」がもてはやされつつも、社会の深層では「価値の一様化」とよんでさしつかえないような事態が進んでいる。そうなるのは、相対主義という価値の分裂症状が状況へのアダプティヴィズム、つまり「適応主義」によって隠蔽されているからである。』(p22 4行目抜粋)

 

 

ここでいう適応主義とは、現在の多数派の世論である民主主義や自由主義、資本主義などのイデオロギーに対して自ら属そうとする動きである。適応主義はその状況下で価値を表面的に変える。そのため今は廃れた社会主義やエリート主義が再流行となった時代が訪れるならばそれらの人の動きは見ものである。一貫性を持つことのできない人間は自己喪失を招き結果的にニヒリズムになる。日本でもしばしばみられる現象として平等と自由を語った矛盾だ。平等と自由は現在世界が掲げている(アメリカや欧州などが)モダニズム的ものだが、これらは相反することがある。わかりやすいのが経済政策であり、税金を無くせ(自由経済を行え)と言っている者が平等を求め、社会主義を安易に馬鹿にするものは平社員で賃金が少ないと愚痴をこぼし(労働運動)ながらだらだらと勤務する。

他にも一部では自由を信じ他人の失敗に対し責任を要求する癖をして、一部の愛らしいものに対しては運命だったと憐れみを持つ。適応主義者(現代人)は価値という言葉など微塵も興味はなく、自らの人格はないに等しいと言えるだろう。

 

 

 

 

 

 

第一章:気分について~頽落の精神

『いかなる論理も、かならずや感情の配下に属し、いかなる理屈もつねに気分の足元に服する。』(p35 1行目抜粋)

 

論理の展開は常に根本の感情に左右されるということである。気分という不確実な状態化の中で理屈を構成するのが我々だ。哲学などを考えるうえで論理のみを重視するのであれば、根本の感情が人によってことなるため物事の認識の相違が発生する。そのため感性は我々がこの世界を語るうえで必要不可欠だ。例えば我々が音楽について語ろうとしているとき耳という感覚器官を通して、シューベルトの曲の良し悪しを図る。これは人によって異なる美を持つからこそこの曲の良し悪しが分かれるのである。他にも嗅覚や視覚、触覚、感情、味覚などの感覚器官から感じ取って我々の論理は展開されて行く。

題名の気分については感情(感覚)がそれを支配する。感情も人によって異なり他人の痛みや葛藤などは共有することなどは不可能である。しかし行動に対しては人々が一致するときがある。これは(正確には違うだろうが)感情(感覚)が他の人と同じことにより発生する。これが顕著に表れるのは文化や時代である。文化であれば日本人は節約を美徳としていたりする。これは文化的感覚の一致と言えるだろう。時代で言えば多様性の重宝などの感覚が根付いているかもしれない。我々はこのような感覚一致を前提とした(当たり前とした)論理展開を行いながら生活しているといえる。もしこの節約や多様性という生活の根本価値が我々から奪われたとき、我々の生活も変わるだろうということだ。

しかし前述したとおり多様性という言葉は虚無的語句となり表面的な理解のみしか理解していない。そんな価値前提のもと我々が行動することはもはや脳内停止のニヒリスト以外の何者でもないだろう。そのため我々はまず自分が動かせられている気分(感覚、感情)についての理解が必須なのである。

 

 

 

総括

察しの良い方なら理解したと思うがこれニーチェ哲学にかなり影響をうけたものだと言える。そのためニーチェの本を読んだ方であれば規制の知識なのかもしれない。この本では高度情報社会について論じているとともに保守思想につながることについても諭しているため、ニーチェの読者であってもインパクトを受けるだろう。逆にニーチェについて知らない方はこの本でニーチェについて少し理解が深まるかもしれない。

私個人の読後の感想として哲学者の苦悩は図りしえないものだということだ。私自身真面目であると認識していたがこの本の中で出てくる哲学者たちと西部邁をみれば及ぶことはないと確信した。どれだけの時間私は忘却や頽落、逃避という悪行を行ってきたかが身に染みて分かる。そしてこの本に出合えた運命この因果に感謝せざるを得ない。以上だ。

最後にこの本は私のような感情になれば本意であろう。私からはこの本を読み自分(この世界)と戦う勇気を見つけてほしいと思い、本記事を書いた次第である。

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