

世の中に対して「頑張っても報われない」「なんで自分ばかりこんな目に遭うんだ」と憤りを感じることはありませんか。
結論から言うと、私たちが理不尽さを感じるのは、世界が間違っているからではなく、「世界は公平であるべきだ」という私たち自身の思い込みが原因です。
多くの人は心のどこかで、努力は必ず報われるし、悪い人よりも良い人が評価されるのが「正しい世界の姿」だと信じています。
しかし、現実はそうではありません。
著者の細谷氏は、これを「永久機関」の研究に例えています。
かつて科学者たちはエネルギーを生み出し続ける夢の機械を作ろうと必死でしたが、物理法則によってそれは不可能だと証明されました。
つまり、最初から不可能なことを追い求めても徒労に終わるだけなのです。

具体例を挙げると、「いじめ」や「正義」の基準もそうです。
授業中に騒ぐ生徒を注意するのは正義に見えますが、少し変わった生徒を「クラスの平穏のために」排除しようとする行為も、当事者たちにとっては正義になってしまうことがあります。
善悪や評価の基準は、見る人の都合や環境でコロコロ変わるものです。
結局のところ、世界はそもそも公平でもなければ、平等でもありません。
まずは「世界は不公平なのがデフォルトである」という事実を受け入れることが、理不尽さから解放される第一歩なのです。

学校で習ったことと、社会に出てから求められることにギャップを感じて戸惑った経験はないでしょうか。
実はこれ、「ねじれの法則」と呼ばれる現象で、教えられる理想と現実社会の仕組みが食い違っていることが原因です。
なぜなら、教育の現場では
「夢を持て」
「個性を大事にしろ」
「言いたいことははっきり言え」
と教わりますが、実際の会社組織やコミュニティでは、空気を読んで目立たないように振る舞う「調整役」の方が評価されやすいからです。
ドラマや漫画の主人公は型破りなヒーローですが、現実社会の大多数はヒーローではなく、組織を円滑に回すモブキャラ(脇役)として生きることを求められます。

これを川の石に例えてみましょう。
川の上流にある石は大きくてゴツゴツと尖っており、個性的です。
これは教える立場の人や成功者に多いタイプです。
しかし、川を下るにつれて石は削られ、丸く小さくなっていきます。
社会という下流では、尖った石よりも、丸くて扱いやすい石の方が隙間を埋めるのに役に立つのです。
尖った石が良いわけでも、丸い石が悪いわけでもありません。
ただ、「個性的に生きろ」と教えられながら、実際には「丸くなれ」と圧力をかけられる。
このねじれ構造を知っておかないと、いつまでも「教わった通りにしているのに評価されない」という不満を抱え続けることになります。

「目標を達成すれば幸せになれる」と信じて、今の苦しさに耐えていませんか。
もしそう考えているなら少し危険です。
なぜなら、目標達成と幸福感はイコールではなく、むしろ「目標に到達したのに虚しい」という理不尽さを味わう可能性があるからです。
多くの人は、努力を「報酬を得るための代償」と考えています。
しかし本来、努力とは結果を出すための手段である以前に、そのプロセス自体を楽しむものであるはずです。
もし結果だけが全てなら、私たちは人生という時間をただ消費しているだけになってしまいます。

わかりやすい例として「山登り」を想像してください。
山登りの楽しさは頂上に立つことだけでしょうか。
もしそうなら、ヘリコプターや「どこでもドア」で一瞬で頂上に行ければ最高ということになります。
でも、登山好きはあえて自分の足で登りますよね。
それは、登っている最中の苦しさや景色を含めたプロセスそのものが楽しいからです。
ゲームも同じで、いきなりエンディング画面を見せられても嬉しくありません。
クリアするまでの試行錯誤が楽しいのです。
「成功すれば幸せになれる」という条件付きの幸せではなく、「登っている今が楽しい」と思える道を選ぶこと。
そうすれば、結果がどうあれ「努力が無駄になった」と絶望することはなくなります。

私たちはよく「良いことと悪いことはプラスマイナスゼロになる」と考えがちですが、これは大きな間違いです。
人間の心理には「感情の非対称性」があり、ポジティブな出来事よりもネガティブな出来事の方を圧倒的に重く受け止める性質があります。
この錯覚が、世の中をより理不尽で生きにくい場所に感じさせているのです。
理由はシンプルで、人間は生存本能として「利益」よりも「損失」に敏感だからです。
同じ大きさの出来事でも、喜びより怒りや悲しみの方がパワーが強いのです。
具体例として、飲食店のレビューを見てみましょう。
美味しかった時にわざわざ「最高でした」と書く人は稀ですが、店員の態度が悪かったり料理がまずかったりした時は、怒りに任せて長文の低評価を書きたくなりませんか。

また、お金に関しても、宝くじで20万円当たる喜びよりも、財布を落として20万円失う絶望感の方がはるかに深いはずです。
YouTubeのコメント欄でも、99件の称賛より、たった1件のアンチコメントが心をえぐります。
この仕組みを理解していないと、「もっと良いことを増やさなきゃ」と必死になって疲弊してしまいます。
幸福度を上げるためには、喜びを追い求めるよりも、嫌なことやストレスを感じる機会を減らす「守りの戦略」の方が、実は効率的で賢い生き方なのです。

ここまで、世の中の理不尽さの正体について解説してきましたが、最後にお伝えしたいのは「絶望する必要はない」ということです。
結論として、世界が不公平で、運に左右されるものであるという事実は、裏を返せば私たちにとって「希望」にもなり得ます。
もし世界が完全に公平で、実力やスペックだけで全てが決まるなら、後から始めた人や才能がない人には勝ち目がありません。
全てが計算通りに進む世界は、機械的で息苦しいものです。

しかし、現実には運やタイミング、その場の都合といった「ゆらぎ」があります。
だからこそ、後発組でもアイデア次第で先駆者を追い越せたり、失敗してもたまたま環境が変わって再評価されたりするチャンスがあるのです。
善悪の基準さえ曖昧だからこそ、私たちは自分で自分の生き方を選ぶ自由があります。
「世界はもっとこうあるべきだ」という理想を押し付けるのをやめてみましょう。
「まあ、世の中そんなもんだよね」と肩の力を抜いて、不公平な現実を前提に「じゃあ、自分はどう楽しもうか?」と考える。
そうやって視点を切り替えた瞬間、理不尽だらけだった世界は、攻略しがいのある自由なフィールドに変わるはずです。

世界が間違っているのではなく、「世界は公平であるべき」という私たちの思い込みが、現実とのギャップ(理不尽さ)を生んでいます。
学校では「個性的で能動的なヒーロー」が賞賛されますが、社会では「空気を読む調整役」が求められます。
この矛盾を知ることで無駄なストレスが減ります。
目標達成=幸せではありません。
「山登り」のように、結果だけでなくプロセス自体を楽しめる道を選ぶことが大切です。
人間は「良いこと」より「悪いこと」に強く反応します。
幸せになるには、喜びを増やすより「嫌なことを減らす」工夫が効果的です。
実力だけで決まらない「不公平な世界」だからこそ、運や工夫次第で誰にでも逆転のチャンスがあります。
世の中の「理不尽さ」に振り回されず、心の平穏を保つヒントになれば幸いです。
参考文献:
「無理」の構造 この世の理不尽さを可視化する [ 細谷 功 ]
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