
「!」でそれが何を指すか通じるかな、と思ったんだけど。台本印刷駆け込みで入ったラス1の考証でした(実はもう一個ある)。まあ、僕的には佐久間象山が松代藩士と知らない人が多いのでご紹介したかったのと、時間軸上松代の話ができなかったので、喜んでチェックした次第です。
2016-12-18 21:19:51
「組!」って書いたほうが良かったかなぁ。あんまり説明するのも、興を削ぐかなと思ったんだが。もちろん、三谷さんの意図としてもこのつながりは副次的で、その後の信之、松代藩にも触れておきたい、という中の一部(だと思う、直接話してないから)のですが。
2016-12-18 21:23:30
特集 さなイチ 別冊!インタビュー 時代考証 黒田基樹さん×平山優さん×丸島和洋さん|大河ドラマ『真田丸』 『真田丸』で時代考証を担当していただいた黒田基樹先生、平山優先生、丸島和洋先生に、クランクアップの際にお話を伺いました。nhk.or.jp/sanadamaru/spe…
2016-12-18 21:56:47
いろいろ慰労のリプをいただき、ありがとうございます。ちょっと全員にご返信するのが無理そうです。申し訳ありません。あと、もう一回、最終回の補足までお付き合いください。
2016-12-18 22:18:19
特集 インタビュー 徳川家康 役 内野聖陽さん ~短い時間で記憶に残るように~|大河ドラマ『真田丸』 今まで誰も見たことないような家康像を作り上げた内野聖陽さん。最終回のエピソードを語ってくださいました。nhk.or.jp/sanadamaru/spe…
2016-12-18 22:35:26
どうしようかと思いましたが。やはり心理的なケリをつけてしまいたいので、真田丸、最後の補足です。ついに最終回。まあ、総集編であるかもですが。叔父上の打ち上げツイートを眺めつつ、ちょこちょこと。
2016-12-19 00:44:00
冒頭、出てきた不可思議な集団は、放映開始時に作成されたPV「ダメ田十勇士」のメンバーです。下の名前だけ、いわゆる「十勇士」の名前になっています。特別出演という話は前から出ていまして、彼らの台詞は元のPVのイメージと変えると台無しなので、特に考証で修正意見は出していません。
2016-12-19 00:47:29
この物語では、単なる足軽集団で、忍者ではないですね。なお、その会議の時に「ご覧になりました?」と聞かれ、「えーと、ちょこっと」といったら関係者が複数いて、びみょーな空気になって焦りました。改めてみましたが、切ない物語ですね。
2016-12-19 00:49:33
大角与左衛門。5/7に内通して火の手をあげて内通した台所頭です。内通書状の小道具で、署名を最初「お」にしていたのは、織田有楽斎と誤認させるための演出ですね。後藤又兵衛の家族のところでちょっと解説を濁したのは、今回の話の前振りだったためでした。
2016-12-19 00:54:59
「日の本一の兵」。夏の陣後、島津家久が国許に送った書状にあることばです。本作は信繁の死の瞬間で終わりにする(信之は別として)ことは比較的早い段階で決まっていたので、冬の陣で信繁がもっとも尊敬し、かつ彼を息子の如く可愛がっている景勝、そして今回の内記の台詞となりました。
2016-12-19 00:59:16
誰に話してもらうのが、一番相応しいか、という作劇なのだと思います。もっとも、家久は「惣別これのみ申す事に候」(みんなこのことばかり言っている)と書いているので、「日の本一の兵」と言ったのは、実は家久ではなく、他の諸大名であったりします。
2016-12-19 01:00:46
明石全登が船場口から別働隊として背後を遅う計画だったというのは軍記にみえるのですが、当時の史料を眺めてみても、蓋然性が高いものと思います。ただ、結果的にうまく連動できなかったのですが・・・。
2016-12-19 01:02:10
毛利勝永(正しくは吉政)は、夏の陣で信繁と並ぶ武功を立て、序盤戦で圧倒しました。実は信繁の部隊は、前日に伊達勢と激戦をしていましたから、かなり疲労が濃かったので、動きは毛利隊のほうがよかったと推測されます。
2016-12-19 01:04:26
両軍とも「指示を待ち、迂闊に攻めてはならぬ」という指示が通達されていました。ところが、ここまでの戦闘で、家康から叱責を受けていた松平忠直が、勝手に毛利勢に攻撃をしかけてしまいます。同様の状況にあり、思い詰めていた本多忠朝もこれに続きました。
2016-12-19 01:08:40
これは家康からすると、まったく想定外の事態でした。というのも、そもそも徳川方はまだ布陣が完了していなかったからです。特に家康は、布陣が終わるのを待つつもりでいました。
2016-12-19 01:11:02
この点につき、三谷さんから「どうして悠長に構えていたのか」というご質問をいただきました。答えは、「初陣の息子義直・頼宣に実戦を見せようと、彼らの到着を待っていたから」です。信吉が「まだ、攻めかかれという命令を受けておらぬ」としたのはそれを受けてのもので、ひとつの正解です。
2016-12-19 01:14:29
ただ、戦後味方が攻められているのを傍観したと叱責を受けた大名もおり、信政の行動も、実は正解です。ようするに、非常に難しい判断なわけです。その上で、信吉が自分の命令を無視した信政に礼を言うということで、息子達の世代の成長譚となりました。
2016-12-19 01:16:52
この合戦の徳川方はかなり酷いものでして、抜け駆けをしたあげくに本多忠朝(忠勝次男、真田信吉の寄親)は討死、伊達政宗は幕府方大名を間違って壊滅させてしまい、島津から罵倒されています。
2016-12-19 01:19:16掲載ポストについて
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