栗原はトランスフォビアに転んだの何だの言われるに決まってるから(もう言われてるか)、笙野頼子をめぐる件についての考えを少しまとめておこう。
エアリプでやりとりするのがTRA界隈の作法のようなので(もう面倒くさいのでTRAとTERFでいきますよ)。
「現実に生きている人間を「議論」の対象にすることの暴力性を考えてほしい」
と水上文は言うが、では自分が他人を差別者呼ばわりすることの暴力性についてはどう自認しているのか。
おれが水上文の言説に疑問を持ったきっかけはここだ。笙野頼子をいきなり差別者呼ばわりしているのを見て驚いた。他人に差別者のレッテルを貼るのは言うまでもなく重い行為である。逡巡もつきまとうはずだ。ところがこの新人批評家は、躊躇なく笙野に差別者の裁定を下していたのである。
水上文のこの言動を、最初おれはよく理解できなかった。考えた末に「クソ度胸」とか「胆力」と解し、「肝っ玉の据わった新人が登場したものだ」というふうに『週刊新潮』で評価した。水上が笙野を差別者と批判したのは、彼女が『文藝』で始めた文芸時評の第1回でのことで、文芸誌初登場でもあった。
同じタイミングで水上文は、『文學界』の「新人小説月評」の評者に起用された。笙野頼子はこの欄の評者は権威みたいに言っていたけど(まあ、揶揄だろうが)、権威がついてくるような仕事ではない。おれも2回やってるし、水上の前にやっていた荒木優太なんか失言一発で軽々と干されたくらいのものだ。
「新人小説月評」評者なんてその程度の存在にすぎないが、実績のない新人が起用されるという意味で抜擢ではあり、文芸誌2誌に同時に「抜擢」されるというのはレアな事態である。仕事で長年文芸誌を眺めているが、水上文という人はまったくの初見で、事情通の知人につい「何者?」と訊ねてしまった。
素性のよくわからない新人批評家がベテラン作家を差別者呼ばわりする。それをおれは一種のデスペラートな蛮勇と解したのだが、笙野頼子が『発禁小説集』を出したのを見て、何か根本的な思い違いがあるんじゃないかと疑心暗鬼になり調べた。そうしてようやくTRAの常軌を逸した実態を知るのである。
今回の『週刊新潮』で、笙野頼子をめぐる問題を取り上げたのは、誤解を訂正する意味が大きかった。トランスジェンダーなんてクソ面倒くさい問題に首を突っ込んだって、利権を狙う一部の輩以外には労ばっかりで得るものなしだから避けて通りたいところだが、言論の責任は果たさなければならない。
水上文が笙野頼子を差別者呼ばわりしたのは蛮勇などではなく、TRA界隈の「作法」らしいことがわかってきた。差別者のレッテルを貼りながら「議論」は徹底して避けキャンセルするのも「作法」らしかった。水上は、差別者と議論することに公正さなどないと言うが、これもTRAの公式見解みたいなものだ。
そもそも「差別者」のレッテルを貼っているのは水上文(およびTRA)であり、自分で貼った「差別者」を根拠に「議論」できないとか言うのはマッチポンプである。いわゆるひとつの大概にしろよというやつだ。
批判者(TERF)に「もっと勉強しろ」とマウントするのもTRAのやり口らしい。水上文も李琴峰も、笙野頼子に「もっと知れ」とかましていた。何十年もフェミニズムをやってきた作家である笙野としては、怒りを通り越して呆れるばかりだったであろう。
李琴峰なんて、笙野作品なんて読んでないがこういう人にはなりたくないと言って憚らず見ているほうがハラハラした。差別者呼ばわりといい、勉強マウントといい、敬意を欠いているでは説明のつかない病理を感じるが、あとで知ったところでは、李はTRAのボスである清水晶子の門下生だということだった。
今回の『週刊新潮』の拙記事にも「もっと勉強しろ」的な批判が寄せられた。それで十分というつもりはないが、TRAとTERF取り混ぜて10数冊+主要記事くらいには目を通したんですよ。ボス清水晶子の『フェミニズムってなんですか?』も読んだし、例の「埋没した刺」も読んだよ。
千田有紀の「「女」の境界線を引き直す」も読んだし、反応も読んだ。TRAの皆さんが「ターフ!」とキャンセルに勤しんだヘレン・ルイス『むずかしい女性が変えてきた』も読んだ。同書にはその後朝日新聞書評が出てしょぼーんだったようだが、朝日に詰め寄ったという話は寡聞にして聞きませんな。
勉強しろとの忠告に愚直に従ったものの、読めば読むほどTRAの異常性が際立つばかりで、これ以上読んだところで認識に更新はないだろうという判断の下で、笙野頼子を取り上げた『週刊新潮』記事は書かれることになったのでした。
TRAについてどうかしていると思わせたのは、まず何より、千田有紀論文はターフだからキャンセルしろと言い募った、高島鈴「都市の骨を拾え」(『現代思想』)の異常性ですね。これはすごかった。何の関係もない原稿の冒頭で、何一つ論証することなく、千田をキャンセルしろというばかりの代物なのだ。
ヘレン・ルイス『むずかしい女性が変えてきた』のtoi books扱いに、TRAの首脳陣が雁首並べてキャンセルをかましてきた様に、言いしれぬ狂気を感じたことも大きかったですね。ところで、死ぬほどターフな本の朝日書評をキャンセルしなかったのはなぜなんでしょうか。
性自認は主観である。
トランス女性が女性スペースに入ってくることに生物学的女性が不安や恐怖を感じるのも主観である。
主観同士の間に優劣はない。なのにTRAは、前者を不可侵な聖域のごとく祭り上げる一方で、後者を単なる差別者(TERF)と斥けてきた。
社会的コンフリクトを招くことが明らかな主観の対立において必要なのは、両者の調停であって、片方を祭り上げ、片方を排除することではないだろう。だが、TRAがやっているのはそういうことであり、水上文のレトリックも同様である。
TERFと排除された人たちのほとんどは、トランス差別者などではなく、生物学的男性が女性スペースに侵入することに不安を覚える生物学的女性にすぎない。
つまり普通の女性である。
そんな普通の女性に「TERF」という烙印を押し差別者呼ばわりして排除してきたことに、TRAの異常性は集約されるだろう。
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