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古文で読みたい

古典を読みたい人が、古典にアクセスするための本です

方丈記01|行く川の流れは絶えずして

真の古典の魅力は、作者が紡いだ原文の中にこそ息づいています。「古文で読みたいシリーズ」で、現代語と古文を併読することで、古の言葉が今なお放つ光を確かめてください。

💭ポイント

川の流れや水の泡を例に、人も住まいも常に移ろいゆくものであるという無常観を説く。華やかな都でさえ例外ではなく、全ては儚いという本作の主題が示される。

🌙現代語対訳

流れていく川の流れは絶えませんが、それでいて元の水ではありません。

()(かは)のながれは()えずして、しかも(もと)(みづ)にあらず。

よどんでいる所に浮かぶ水の泡は、

よどみに(うか)ぶうたかたは、

あるものは消え、あるものはでき、長くとどまっていることはないのです。

かつ()えかつ(むす)びて(ひさ)しくとゞまることなし。

この世に生きる人とその住まいも、またこれと同じようなものです。

()(なか)にある(ひと)とすみかと、またかくの(ごと)し。

立派な都の中で、家が棟を並べ屋根を競い合っています。

(たま)しきの(みやこ)(うち)にむねをならべいらかをあらそへる、

身分の高い人から低い人まで、住まいは、代々受け継がれて尽きることはないように見えますが、

たかきいやしき(ひと)のすまひは、代々(よよ)()()きせぬものなれど、

これが本当かと聞いてみると、昔からあった家は少ないのです。

これをまことかと(たづ)ぬれば、(むかし)ありし(いへ)はまれなり。

ある家は去年焼けて今年は建てられ、

(あるひ)はこぞ()れてことしは(つく)り、

またある大きな家はなくなって小さな家になっています。

あるは(おほ)(いへ)ほろびて()(いへ)となる。

住んでいる人も、これと同じです。

()(ひと)もこれにおなじ。

場所は同じで、人も大勢いますが、

(ところ)もかはらず、(ひと)(おほ)かれど、

昔に見知った人は、二、三十人のうちでほんの一人か二人くらいしかいません。

いにしへ()(ひと)は、()(さん)(じふ)(にん)(なか)に、わづかにひとりふたりなり。

朝に亡くなり、夕方には生まれるという世の習いは、

あしたに()し、ゆふべに(うま)るゝならひ、

まさしく水の泡のようなものです。

たゞ(みづ)(あわ)にぞ()たりける。

📚古文全文

()(かは)のながれは()えずして、しかも(もと)(みづ)にあらず。よどみ((うか)ぶうたかたは、かつ()えかつ(むす)びて(ひさ)しくとゞまることなし。()(なか)にある(ひと)とすみかと、またかくの(ごと)し。(たま)しきの(みやこ)(うち)にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき(ひと)のすまひは、代々(よよ)()()きせぬものなれど、これをまことかと(たづ)ぬれば、(むかし)ありし(いへ)はまれなり。(あるひ)はこぞ()れてことしは(つく)り、あるは(おほ)(いへ)ほろびて()(いへ)となる。()(ひと)もこれにおなじ。(ところ)もかはらず、(ひと)(おほ)かれど、いにしへ()(ひと)は、()(さん)(じふ)(にん)(なか)に、わづかにひとりふたりなり。あしたに()し、ゆふべに(うま)るゝならひ、たゞ(みづ)(あわ)にぞ()たりける。

【出典および補足】

原文方丈記 (國文大觀) 作者:鴨長明 建曆二年(1212年)
  出典:ウィキソースhttps://ja.wikisource.org/wiki/方丈記 (國文大觀)

挿絵方丈記絵巻(三康文化研究所附属三康図書館所蔵)
  出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/100449058

現代語訳:ざっくり研究所 都築輝繁 (2025年)
・この章の区切りとタイトルは、内容に応じて独自に設定しました。
・一行ごとの対訳、ふりがなは、読解の助けとなるよう独自に設定したものです。

徒然草243【終】|八つになりし年、父に問ひていはく、仏はいかなるものにか候ふらんと言ふ・・・

真の古典の魅力は、作者が紡いだ原文の中にこそ息づいています。「古文で読みたい徒然草シリーズ」で、現代語と古文を併読することで、古の言葉が今なお放つ光を確かめてください。

💭ポイント

作者が幼い頃、「最初の仏は誰に教わったのか」と父に問い、答えに詰まらせた。父はそのやりとりを面白がって人に語ったという。

【終】徒然草はこの段で終わりです。

徒然草絵抄』(小泉吉永所蔵) 出典: 国書データベース

🌙現代語対訳

数え年で八歳になった年、父に尋ねました。

つになりしとしちちひていはく、

「仏様とは、どのようなものでしょうか」と。

ほとけはいかなるものにかさぶらふらん」とふ。

すると父はいいました、「仏は、人がなったものだよ」と。

ちちがいはく、「ほとけには、ひとりたるなり」と。

私がさらに聞きました、「人はどうやって仏になるのですか」と、

またふ、「ひとなにとしてほとけにはさぶらふやらん」と。

父は、また、「仏様の教えによって、仏になるのだ」と答えました。

ちち、また、「ほとけをしへによりてるなり」とこたふ。

私がまた聞きました。「その教えを説かれた仏様は、何に教わったのですか」と、

またふ、「をしさぶらひけるほとけをば、なにをしさぶらひける」と。

父はまた答え、

またこたふ、

「その仏様もまた、その前の仏様の教えによっておなりになったのだ」と。

「それもまた、さきほとけをしへによりてたまふなり」と。

また聞きました。「では、その教えを一番初めに説かれた仏様は、

またふ、「そのをしさぶらひける第一だいいちほとけは、

どのような仏様だったのでしょうか」というと、父は、

いかなるほとけにかさぶらひける」とときちち

「空からでも降っのか。地面からでも湧いたのか」と言って笑いました。

そらよりやりけん。つちよりやきけん」とひてわらふ。

 

「問い詰められて、答えられなくなってしまった」と、

ひつめられて、えこたへずなりはべりつ」と、

人々に話しては、面白がっていました。

諸人もろびとかたりてきようじき。

📚古文全文

つになりしとしちちひていはく、「ほとけはいかなるものにかさぶらふらん」とふ。ちちがいはく、「ほとけには、ひとりたるなり」と。またふ、「ひとなにとしてほとけにはさぶらふやらん」と。ちち、また、「ほとけをしへによりてるなり」とこたふ。またふ、「をしさぶらひけるほとけをば、なにをしさぶらひける」と。またこたふ、「それもまた、さきほとけをしへによりてたまふなり」と。またふ、「そのをしさぶらひける第一だいいちほとけは、いかなるほとけにかさぶらひける」とときちち、「そらよりやりけん。つちよりやきけん」とひてわらふ。
ひつめられて、えこたへずなりはべりつ」と、諸人もろびとかたりてきようじき。

徒然草242|とこしなへに違順に使はるることは、ひとへに苦楽のためなり・・・

真の古典の魅力は、作者が紡いだ原文の中にこそ息づいています。「古文で読みたい徒然草シリーズ」で、現代語と古文を併読することで、古の言葉が今なお放つ光を確かめてください。

💭ポイント

人が求める快楽は名誉・色欲・美味の三つだが、これらは根本的な迷いから生じる苦悩の元なので、求めない方が良い。

🌙現代語対訳

常に 嫌ったり 好んだりして、心が動かされるのは、

とこしなへに違順ゐじゆん使つかはるることは、

ひとえに苦と楽によるものです。

ひとへに苦楽くらくのためなり。

 

「楽」というのは、好み愛することです。

らくといふは、このあいすることなり。

これを求めることは、止まる時がありません。

これをもとむること、ときなし。

楽を求める対象の、一つ目は名誉ですが、

楽欲げうよくするところひとつにはなり。

名誉には二種類あり、業績と学問芸術に対する栄誉です。

二種にしゆあり。行跡ぎやうせき才芸さいげいとのほまれなり。

二つ目は色欲、三つ目は美食です。

ふたつには色欲しきよくつにはあぢはひなり。

あらゆる願い事も、この三つに及ぶものはありません。

よろづのねがひ、このつにはしかず。

 

これは、苦楽をあべこべに見てしまうから生じるもので、多くの苦悩があります。

これ、顛倒てんだうさうよりおこりて、そこばくのわずらひあり。

初めから求めないに越したことはありません。

もとめざらんにはしかじ。

📚古文全文

とこしなへに違順ゐじゆん使つかはるることは、ひとへに苦楽くらくのためなり。
らくといふは、このあいすることなり。これをもとむること、ときなし。楽欲げうよくするところひとつにはなり。二種にしゆあり。行跡ぎやうせき才芸さいげいとのほまれなり。ふたつには色欲しきよくつにはあぢはひなり。よろづのねがひ、このつにはしかず。
これ、顛倒てんだうさうよりおこりて、そこばくのわずらひあり。もとめざらんにはしかじ。

徒然草241|望月の円かなることは、しばらくも住せず、やがて欠けぬ。心とどめぬ人は・・・

真の古典の魅力は、作者が紡いだ原文の中にこそ息づいています。「古文で読みたい徒然草シリーズ」で、現代語と古文を併読することで、古の言葉が今なお放つ光を確かめてください。

💭ポイント

人生は満月のように儚い。俗世の願いは後回しにせず、ただちに万事を捨て仏道に励むべきだという人生の教訓。

🌙現代語対訳

満月の円い状態は、束の間もとどまることなく、

望月もちづきまどかなることは、しばらくもぢゆうせず、

すぐに欠け始めます。

やがてけぬ。

よく注意していない人には、たった一晩のうちに、

こころとどめぬひとは、一夜ひとようちに、

それほど形が変わるようには見えないかもしれません。

さまでかはるさまもえぬにやあらん。

 

病気が重くなるのも、停滞することなく、死期は近づいています。

やまひおもるも、ぢゆうするひまなくして、死期しごすでにちかし。

それなのに、まだ深刻でなく、死に直面していない間は、

されども、いまだやまひきふならず、におもむかざるほどは、

世の中が変わらず平穏な生活が続くという考え方に慣れ親しんで、

常住平生じやうじゆうへいぜいねんならひて、

「人生で多くのことを成し遂げた後で、静かに仏の道を修行しよう」

しやうなかおほくのことをじやうじてのちしづかにみちしゆせん」

と思っています。しかし、

おもふほどに、

病気になって死が迫った時、願いは何一つ成就していません。

やまひけて死門しもんにのぞむとき所願しよぐわん一事いちじじやうぜず。

どうしようもなく、長年の怠惰を後悔して、

いふかひなくて、年月としつき懈怠けだいいて、

「今回、もし病気が治って命が助かったなら、

「このたび、もちちなほりていのちまたくせば、

昼も夜も惜しんで、あれもこれも、

よるにつぎて、このこと、かのこと、

怠ることなく成し遂げよう」と願を立てるでしょうが、

おこたらずじやうじてん」とねがひをおこすらめど、

やがて病は重くなり、我を忘れて、混乱したまま死にます。

やがておもりぬれば、われにもあらず、みだしててぬ。

このような例ばかりでしょう。

このたぐひのみこそあらめ。

このことを、人々は何よりも急いで心に留めておくべきです。

このこと、まづ人々ひとびといそこころくべし。

 

やりたい事をすべてやった後で、時間ができてから、仏道に入ろうと思っても、

所願しよぐわんじやうじてのちいとまありて、みちむかはんとせば、

やりたい事が尽きることはありません。

所願しよぐわんくべからず。

幻のようなこの人生で、何を成し遂げられるというのでしょうか。

如幻によげんしやうなかに、何事なにごとをかなさん。

結局、やりたい事はすべて妄想です。

すべて、所願しよぐわんみな妄想まうざうなり。

「心に願いが浮かんだら、それは迷いの心が乱れているのだ」と悟って、

所願しよぐわんこころたらば、妄心迷乱まうしんめいらんす」とりて、

一つとして実行してはなりません。

一事いちじをもなすべからず。

ただちに万事を捨て去って仏道に向かう時、

ただちに万事ばんじ放下はうげしてみちむかとき

妨げもなく、余計な活動もなくなり、

さはりなく、所作しよさなくて、

心も体も永く閑かになります。

心身しんしんながくしづかなり。

📚古文全文

望月もちづきまどかなることは、しばらくもぢゆうせず、やがてけぬ。こころとどめぬひとは、一夜ひとようちに、さまでかはるさまもえぬにやあらん。
やまひおもるも、ぢゆうするひまなくして、死期しごすでにちかし。されども、いまだやまひきふならず、におもむかざるほどは、常住平生じやうじゆうへいぜいねんならひて、「しやうなかおほくのことをじやうじてのちしづかにみちしゆせん」とおもふほどに、やまひけて死門しもんにのぞむとき所願しよぐわん一事いちじじやうぜず。いふかひなくて、年月としつき懈怠けだいいて、「このたび、もちちなほりていのちまたくせば、よるにつぎて、このこと、かのこと、おこたらずじやうじてん」とねがひをおこすらめど、やがておもりぬれば、われにもあらず、みだしててぬ。このたぐひのみこそあらめ。このこと、まづ人々ひとびといそこころくべし。
所願しよぐわんじやうじてのちいとまありて、みちむかはんとせば、所願しよぐわんくべからず。如幻によげんしやうなかに、何事なにごとをかなさん。すべて、所願しよぐわんみな妄想まうざうなり。「所願しよぐわんこころたらば、妄心迷乱まうしんめいらんす」とりて、一事いちじをもなすべからず。ただちに万事ばんじ放下はうげしてみちむかとき、さはりなく、所作しよさなくて、心身しんしんながくしづかなり。

徒然草240|しのぶの浦の蜑の見るめも所せく、くらぶの山も守る人しげからんに・・・

真の古典の魅力は、作者が紡いだ原文の中にこそ息づいています。「古文で読みたい徒然草シリーズ」で、現代語と古文を併読することで、古の言葉が今なお放つ光を確かめてください。

💭ポイント

障害の多い恋こそ趣深く、親の認めた恋や見合いは味気ない。不釣り合いな恋は不幸なので、風流を解さぬ相手なら恋はしない方が良い。

徒然草絵抄』(小泉吉永所蔵) 出典: 国書データベース

🌙現代語対訳

人目を忍ぶ「信夫の浦」で、海松布(みるめ)という海藻を採る海人のように、人の見る目が多くて、自由に会えず、

しのぶのうらあまるめもところせく、

暗い「くらぶの山」も見守る人が多いのに、

くらぶのやまひとしげからんに、

無理にでも通おうとする恋心こそ、浅いものではなく、

わりなくかよはんこころいろこそ、あさからず、

心に染みる忘れがたい、思い出も多くなることでしょう。

あはれとおもふふしぶしの、わすれがたきこともおほからめ。

親や兄弟が認めて、何の波乱もなく迎え入れるような恋は、

おやはらからゆるして、ひたぶるにむかゑたらん、

まぶしすぎてきまりが悪いしょう。

いとまばゆかりぬべし。

 

世の中で落ちぶれてしまった女性が、

にありわぶるおんなの、

不似合いな年老いた法師や、無骨な田舎者であっても、

げなき老法師おいほうし、あやしの吾妻人あづまびとなりとも、

暮らしが豊かだからといって、「誘ってくれるなら…」などと言うのを、

にぎははしきにつきて、「さそふみづあらば」などふを、

仲人が、両方にとって魅力的に聞こえるように取り持って、

仲人なかうど、いづかたもこころにくきさまにひなして、

お互い知らない人を、迎えて来てしまうのは味気ないことです。

られずらぬひとを、むかへもてたらんあいなさよ。

どんな言葉を交わすというのでしょうか。

なにごとをかうちづることにせん。

過ごした年月のつらさや、筑波山の歌のように乗り越えてきた思い出を語り合えることこそ、

年月としつきのつらさをも、「葉山はやまの」などもあひかたらはんこそ、

尽きることのない会話の種になるというのに。

きせぬことにてもあらめ。

 

だいたい、他人が取り持った縁談は、

すべて余所よそひとりまかなひたらん、

なんとも、気に入らないことが多いものです。

うたて、こころづきなきことおほかるべし。

素晴らしい女性であっても、

よきおんなならんにつけても、

身分が低く、見栄えもせず、年取っている男は、

しなくだり、にくく、としけなんをとこは、

「あんなつまらない男のために、惜しい女を無駄に

「かくあやしきのために、あたらをいたづらに

しなくてもいいのに」と、彼女も軽蔑され、

なさんやは」と、ひと心劣こころおとりせられ、

本人は夫と向かい合っていても、自分の姿を恥ずかしく思うことでしょう。

わがむかたらんも、かげはづづかしくおぼえなん。

本当につまらないことです。

いとこそあいなからめ。

 

梅の花が香るおぼろ月夜に佇むことや、

うめはなかうばしき朧月おぼろづきにたたずみ、

生垣の草原の露をかき分けて出ていくような夜明けの空が、

御垣みかきはらつゆでん在明ありあけそらも、

自分にふさわしいと感じられないような人は、

わがさまにしのばるべくもなからんひとは、

初めから色恋沙汰などしないほうがいいです。

ただいろこのまざらんにはしかじ。

徒然草絵抄』(小泉吉永所蔵) 出典: 国書データベース

📚古文全文

しのぶのうらあまるめもところせく、くらぶのやまひとしげからんに、わりなくかよはんこころいろこそ、あさからず、あはれとおもふふしぶしの、わすれがたきこともおほからめ。おやはらからゆるして、ひたぶるにむかゑたらん、いとまばゆかりぬべし。
にありわぶるおんなの、げなき老法師おいほうし、あやしの吾妻人あづまびとなりとも、にぎははしきにつきて、「さそふみづあらば」などふを、仲人なかうど、いづかたもこころにくきさまにひなして、られずらぬひとを、むかへもてたらんあいなさよ。なにごとをかうちづることにせん。年月としつきのつらさをも、「葉山はやまの」などもあひかたらはんこそ、きせぬことにてもあらめ。
すべて余所よそひとりまかなひたらん、うたて、こころづきなきことおほかるべし。よきおんなならんにつけても、しなくだり、にくく、としけなんをとこは、「かくあやしきのために、あたらをいたづらになさんやは」と、ひと心劣こころおとりせられ、わがむかたらんも、かげはづづかしくおぼえなん。いとこそあいなからめ。
うめはなかうばしき朧月おぼろづきにたたずみ、御垣みかきはらつゆでん在明ありあけそらも、わがさまにしのばるべくもなからんひとは、ただいろこのまざらんにはしかじ。

徒然草239|八月十五日・九月十三日は婁宿なり。この宿、清明なるゆゑに・・・

真の古典の魅力は、作者が紡いだ原文の中にこそ息づいています。「古文で読みたい徒然草シリーズ」で、現代語と古文を併読することで、古の言葉が今なお放つ光を確かめてください。

💭ポイント

旧暦八月十五日と九月十三日は、空が清く澄むという婁宿(二十八星宿のひとつ)にあたるため、月を鑑賞するのに良い夜とされています。

徒然草絵抄』(小泉吉永所蔵) 出典: 国書データベース

🌙現代語対訳

旧暦8月15日と9月13日は、婁宿(ろうしゅく)にあたります。

はちぐわつじふにちぐわつじふさんにち婁宿ろうしゆくなり。

この宿は、空が清く澄み渡るため、月を鑑賞するのに良い夜とされています。

この宿しゆく清明せいめいなるゆゑに、つきをもてあそぶに良夜りやうやとす。

📚古文全文

はちぐわつじふにちぐわつじふさんにち婁宿ろうしゆくなり。この宿しゆく清明せいめいなるゆゑに、つきをもてあそぶに良夜りやうやとす。

徒然草238|御随身近友が自讃とて、七箇条書き留めたることあり。みな馬芸・・・

真の古典の魅力は、作者が紡いだ原文の中にこそ息づいています。「古文で読みたい徒然草シリーズ」で、現代語と古文を併読することで、古の言葉が今なお放つ光を確かめてください。

💭ポイント

筆者自身の7つの自慢話。論語の出典指摘、書の鑑定、漢詩の誤り指摘など、その博識ぶりと鋭い観察眼を披露する。

徒然草絵抄』(小泉吉永所蔵) 出典: 国書データベース

🌙現代語対訳

護衛官の近友という人が自慢話だとして、七項目を書き留めたものがありました。

随身みずいじん近友ちかとも自讃じさんとて、七箇条しちかじょうめたることあり。

どれも馬術のことで、どうということもない事柄です。

みな馬芸ばげい、させることなきことどもなり。

その例を思い出して、私にも自慢したいことが七つあります。

そのためしをおもひて、自讃じさんのこと、ななつあり。

 

 

①一つ。大勢の人を連れて、花見に歩いていた時、最勝光院のあたりで、

ひとつひとあまたれて、花見はなみありきしに、最勝光院さいしょうこういんあたりにて、

ある男が、馬を走らせているのを見て、

をのこの、うまはしらしむるをて、

「もう一度馬を走らせたら、馬が倒れて落ちるだろう。

いま一度いちどうまするものならば、うまたふれてつべし。

しばらく見ていなさい」と立ち止まっていると、また馬を走らせました。

しばしたまへ」とて、とどまりたるに、またうます。

止めようとした所で、馬は倒れ、乗り手は、泥の中に転げ落ちました。

とどむるところにて、うまたおして、ひと泥土でいどなかころる。

私の言葉が間違わなかったことに、人々は、感心しました。

その言葉ことばあやまらざることを、ひと、みなかんず。

徒然草絵抄』(小泉吉永所蔵) 出典: 国書データベース

②一つ。当代の天皇が、まだ皇太子でいらっしゃった頃、万里小路の館にお住まいでした。

ひとつ当代とうだい、いまだぼうにおはしまししころ、万里小路までのこうじ殿どの御所ごしょなりしに、

堀川大納言様が、仕えていた控室へ、用事があって参上しました。

堀川ほりかわ大納言だいなごん殿どの伺候しこうたまひし御曹司みざうしへ、ようありてまいりたりしに、

論語の四、五、六の巻を広げて、

論語ろんごろくかんをくりひろたまひて、

「今、御所で『紫が朱を奪うことを憎む』

「ただいま御所ごしょにて、『むらさきしゅうばふことをにくむ』

という文をご覧になりたいとのことで、

といふふみ御覧ごらんぜられたきことありて、

探しているが見つからないのだ。

御本ごほん御覧ごらんずれども、御覧ごらんだされぬなり。

『もっとよく探せ』とのお言葉で探している」

『なほよくよ』とおおせごとにて、もとむるなり」

とおっしゃるので、

おおせらるるに、

「それは九の巻の、そのあたりにございます」と申し上げたところ、

かんの、そこそこのほどにはべる」ともうしたりしかば、

「おお、ありがたい」と言って、持って行かれました。

「あなうれし」とて、まいらせたまひき。

これくらいのことは、子供でも知っていますが、昔の人は

かほどのことは、ちごどももつねのことなれど、むかしひとは、

些細なことも自慢げに書いたものです。

いささかのことをも、いみじく自讃じさんしたるなり。

後鳥羽院が歌のことで、

後鳥羽院ごとばのいん御歌おうたに、

「袖と袂を、一首の中に使うのは良くないか」

そでたもとと、一首いっしゅのうちにしかりなんや」

と定家卿にお尋ねになった時、

定家卿ていかきょうたずおおせられたるに、

 

 

「秋の野の草の袂か花すすき 穂に出て招く袖と見ゆらん」

あきくさのたもとかはなすすきでてまねそでゆらん』

という古歌もございますので。何の問題がありましょうかと申し上げたことも、

はべれば。何事なにごとそうろふべきともうされたることも、

「とっさに、古歌を思い出したのは、歌の道の御加護、幸運だ」

ときたりて。本歌ほんか覚悟かくごす。みち冥加みょうがなり。高運こううんなり」

などと、大げさに書き残しておられます。

など、ことことしくしるかれはべるなり。

九条伊通公の自薦状にも、

九条くじょう相国しょうこく伊通これみちこう款状くわんじょうにも、

たいしたことない項目を記載して、自慢しておられます。

ことなることなき題目だいもくをもせて、自讃じさんせられたり。

徒然草絵抄』(小泉吉永所蔵) 出典: 国書データベース

③一つ。常在光院の鐘の銘は、在兼卿の下書きでした。

ひとつ常在光院じょうざいこういんがねめいは、在兼ありかねきょうそうなり。

行房朝臣が清書し、鋳型に移そうとしていた時、

行房ゆきふさ朝臣あそん清書せいしょして、鋳型いかたうつさせんとせしに、

責任者の入道が下書きを取り出して私に見せましたが、

奉行ぶぎょう入道にゅうどう、かのそうでてはべりしに、

「花の外に夕べを送れば、声は百里に聞こゆ」という句がありました。

はなほかゆうべおくれば、こえ百里ひゃくりこゆ」といふあり。

「陽韻・唐韻と見えるので、百里は誤りでは」と申し上げたところ、

陽唐ようとういんゆるに、百里ひゃくりあやまりか」ともうしたりしを、

「お見せしてよかった。私の手柄になります」と言って、

「よくぞたてまつりける。おのれが高名こうみょうなり」とて、

清書者のもとへ連絡させると、

筆者ひっしゃのもとへひやりたるに、

「間違っていました。『数行』と直してください」と返事がありました。

あやまはべりけり。数行すかうなおさるべし」と返事かえりごとはべりき。

「数行」もどういう意味か。もしかしたら数歩の意か。

数行すかうもいかなるべきにか。もし数歩すほこころか。

はっきりしない。「数行」も疑わしい。「数」は四、五のことだ。

おぼつかなし。数行すかうなほ不審ふしんすうなり。

鐘の音が四、五歩では、近すぎる。ただ遠くまで聞こえるという意だろう。

かねいくくならざるなり。ただとおこゆるこころなり。

徒然草絵抄』(小泉吉永所蔵) 出典: 国書データベース

④一つ。大勢で比叡山の三塔(東塔、西塔、横川)を巡礼した時、

ひとつひとあまたともなひて、三塔さんとう巡礼じゅんれいのことはべりしに、

横川の常行堂に龍華院と書かれた古い額がありました。

横川よかわ常行堂じょうぎょうどうのうち、龍華院りゅうげいんけるふるがくあり。

藤原佐理藤原行成の書か議論があり、未決着と伝わっています」

佐理さり行成こうぜいのあひだうたがひありて、いまだけっせずともうつたへたり」

とお堂の僧は、もったいぶって申しました。

と、堂僧どうそう、ことごとしくもうはべりしを、

「行成なら裏書があるはず、佐理なら無いはずだ」

行成こうぜいならば裏書うらがきあるべし。佐理さりならば裏書うらがきあるべからず」

と言いました。

ひたりしに、

裏は塵がつもって、虫の巣で汚らしくなっているのを、

うらちりもり、むしにていぶせげなるを、

よく掃除して拭いて、皆で見たところ、

よくきのごひて、おのおのはべりしに、

行成の官位・名字・年号が、はっきりと書かれていました。

行成こうぜい位署いしょ名字みょうじ年号ねんごう、さだかにはべりしかば、

人々は皆、感心しました。

ひと、みなきょうる。

徒然草絵抄』(小泉吉永所蔵) 出典: 国書データベース

⑤一つ。那蘭陀寺で、道眼聖が、説法をしていた時、八災が何だったか忘れて、

ひとつ那蘭陀寺ならんだいじにて、道眼どうげんひじり談議だんぎせしに、八災はっさいといふことをわすれて、

「ご存知の方はおられませんか」と尋ねましたが、弟子たちは誰も覚えていませんでした。

「これやおぼたまふ」とひしを、所化しょけみなおぼえざりしに、

私が部屋の中から、「これこれではありませんか」と申し上げたところ、たいそう感心しておられました。

つぼねうちより、「これこれにや」としたれば、いみじくかんはべりき。

徒然草絵抄』(小泉吉永所蔵) 出典: 国書データベース

⑥一つ。賢助僧正のお供で加持香水(香料を混ぜた水を清める儀式)を見に行った時、

ひとつ賢助けんじょ僧正そうじょうにともなひて、加持香水かじこうずいはべりしに、

まだ終わらないうちに、僧正が退出されました。

いまだてぬほどに、僧正そうじょうかえりてはべりしに、

会場の外にも僧都の姿が見えません。法師たちを戻して、探させましたが、

じんほかまで僧都そうずえず。法師ほうしどもをかえして、もとめさするに、

「同じ格好の僧侶が多くて見つけられません」と言って、

おなじさまなる大衆だいしゅおおくて、えもとめあはず」とひて、

ずいぶん時間が経ってから出てきました。

いとひさしくてでたりしを、

僧正が「困ったことだ。そなた、探してきなさい」と私に言われたので、

「あなわびし。それ、もとめておはせよ」とはれしに、

戻って入って、すぐに連れて出ることができました。

かえりて、やがてしてでぬ。

徒然草絵抄』(小泉吉永所蔵) 出典: 国書データベース

⑦一つ。二月十五日の月が明るい夜、更けてから

ひとつ二月にがつ十五日じゅうごにちつきかき、うちけて、

千本の釈迦堂に参詣し、後ろから入って、

千本せんぼんてらもうでて、うしろよりりて、

ひとりで、顔を隠して、説法を聞いていました。

一人ひとりかおふかかくして、聴聞ちょうもんはべりしに、

優美な女性で、姿・雰囲気が、並ではない人が、

ゆうなるおんなの、姿すがたにおひ、ひとよりことなるが、

分け入ってきて、膝に寄り掛かったので、

りてひざにゐかかれば、

香りが移りそうなので、「都合が悪い」と思い、

におひなどもうつるばかりなれば、「便悪びんあし」とおもひて、

すり抜けましたが、それでもすり寄ってきて、同じ様子なので、

すりのきたるに、なほゐりて、おなじさまなれば、

席を立ちました。

ちぬ。

後日、あるお方の古参の女房が、

そののち、ある御所ごしょさまのふる女房にょうぼうの、

雑談のついでに、

そぞろごとはれしついでに、

『ひどく無粋な方でいらしゃいました。

無下むげいろなきひとにおはしけりと、

つれないお方だ』

おとしたてまつることなんありし。なさけなし』

と恨んでおられる方がいますよと、おっしゃいました。

うらたてまつひとなんあると、のたまひだしたるに、

「全く心当たりがございません」と言っておわりました。

「さらにこそ心得こころえはべらね」ともうしてやみぬ。

徒然草絵抄』(小泉吉永所蔵) 出典: 国書データベース

後で聞いた話では、あの説法の夜、

このことのちはべりしは、かの聴聞ちょうもん

部屋の中から、高貴な方が私をご覧になっており、

御局みつぼねうちより、ひと御覧ごらんりて、

女房を美しく着飾らせてお出しになって、

さぶらふ女房にょうぼうつくてていだたまひて、

「うまくいけば、言葉でもかけなさい。

便びんよくは、言葉ことばなどかけんものぞ。

その様子を報告せよ。面白かろう」

そのありさま、まいりてもうせ。きょうあらん」

と言って、計略されたということです。

とて、はかたまひけるとぞ。

📚古文全文

随身みずいじん近友ちかとも自讃じさんとて、七箇条しちかじょうめたることあり。みな馬芸ばげい、させることなきことどもなり。そのためしをおもひて、自讃じさんのこと、ななつあり。
ひとつひとあまたれて、花見はなみありきしに、最勝光院さいしょうこういんあたりにて、をのこの、うまはしらしむるをて、「いま一度いちどうまするものならば、うまたふれてつべし。しばしたまへ」とて、とどまりたるに、またうます。とどむるところにて、うまたおして、ひと泥土でいどなかころる。その言葉ことばあやまらざることを、ひと、みなかんず。
ひとつ当代とうだい、いまだぼうにおはしまししころ、万里小路までのこうじ殿どの御所ごしょなりしに、堀川ほりかわ大納言だいなごん殿どの伺候しこうたまひし御曹司みざうしへ、ようありてまいりたりしに、論語ろんごろくかんをくりひろたまひて、「ただいま御所ごしょにて、『むらさきしゅうばふことをにくむ』といふふみ御覧ごらんぜられたきことありて、御本ごほん御覧ごらんずれども、御覧ごらんだされぬなり。『なほよくよ』とおおせごとにて、もとむるなり」とおおせらるるに、「かんの、そこそこのほどにはべる」ともうしたりしかば、「あなうれし」とて、まいらせたまひき。かほどのことは、ちごどももつねのことなれど、むかしひとは、いささかのことをも、いみじく自讃じさんしたるなり。後鳥羽院ごとばのいん御歌おうたに、「そでたもとと、一首いっしゅのうちにしかりなんや」と定家卿ていかきょうたずおおせられたるに、「あきくさのたもとかはなすすきでてまねそでゆらん」とはべれば。何事なにごとそうろふべき」ともうされたることも、「ときたりて。本歌ほんか覚悟かくごす。みち冥加みょうがなり。高運こううんなり」など、ことことしくしるかれはべるなり。九条くじょう相国しょうこく伊通これみちこう款状くわんじょうにも、ことなることなき題目だいもくをもせて、自讃じさんせられたり。
ひとつ常在光院じょうざいこういんがねめいは、在兼ありかねきょうそうなり。行房ゆきふさ朝臣あそん清書せいしょして、鋳型いかたうつさせんとせしに、奉行ぶぎょう入道にゅうどう、かのそうでてはべりしに、「はなほかゆうべおくれば、こえ百里ひゃくりこゆ」といふあり。「陽唐ようとういんゆるに、百里ひゃくりあやまりか」ともうしたりしを、「よくぞたてまつりける。おのれが高名こうみょうなり」とて、筆者ひっしゃのもとへひやりたるに、「あやまはべりけり。数行すかうなおさるべし」と返事かえりごとはべりき。数行すかうもいかなるべきにか。もし数歩すほこころか。おぼつかなし。数行すかうなほ不審ふしんすうなり。かねいくくならざるなり。ただとおこゆるこころなり。
ひとつひとあまたともなひて、三塔さんとう巡礼じゅんれいのことはべりしに、横川よかわ常行堂じょうぎょうどうのうち、龍華院りゅうげいんけるふるがくあり。「佐理さり行成こうぜいのあひだうたがひありて、いまだけっせずともうつたへたり」と、堂僧どうそう、ことごとしくもうはべりしを、「行成こうぜいならば裏書うらがきあるべし。佐理さりならば裏書うらがきあるべからず」とひたりしに、うらちりもり、むしにていぶせげなるを、よくきのごひて、おのおのはべりしに、行成こうぜい位署いしょ名字みょうじ年号ねんごう、さだかにはべりしかば、ひと、みなきょうる。
ひとつ那蘭陀寺ならんだいじにて、道眼どうげんひじり談議だんぎせしに、八災はっさいといふことをわすれて、「これやおぼたまふ」とひしを、所化しょけみなおぼえざりしに、つぼねうちより、「これこれにや」としたれば、いみじくかんはべりき。
ひとつ賢助けんじょ僧正そうじょうにともなひて、加持香水かじこうずいはべりしに、いまだてぬほどに、僧正そうじょうかえりてはべりしに、じんほかまで僧都そうずえず。法師ほうしどもをかえして、もとめさするに、「おなじさまなる大衆だいしゅおおくて、えもとめあはず」とひて、いとひさしくてでたりしを、「あなわびし。それ、もとめておはせよ」とはれしに、かえりて、やがてしてでぬ。
ひとつ二月にがつ十五日じゅうごにちつきかき、うちけて、千本せんぼんてらもうでて、うしろよりりて、一人ひとりかおふかかくして、聴聞ちょうもんはべりしに、ゆうなるおんなの、姿すがたにおひ、ひとよりことなるが、りてひざにゐかかれば、におひなどもうつるばかりなれば、「便悪びんあし」とおもひて、すりのきたるに、なほゐりて、おなじさまなれば、ちぬ。そののち、ある御所ごしょさまのふる女房にょうぼうの、そぞろごとはれしついでに、「『無下むげいろなきひとにおはしけりと、おとしたてまつることなんありし。なさけなし』とうらたてまつひとなんある」と、のたまひだしたるに、「さらにこそ心得こころえはべらね」ともうしてやみぬ。
このことのちはべりしは、かの聴聞ちょうもん御局みつぼねうちより、ひと御覧ごらんりて、さぶらふ女房にょうぼうつくてていだたまひて、「便びんよくは、言葉ことばなどかけんものぞ。そのありさま、まいりてもうせ。きょうあらん」とて、はかたまひけるとぞ。

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