今日から、
マルティン・ルター(1483~1546)の『九十五箇条の提題(以下、『提題』と略記)』の本文を探っていきたい。この『提題』は、一般的には1517年にドイツのヴィッテン
ベルク城の教会の扉に貼り付けたともされているが、今日ではこの説は信憑性が無いとされるという。おそらくは、「公開質問状」という形で、然るべき対論者に送られたものだと考えられている。
それで、この連載では条文の一々を読むことで、ルターの問題意識を探ってみようという話である。
まずはこちらである。そこで、イ
エスが
キリスト教徒にとって「私たちの主」であり「教師」であることは当然であるから、今ここで論じることは無い。その上で、イ
エスが「悔い改めの
サクラメントを受けよ」と宣したとあるのは、『マタイによる
福音書』であるらしい。
『マタイ』では、この直前に
預言者イザヤを通して言われたことが実現するため、イ
エス自身が
ガリラヤを布教地に選んだことや、先駆者である
ヨハネがヘロデによって投獄されたことが指摘されており、その上で上記のように「宣べ伝え始められた」となっている。つまり、イ
エス自身が
ヨハネと同じく伝道者として改めて活動を始めたことが示される。更には、この「悔い改めよ。天の国は近づいた」は
ヨハネの言葉を承けたものであるともされる。
なお、ルターが引いた言葉は「悔い改めの
サクラメントを受けよ」とあって、少しく違っているが、実際の『聖書』原文はルターの通りであるらしい。また、「
サクラメント」とは、
キリスト教各派で定められた神の恩恵に与る儀式であり、
カトリック教会では
秘跡といい、「洗礼・堅信・聖体・ゆるし(最近では余り用いないようだが「告解」とも表記)・病者の塗油・叙階・婚姻」の7つだそうで、一方、
プロテスタント諸教派では聖礼典と称して、洗礼と
聖餐式を指すとのこと。この場合、ルターはまだ
カトリックの立場であったため、先の7つに従って考えているのだろう。具体的には「ゆるし」ということになるのだろうか。
つまり、ルターは、イ
エスが
ヨハネと同じように、内心の回心を求めたことを承けて、自らも神を信じる全ての者達の生涯が、悔い改めとなり、救いに与ることを願ったことを意味していよう。実際に、「贖宥状」問題とは、我々人間が如何にして日々犯した罪を悔い改めるのか?が本質的な問題としてあるとも考えられるので、ルターとしては、それに関する最も大切な教えを九十五箇条の最初に置いたとも思われるのである。
※『提題』の一条一条は短いので、記事も全体的に短くなると思うが、次回以降もお付き合いいただきたい。
【参考文献】
・
マルティン・ルター著/深井智朗訳『
宗教改革三大文書 付「九五箇条の提題」』(
講談社学術文庫、2017年)
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