「ホームランド」のクレア・デインズと「ジ・アメリカンズ」のマシュー・リースといういかにも裏の世界で生きていそうなキャスティング。「ベター・コール・ソウル」のマイク・エルマントラウト役で記憶に残っているジョナサン・バンクスや「シカゴ・メッド」のエイブラムス医師役のブレナン・ブラウンも登場して、かなり濃い面々だ。クレア・デインズの鬼気迫る表情は見応えがあるし、マシュー・リースも険しい表情と自信に満ち溢れた金持ちの傲慢さを使い分ける。
主人公アギーの「自分には敵がいないと闘えない」という台詞に、タイトルに籠められた「ビースト」の感覚が透けて見える。自分を正当化するためには、誰かを「仮想敵」にする必要があるとも言えるし、その正当化のための嘘を信じることを心の拠り所にする。さらには他人も同じだと思い込んで「その人を正当化してあげよう」としてしまうのだが、推量でしかない他人の気持ちをモチベーションにした行動は引っ込みがつきにくいからやっかいだ。
終盤の2話で複数の事件の背景が示されることで、視聴者はそれまで肩入れしていたキャラクターに対する疑念が湧く。これはつまり、詳細な事実やその背景をどう捉えるかで物事が違って見えてくるということ。そうなったときに、今まで信じていた人を変わらず信じ続けることができるのか。それは正しいのか。そんな重い問い掛けがなされることになる。
物語の中でアギーと元パートナーのシェリーがもめる場面がある。これは契約社会の米国で、利益相反の疑念からレピュテーションリスクに至ることを恐れたアギーが、シャリーの個展開催を「妨害」する流れなのだが、これは客観的に考えれば至極妥当な判断だ。しかし、当事者にとってみれば、裏切られたと感じることは想像に難くない。特に著述業や画家という表現の世界では、問題は複雑化しかねないのだ。ストーリーに現実味を加えるという意味で、これは非常に効果的な仕掛けだったように思う。
ちなみに、「ブラックリスト」での役名に改名したモズハン・ナバービが危機管理広報コンサルタントという設定は、いかにもハマっている。その次のエピソードには、同じく「ブラック~」からアラム・モジタバイ役だったアミール・アリソンも登場。好きな俳優たちに久しぶりに会えた喜びも感じられた作品だった。
料理人ウージェニー監修の下、主人ドダンをはじめ総出でひたすら料理を作って午餐の場に備える。「あなたも同席を」と求められても、「食べる姿を見て対話している」というウージェニーの返しには、彼女の料理人としての矜持が詰まっている。彼女の作る料理は肉、魚、野菜など、それぞれの素材を活かしながらもソースで混然一体となり、まさにフランス料理の神髄だ。
料理には物語がある。旬を意識した素材選び、もてなす相手を想定した盛り付けなどによって、料理の味や記憶は何倍にもなる。素材が高価であることは料理の品格を高めるためにこそ貢献するものの、それ以上のものではない。主人公ドダンも、ウージェニーのために料理を仕立て、その中に婚約指輪を忍ばせたりもしていて、これも物語のひとつの形態だ。
しかし、ドダンがユーラシア皇太子への返礼として選んだ料理は、フランスならではの家庭料理「ポトフ」。素材の価値や「定評」に頼らず、味覚に凝縮されたメッセージで勝負しようという心意気だ。ポトフとは "pot-au-feu" で、つまりは「火にかけた鍋」。単純に聞こえるが、その仕込みには時間も手間もかかる。
最後の場面でウージェニーがドダンに「私はあなたの料理人なの? それとも妻?」と尋ね、ドダンが「料理人だ」と答えたことにウージェニーはうれしそうに微笑む。これもまさに料理人としての矜持だと思えるが、この台詞の「妻」はフランス語では "femme" で「女」という意味にもなる。つまり、「料理人として評価しているのか、女として評価しているのか」ということではないか。
卑近なたとえだが、ある女性を取締役候補とする場合、コーポレートガバナンス・コードの要請に合わせるべく女性取締役を増やしたいからなのか、純粋にその候補者の能力を評価したからなのかという問いと同じように感じる。
だからこそのウージェニーの満足気な表情につながるのであり、ドダンとの男女関係を忌避していたわけではない。この矜持を持った女性ウージェニーを、ジュリエット・ビノシュがさすがの貫禄で演じていた。実際にもパートナー関係にあった10歳年下のブノワ・マジメルとの共演ということもあり、意味深な雰囲気も漂わせていた。
四条駅から近い綾小路通りに面した杉本家住宅が一般公開されていました。商店として使われた「京町家」ですが、重要文化財に指定されています。江戸時代の建築技法を現代に残す形で、家具などから感じられるモダンな生活様式とともに深い味わいが感じさせてくれます。受付で1,500円を払うとクロークのようにコートと荷物を預かってくれて、時間が合えばガイドツアーに参加することもできるようです。

店舗部分と思われる部屋には、昔の看板が並べられていますが、こうして見る限り様々な商材を扱っていたようですね。もともとは「奈良屋」という呉服商として創業したとのことで、三越と同じような位置づけに見えるし、現代で言えば総合商社のようなものなのかもしれません。

居室の部分にはピアノや上質な調度品が並び、モダンな生活をしていた杉本家の様子が想像できます。京都の中心部でこんな生活をしていたら、社会的なステイタスも感じさせていたのでしょう。個人的には中世や武家の時代よりも、明治期ごろの近代的な建築や様式に惹かれるところがあります。

庭園も広くはないものの、すっきりとまとめられていてソフィスティケートされています。苔の生し具合もいい感じですし、うさぎの形の庭石もしゃれています。こちらは、住宅と合わせて「国指定名勝」という扱いになっています。
京都の見どころは東山や嵐山など市内中心部から外れ、アクセスも乗り換えが必要だったり混雑するバスが頼りだったりという施設が多いので、地下鉄烏丸線で京都駅から2駅4分ほどの立地は貴重です。
このイベント情報を見たときに、以前読んだエリザベス・コルバートの「6度目の大絶滅」を思い出した。地球が経験した過去の5回の大絶滅は、火山の噴火や隕石の衝突など自然災害によってもたらされたものだったが、現在進行している「6度目」は人間が直接手を下しているという内容の書籍だ。国立科学博物館の特別展では、過去の5回の大絶滅を化石などの物証によって解き明かしてくれる。「6度目」を考える上では、やはり過去から学ぶことも必要だろう。

内容としては子どもにもわかるように、視覚情報から受ける直感で理解しやすい作りになっている。そのせいもあって、子供連れやベビーカーを押す人も少なくないので、狭い会場はかなりカオスな状況だ。入場は10分待ちだったが、それ以上に会場内の移動で苦労することになる。

海洋酸性化によってサンゴが大量に死滅した過去の事例は、まさに現在に通じるように思う。コルバートの本でも海洋酸性化の話にはページが割かれていて、甲殻類がその甲殻を形成できなくなってしまう懸念が説かれていた。カニやエビ、貝類が生育できなくなるということで、今年国内で発生している牡蛎の大量死にも関連があるのかもしれない。
現時点の情報では海水温の影響ということで、牡蛎が口を開けて死んでいるということからは酸性化とは別の問題のように見えるが、まだ真相が究明されているわけではない。海水温の上昇によって深海部との循環が抑制され、さらに大増殖したプランクトンが酸素を大量に消費したことによって海底が無酸素化した事例を見ると、海の生物多様性の危険性を痛感した。
また、シベリアの火山活動や隕石衝突が影響している事例も目立った。シベリアの緯度は地軸の傾きによって、進行方向の「最前列」に位置してしまうことが影響しているのかもしれないと思った後で、そもそも太陽系も銀河系もそれぞれの方向に高速移動している事実を思い出し、「進行方向」という概念が相対的なものでしかないことに思い至った。
そんな5回の大絶滅も、地球は乗り越えて生命を繁栄させている。ファーン・スパイクというシダ類の素早い繁茂が生態系を支えた事例は、まさに地球の持つレジリエンスを如実に示している。人間も「自然」や「地球」の外側にいる存在ではないのだが、次の大絶滅の主犯になったときに、地球がレジリエンスを発揮できるとは限らないし、人間が何か手を貸せるような気もしない。今のうちに打てる手を打つことは、僕たちの責務なのだ。
ラスベガスを舞台とした前作から打って変わって、今回はロンドンとパリ。しかもホリデーシーズンに合わせた展開ということで、ヨーロッパ旅行の感覚に満ちている。ヴィランとして登場するフィンにキャスティングされたのは、「ゲーム・オブ・スローンズ」でジョン・スノウを演じたキット・ハリントン。主人公ダンの兄弟という設定で、父親を巡る兄弟の因縁という部分はゲースロの世界にも通じるところがある。
物語自体はサスペンス・アクションの王道なのだが、舞台設定や仕掛けとしては旅行番組のようでもある。ロンドンでは2階建てバスの中で戦うシーンがあり、パリではルーブルらしき美術館で兄弟が対面したり、教会でのバトルで鐘が鳴り響いてしまう描写もある。ただ、映っていたスーラの作品「グランド・ジャッド島の日曜日の午後」はシカゴ美術館、「アニエールの水浴」はロンドン・ナショナル・ギャラリーの所蔵品なので、そのあたりは意図的にフィクション感を出そうとしたのかもしれない。
ダンの妻ジェシカ役のミシェル・モナハンのアクションシーンは必見だ。元陸上選手という設定らしい身のこなしと本職のスパイではない未熟さを合わせ、コミカルながらもメリハリのある「殺陣」は、なかなか良い線を突いている。
驚いたのはダン殺し屋時代の仲間スヴェトラーナ役が、「コペンハーゲン(原題:Borgen)」で主役の政治家ビアギッテを演じていたシセ・バベット・クヌッセンだったこと。まったく印象が違うので作品を見ている間は気づかなかったが、後で英語のWikipediaをチェックしている中で確認した。それだけ、演技力が幅広いということの証だろう。
古いドラマだが、これも「ごちそうシネマ」で紹介されていたことから、もともと気になっていた作品ではあった。小林薫の演技がところどころ素人臭く見えるのは、全体的に重いテーマを扱っていながらコメディタッチで軽く見せることにこだわったからのように思える。深夜0時に開店する店で待ち合せたり、子供が食事したりと無理のある設定もあったが、そういうこともあるということにしておこう。
僕が一番共感したのは「バターライス」。白いご飯の上にバターをスプーン1杯のせて、醤油を少しだけたらした超B級グルメだが、小学校に上がる前の僕の大好物だった。「バター醤油ご飯」と呼んでいたが、その後に食べた記憶はなく、幼児期の思い出として残っている。当時は裕福でなかったことも事実だが、こういうシンプルでどこにでもある食材が実は一番おいしかったりもするのだ。そして、それが記憶と結びついていればなおさらだ。
シーズン2に入ると、記憶に結びついた料理によって展開する物語の味わいが強くなる。そして、Netflixに移ってからその傾向はいったん断ち切られる。日本的な人情味は薄れ、スポットの当たる料理と物語の関連も薄まり、とってつけたようなテーマになってしまう。ところがTokyo Storiesシーズン1の第9話で志賀廣太郎と平田満が素晴らしい演技と役作りを見せてくれ、そこからそんなイメージを一掃してくれた。
個人的に好きな俳優が多く登場しているのもうれしいもの。田中哲司や市川実和子もよい味を出していたが、ゲイバーの店主役を演じた東京乾電池の綾田俊樹には懐かしさがこみあげて来た上に、役になり切って演じていたことにちょっと意外な印象すらあった。松尾諭や谷村美月も、彼ららしい味を作品に加えていたように思う。オダギリジョーに関しては、2つの役で出ていた点を含めてちょっと意味不明だった。
YouTuber "Cateen(かてぃん)"こと角野隼斗による20,000席を誇るKアリーナ横浜でのライブを、WOWOWの配信でチェック。これまで聴いたことがなかったが、複数の友人がライブに参戦していたことで興味を持っていた。
序盤はバッハの曲だったが、2曲目のパルティータ第2番の抒情的な演奏が強烈な印象を残した。バッハの楽曲には、淡々と演奏される印象がある。それは教会での演奏というシチュエーションだったり、チェンバロの弦が切れやすいからメリハリをつけた演奏に馴染まかったりという背景がある。またバッハの時代には、付点4分音符の後の8分音符を実質的には16分音符のように演奏したという説もあって、記譜通りに演奏することで作曲家の意図したニュアンスより単調になってしまうという可能性もある。
そんな歴史を踏まえても、こんな風に演奏者が感情を籠めれば「弾き古された」楽曲でも、また新たな味わいが生まれてくるということを示してくれた。ただ速く弾いているのではなく、すべての音の強弱や残響に意図を籠めているように感じられて、それはしっかり伝わってくる。音楽の父が生まれ変わったような、そんな演奏だった。
そして無機質なイメージしかなかったジョン・ケージの楽曲も、温かみというか、人間が演奏していると言う温もりのようなものが、音として伝わってきた。恐ろしいまでに緊張感が漂う「死の舞踏」の迫力も「きらきら星変奏曲」のダイナミックで雄弁な音も、まさに彼らしいオリジナリティだ。藤井風の自由なピアノもよかったが、角野隼斗の創造性はピアノという楽器としての表現を、新たな次元に引き上げてくれたような感じがした。
ただ「うまい」だけでもなく、個性的なだけでもない。楽曲に載せようとしている思いがしっかりあって、それを適切な手法で鍵盤を通して聴く者に伝えてくれる。もう少し彼の音楽を掘り下げてみたくなったので、さっそくiTunesで「HumanUniverse」をダウンロードしてみた。朝の通勤途中に聴くのが楽しみだ。
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