
てっきりこれこそが春一番かと思った。
どこからどこへ向う途中なのか、階上のベランダの手すりをいったん停止場所にして仲間と啼き交しては、またどこかへ飛んでゆく鳩たちが、みづから飛立つというよりは、風に押し出されるかのように発ってゆく。鳥たちも近所の木々も、時折りの突風にまるで追い立てられるかのようだ。耳に懐かしい音を急に聴きたくなって、ふいに散歩に出る気になった。
思ったとおり、神社の巨木たちの梢は轟ごうと鳴っている。常緑樹の枝えだは葉裏を見せて身をうねらせている。荘重たる音であり、眺めだった。
大鳥居をくぐった境内が外苑で、五段ほどの石段を登って二の鳥居をくぐれば内苑である。敷石上を直進すればご本殿だ。かような強風の朝だ。境内に人影はない。

ご本殿の右に並び祀られた招魂社に詣でる。日清日露の戦役にこの村から出征したまま還れなかった十一柱が、かつて祀られてあった。のちに日支事変大東亜戦争(碑文のママ)にての戦没兵士を合祀して、今は計七百八十柱が祀られてある。むろん私が知る人は一人もない。今も近隣にお住いかもしれぬどなたかのご先祖かご親戚筋かも、まったくぞんじあげない。しかし今朝は、深ぶかとこうべを垂れる気分になった。
世の中や時代の動きにはいたって疎く、それどころかみづから眼を塞いで遠のきたいとすら心がけている私ではあるが、そんな私をわざわざ曳きずり出して巻き込むかのような災難に、昨年見舞われた。「日本人、地に墜ちたり」としか思えず、憂鬱だった。
私がいくらか系統的に、まとめて読んだ文学はと訊ねられれば、昭和後半のいわゆる戦中派世代による文学ということになろうが、その分野にあっては「かような日本および日本人を護るために、英霊たちは逝ったのではない」という悔恨やら呪詛やら、ヤケッパチの悪態やらを、いく百もそれ以上も読まされてきた。
まさかこの自分が、きわめて薄っぺらなオウム返しのごとくに、先達の口真似をする羽目に陥るとは思ってもみなかった。

外苑へと石段をくだる。参道脇の目立つ処に、丈高き威容でひときわ眼を惹く石碑が立っている。「日露戦役記念碑」で、筆跡は「元帥公爵山縣有朋」とある。裏へ周ってみると、村から出征していった人びとの名がぎっしりと彫られてある。
外苑の隅っこの垣根ぎわには、人懐こいようなごく目立たぬ石碑が立っている。大鳥居から眼と鼻の距離に駅が開業された経緯を記し留めた碑文だ。大正三年に初提案されたが時期尚早との声多く、実現しなかった。その後も地道な活動を続ける熱心な村人たちがあって、ついに大正十二年十二月に竣工に漕ぎ着けたとある。固有名詞まで彫り込んである。関東大震災直後の復興熱、都市計画熱のなかで、この地の先達たちはどんな想いで鉄道の駅を誘致したのだったろうか。
今日の住民は、駅前に神社があり、塀一枚を隔てて隣接する金剛院さまがあると云うが、事実はむろん逆である。由緒ある神社の鳥居前にして名刹の山門のすぐ前に、野菜や肥料やセメントを運ぶ鉄道駅とはなにごとかと、眉をひそめた村人が大半だったかもしれない。さればこそ熱心な世話焼きたちは、将来きっと地域の発展に寄与するからと、共同体内をいく年にもわたり説いて歩いたのだったろう。
今となってみれば、京都だの鎌倉だのといった古都を除けば、駅からこれほど近くて便利な宗教施設は、全国にほとんど例がないと聴く。

ところで二の鳥居に隠れた塀ぎわに、なにやら古めかしい手水が、今はなんの役割もなく佇んでいる。いや、置き忘れられたようにうずくまっている。江戸時代にこの神社は「十羅刹女社」と称ばれた。石の手水の腹にはっきりと彫り残されてある。本殿、神楽堂、鳥居、狛犬、石碑類、ただ今役目中の手水ほか、境内に据え置かれてある、または建造されてあるなにものよりも、「十羅刹女」手水は古いものだそうだ。事情に暗い参詣人の眼には、けっして止まらない場所に置かれてある。
二の鳥居の眼下が、内苑と外苑の境の石垣に沿って西への脇参道になっていて、境内の外へ出られる。道なりに二十メートル直進した処に、老舗の質屋の看板が見える。道を挟んでその正面が、帝国銀行支店の跡地である。昭和史に特筆される謎事件のひとつである帝銀事件の現場だ。当時の新聞記事の写真や資料映像を観ると、色が異なるだけで、同じ看板が同じ場所に写っている。
わずか四十メートルほどを隔てて、幕末と昭和二十三年とが向い合っている。しきりと風がうなり、木々が騒ぐ朝、不思議なものを視た気分になった。
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