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一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

眼が醒めると



 ――社員というものは、勤務時間中に仕事に夢中であればいい。部長ともなると、起きている間じゅう、仕事のことを考えている。社長という種族は、眠っていても仕事のことを考えている。――
 会社員時代に、先輩から教わった。なるほどそうだよなあ、という実例と、あながちそうとばかりも云えまい、という実例との両方を、その後の人生で目撃してきた。

 記憶すべきことも日記として記録しおくべきことも、なにもない日だって多い。就寝時に明日書くネタが思い浮んでいる日は、むしろ少ない。床に就いてから眠るまでのあいだに、そう云えばあんなこともあったなあと、思い出すこともある。眼醒めぎわの半睡半醒の床のなかで、ふいに断片と断片とに脈絡がついて、ネタがまとまることもある。起きて行動開始してからでさえ、これから書くべきことの輪郭が見えてこないことだって、むろんある。
 ただこれは確かだ。眠っているあいだにも、脳はなにかを考えている。と申せば大袈裟だが、眼醒めているあいだに考えられた雑多なことどもを省略したり結び付けたり、なにか整理に類する作業を続けてくれているようだ。つまりは社長さんならずとも、人は睡眠中にだって考えている。

 パソコンデスクに向っても、まだ整理が完了していない日もある。書きながらわが胸裡を探り、整理しなら書く。削除や整序を重ねながら、自分がおぼろげに感じていたことの容貌をはっきりさせてゆく。
 どうやら一段落にまで整理しとげられればまだしも、ついに未整理のままに了ることだってある。手職の職人衆・職工衆がおっしゃるところの、オシャカを造ってしまった場合だ。いつか再利用できるかもしれぬからと「未投稿下書き」の函に放り込まれる。だが実際に再利用された試しは、ほとんどない。


 片手仕事の非常勤講師が大学から求められる役目は、ほんのいくつかしかない。ご多忙の教授がたが面倒くさがる、下級生への基礎訓練と、客寄せパンダと陰口を叩かれながらも学生諸君を面白がらせて出席率(登校率)向上に寄与する大教室パフォーマンスとである。しかし諸般の事情から、最上級生のお相手を仰せつかる場合もあった。
 あるとき彼らに卒業後の身の振りかたについての考えを訊いてみた。フリーター身分で芸術を志すだの、どなたかに弟子入りするだの、世の就職活動とは異なる独自の人生設計を考えている若者が混じるかと思いきや、十人が十人ともから「就活」との応えが返ってきた。ならば、こんなことしてはいられない。ゼミの時間割を一部変更した。

 お辞儀と扉ノックを教えた。名刺交換を教えた。手製の名刺を作らせて、事務局就職課の課長に挨拶してこいと命じた。就職課の課長へは前もって菓子折りを提げて面会にお伺いして、わがゼミの学生がもしご挨拶に参上したら、作法どおりに名刺交換してやって欲しいと願い出た。課長からは、こんな教員もあるのかと面白がられた。
 また言葉の「ふくらし粉」を教えた。余計な言葉を徹底的に削ぎ落して手短かに、順序は起承転結ではなく結論から述べよ。すると会話がぶっきらぼうになる。そこへ言葉の「ふくらし粉」を挿入するのだ。
 「あいにくですが」と口を衝いて云えるようになれ。それが云えれば「せっかくですが」「残念ですが」「申しあげにくいのですが」とも云えるようになるから。
 「恐れ入ります」と云えるようになれ。そうすれば自然と「恐縮です」「痛み入ります」も云えるようになるから。
 「かしこまりました」と云えるようになれ。すると「承知いたしました」「うけたまわりました」「拝聴(拝見)いたしました」とも云えるようになるから。
 今日から就活面接までの期間は、眠る前に「あいにくですが、恐れ入ります、かしこまりました」と呪文を三回唱えてから眠れ。「ムリムリ、無理イ~、超ウケる~」「マジ、めっちゃヤバ過ぎる~」なんぞという世の中は、どこにもネエんだっ。

 このジジイ、急になにを云いだしやがったかと、若者たちが思ったか思わなかったか、反応はとくに確かめなかった。細かい喋り言葉(音と韻律と構え)が、人の考えに巨きな影響をきたすとは、荻生徂徠本居宣長柳田國男も云っているとまでは、若者たちに伝えなかったけれども。

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