蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)が、吉原の妓楼(女郎屋)や引手茶屋の主人らの集まりに顔を出すと、瀬川(小芝風花)が身請けされそうだ、と話題になっていた。NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』の第9回「玉菊燈籠恋の地獄」(3月2日放送)。
身請けとは、客が妓楼に身代金を支払って年季証文を買い取り、女郎の身柄をもらい受けることである。盲目の富豪である鳥山検校(市原隼人)は瀬川にベタ惚れで、1,000両(1両がいまの10万円程度だから1億円程度)でも支払いそうだ、ということだった。
そんな話を聞いた蔦重は、瀬川を呼び出して、身請け話を断るように頼んだ。このとき蔦重は、幕府の優遇策に乗じて大金を稼いでいるあくどい男だと、鳥山検校をさんざん酷評した。ここに鳥山という男を理解するためのヒントがあるが、具体的には後述する。蔦重はなぜ瀬川に身請けを断ってほしいのか、本音をいわない。瀬川がいなくなると客が吉原から離れる云々と、吉原のためにもっと働けといわんばかりなので、瀬川は怒って、蔦重を身勝手だと難じた。
そこで蔦重は、はじめて本音を口にした。「後生だから、行かねえで。俺がお前を幸せにしてえの。だから、行かねえでください」。蔦重は年季が明けるのを待って、瀬川と一緒になるつもりだというので、2人は将来を誓い合った。しかし、吉原の女郎が男と結ばれるのは並大抵のことではなかった。
瀬川が松葉屋の主人の半左衛門(正田僕蔵)と女将のいね(水野美紀)に、身請け話を断りたいと告げると、瀬川が蔦重と相思相愛だと見抜いたいねは、瀬川に1日5人もの客をつけるなど妨害をはじめた。半左衛門も蔦重を呼び出し、瀬川が客の「相手」をする姿を見せつけて、「お前さんはこれを、瀬川に年季明けまでずっとやらせるのか?」と迫った。
足抜け、すなわち逃亡を決意した蔦重と瀬川だったが、折しも小田新之助(井之脇海)と一緒に足抜けを試みたうつせみ(小野花梨)が捕まってひどい折檻を受け、その後、いねは瀬川にこう告げた。「ここは不幸なとこさ。けど、人生をがらりと変えることが起こらないわけじゃない。そういう背中を女郎に見せる務めが、瀬川にはあるんじゃないのかい?」
ここにいたって、瀬川は鳥山検校による身請け話を受ける決意を固めるのである。
貧しい親の手で20両~30両(200万円~300万円程度)、場合によってはたった数両(数十万円程度)の前借金で吉原に売られた女郎。だが、客が身請けする際は、年季の残額を払えばいいというものではなかった。そもそも前借金には膨大な利息がついたし、身代金は妓楼の主人(楼主)の言い値で決まった。もちろん、女郎の位や評判が高いほど、楼主は高値を吹っかけた。
これに対して、鳥山検校が瀬川を身請けするために支払った身代金は、1,400両(1億4,000万円程度)といわれる。瀬川の身請けの背景に、蔦重との悲恋があったというのはフィクションである。一方、彼女が鳥山検校にこの金額で身請けされたのは史実で、当時、江戸中の話題をさらったという。では、鳥山はなぜ、これほどの金額を支払うことができたのだろうか。
「検校」とは名前ではなく役職名で、室町時代以降、当道座という男性盲人の互助組織の最高位がそう呼ばれた。当道座には、平曲や地歌、筝曲の演奏家のほか、あんまや鍼灸などに携わる人たちが属し、江戸時代には幕府から公認され、自治の権限や一定の裁判権があたえられた。要は、幕府の保護と統制のもと、こうした職業を独占できていたのである。
ただ、実際、当道座にはすぐれた演奏家が多かったようで、邦楽が発展する大きな原動力になり、各藩に専属の音楽家として召し抱えられるケースもあった。
最高位の検校の下に、別当、勾当、座頭があり、さらに細分化されて73の官位に分かれていた。これらは、いわば盲人に地位と名誉を保証するためのものだった。だが、最低位から一歩一歩上に進んで最高位の検校になるまでには、長い修業期間を要した。そこで、金銭で官位を買うことも認められていたが、それには700両以上は必要だったともいう。このため元禄(1688~1704)のころから幕府は、彼らが高利で金を貸すことを認めた。
この貸し付けは座頭金、または宮金などと呼ばれ、幕府からの禄が少なく貧乏暮らしを強いられている旗本や御家人、あるいは財政的に窮している大名家などが貸し付けの対象になり、暴利を得た検校も多かった。とりわけ鳥山検校は、こうした高利貸しで巨富を得たことで知られ、日本橋瀬戸物町に家を構え、一説には20万両(200億円程度)の財産があったともいわれる。
借金の取り立てに際しては、返済できなければ土地や財産まで取り上げたり、自死寸前まで追い詰めたりと、かなり苛烈なこともしたといわれる。ドラマで蔦重が瀬川に説いたのは、鳥山検校のそういう面についてである。ともかく、そうして稼いだ金を吉原での豪遊に注ぎ、ついには瀬川を身請けした鳥山。安永4年(1775)のことで、延享2年(1745)の生まれだから、ちょうど30歳ほどだった。
だが、五代目瀬川を身請けして3年後の安永7年(1778)、鳥山検校の人生は暗転する。きっかけは旗本の森忠右衛門が妻らとともに逐電したことだった。一時は自害を図ろうとした森だが、息子に説得されて思いとどまった末に姿を消し、結局、出頭している。町奉行による取り調べの結果、高利貸しによる多額の負債をかかえていたことがわかり、とりわけ盲人による法外な高利貸しの実態が明るみに出ることになった。
前述したように、盲人は幕府から優遇され、彼らが高利貸しに投じていた原資にも、幕府の公金から支出されているものがあった。幕府としてもさすがにこれを放置することはできず、検校らが摘発されることになった。
こうして鳥山検校以下、8検校が捕らえられた。翌安永8年(1779)には、獄死した名護屋検校を除く7検校に追放処分が下されている。
とくに鳥山検校は、吉原での度重なる豪遊と、高額での瀬川の身請けについても糾弾されることになった。こうして全財産没収のうえ、武蔵(東京都、埼玉県、神奈川県東部)、山城(京都府南部)、摂津(大阪府北西および南西部、兵庫県東部)、遠江(静岡県西部)から追放され、検校職を解かれ、当道座も除名になってしまった。
その後、鳥山検校がどうなったかは伝えられていない。一方、五代目瀬川については、庶民社会に詳しかった国学者、喜多村信節の『筠庭雑考』に、深川に住む武士の妻となって2人の子を産み、夫の没後は髪を下ろし、本所の大工と連れ添って老後を過ごしたと書かれている。
ただ、『筠庭雑考』が成立したのは、鳥山検校が処分されてから60年以上が経過した天保14年(1843)だから、信憑性についてはなんともいえない。だが、少なくとも、だれかの妻になったという話が伝わっているということは、その後も生き永らえたということではないだろうか。
五代目瀬川は吉原の女郎としては、恵まれていたといえよう。「苦界十年」といわれた年季明けを待たずに、性病などで没する女郎が多く、命はあっても借金がかさむなどして、年季明けがどんどん延びる女郎も珍しくなかった。身請け後に「夫」がとんだ目に遭ったとしても、その後も市井で人の妻になれたのであれば、よかったと思う。
幼くして親に売られた吉原の女郎は、家族を救った孝行者と認識され、当時、女郎だから妻にしない、と考える男性のほうがむしろ少なかったといわれる。人身売買の対象者が、逆転で幸福をつかんだ――。五代目瀬川もそんなケースのひとつに数えられるかもしれない。
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