私は原則的に過去を振り返らない。
今現在の必要な手順に類することは、思い出さざるを得ないが、それ以外のことは一切振り返らない。
だが、昨日、この規範を犯してしまった。
昔の知人が今どうしているのか、ネットで調べてしまったのだ。
ただの思いつきの好奇心である。
私の知人には、超有名人はいないが、ネットに近況が普通に掲載される程度の人は結構いる。
あぁ、調べなければよかった。
その当時の記憶が蘇ってしまう。
それは良いことも悪いことも両方である。
苦い思い出もそのまま再現される。
それらは、すべて完了し終わったはずである。
しかし、記憶には残っているらしい。
パソコン内のすべてのデータを消去したつもりでも、HDDにデータが残っている状況に似ているのかも知れない。
完全に忘れたいが、今生では無理だろうなぁ。
何故私は地震が怖いのか?
文章にして分析してみる。
おそらくそれは、地震そのものが怖いのではなく、大震災により家屋敷家財道具一切を失うことが怖いのだと思う。
火災の場合は燃えるのは建造物だけだが、液状化が起こると地面も再整備が必要となる。
工法として確立されているようだが、簡単なことではなさそうだ。
だが、すべてを失っても、すぐに回復可能なほどの財力があれば、話は別になる。
「少し財布に堪えたけれど、元通りにできた」と言えれば良いのだ。
私には、それで出来そうにない。
それで私は地震が怖いのだと思う。
台風が怖い理由も同じだろう。
原状回復の試練に耐えられるのか?
「・・・。」である。
あぁ、偉そうなことを言っていても私は物質に頼って生きているということか。
恐怖の根底に物質による擁護を求める心がある、ということか。
まだまだ修行が足りないなぁ。
いつもの集いに行った。
今日は、この教会にしては珍しく新規の来会者があった。
行事終了後、牧師はすぐに講壇から降り、新来会者に歩み寄り、話しかける。
在日中国人女性2名で、市内の幾分離れた地域からにお住まいだそうだ。
牧師は普段とは別人のようになって来会者に尋ね答える。
おぉ、この人は多重人格者なのか?
いつものぞんざいな態度ではなく、丁寧なマトモな社会人の対応をしている。
牧師としては、新しい信徒が増えることは成績に直結するのだろう。
「関係ありません」と言われるだろうが、それは表向きで関係がないわけがない。
一通り話が終わって、新来会者は「再見ツァイ チェン」と挨拶し会堂から出ていく。
牧師はなおも彼女らを追いかけていく。
玄関ホールや玄関先でも話しかけているようだ。
一旦来た新規来会者を逃してなるものか、ということなのか?
熱心なのか、愚かなのか?
ちょっとやり過ぎなきがする。
さて、私の場合はどうだったか?
牧師は、無視だった。
変な空気、妙な雰囲気を発していたのだろうか?
おそらく、そうだろう(笑)
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