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あのまる日記(旧:おやつく後記)

タイトル変えました

どーでもいい話がしたいときもあるよね。考察動画が好きな理由

 

三宅香帆さんの「考察する若者たち」を読んだ。

 

 

(「感想文」としていたが、本の感想になってないのでタイトルを変更した)

 

 

あんまりこういう本は買わないのだけど、最近、話題書の棚に常に著書が並んでいるのは知っており、たまに立ち読みしていたので「また新しいの出したんだ」というのと同時に、わたしも考察動画が好きなので興味を持った。

 

 

 

 

一通り読んでおもしろかったはずなのだが、読んだそばから中身を忘れてしまった。いまの流行りもそれなりには知っているが、具体的すぎて頭に入らなかった。

 

 

まあ若者を取り巻く環境はいつだって”今”しかないので、今の環境から原因を探るのは大事なのかもしれないけど、人間の性質なんて数十年でそう変わらない。具体的事象はただの結果だと思ってるので、ちょい抽象度を上げたい。

 

 

わたしは考察動画が流行ってるのは、人々が共感を求めてるからだと思う。

 

 

考察動画っていうのは、ドラマの展開を予想するもの。YouTuberがドラマ内の伏線を拾って、あーでもねーこーでもねーと適当に、時には真面目に予想し、視聴者のコメント欄が盛り上がる。放送直後のライブ配信は視聴者のコメントを拾ってその場で考察が展開することもあるので、より臨場感が味わえて楽しい。

 

この考察は次の放送がある翌週か、せいぜい1クール(3か月)以内に必ず答え合わせができる。議論っぽいことをして、次の週に「当たった」「外れた」と言い合う。

 

 

正直どーでもいい。当たっても外れても人生変わらない。当たったら「スゴイ!」と褒められるかもしれないけど、そこまですごくない。外れたところで名誉が地におちるわけでもない。でも、そういうどーでもいい話がいいんですよ。

 

 

今は趣味も多様化して、みんなとの共通の話題というのが減ってきてる。この世界のほとんどについて「正解らしきもの」がネットに転がっている。

 

 

昔は、みんなが好きなテレビ番組、みんなが好きなアイドル、みんなが好きなファッションがあった。そして、ネットがなかったから「正解」は半径数メートル以内で自分たちで探すしかなかった。だから、あーでもないこーでもない、と言えた。今だったら「そんなこと、調べたらわかるよ」となる。本当は正解なんてないけれど、「らしきもの」があれば、とりあえずOKになる。答えが出ている問題を議論しても仕方ない。

 

 

そうやって過去にはオフラインでできた「どうでもいい話題」をする場所が減ってるから、それを求める人が局所的に集まる場所の1つとして「考察動画」があるんじゃないかなと思った。

 

 

ドラマの考察は、少なくとも現時点では正解が示されていない。だから答えを求めて好き勝手に議論できる余地がある。そこで共感したり反論したり、自分の意見を言ってみたり。

 

すぐ後には正解が提示されるし、正解が分かったところで人生の役に立つわけではない。後に何も残らない、どうでもいい話。そういうのが楽しいんだよ。唯一無二の正解を見つけるために生きてるんじゃない。

 

 

でも、いまはどーでもいい話ができる場所がない。わたし自身、外でどうでもいい話をする機会は少ない。代わりに、家の中では無意味なことばかり話している。母に「しょーもない」と呆れられるのだが、意味あることばっかりやってられるかってんだ。

 

 

考察動画というのは、無意味なキャッチボールが許される場所。どうでもいいことすら、”どうでもいい場所”に集うしかないというのはけっこう切ないものがある。

 

 

いまは「共鳴の時代」というのを聞いたことがある。共鳴する人同士がつながるというのは、一見良さげに聞こえるけれど、必然性のみが強調され「どうでもよさ」が生まれにくい。

 

 

 

ちょうどこの本の感想を書こうかなと迷っていたら、昨日、岡田斗司夫の動画で三宅さんがゲスト出演していた。そこで「考察は多いが、評論が減っている」という話になって、これまた詳細を忘れたのだが、すごくヒントになる話を聞けた。

 

 


www.youtube.com

 

 

この動画で分かったのは、「考察は具体、評論は抽象」ということ。

 

 

考察というのは、具体的な事柄から推測するもので一つの正解にたどり着きやすい。ドラマ考察を挙げるなら、制作側が意図して伏線をちりばめているので、確実に後で答えが見つかる。

 

一方、評論には答えがない。動画では「作家の場合、本人も意図して書いていないこともあるし、インタビューで聞かれるうちに『言われてみればそうかもしれない』と本人ですら違う方向にいくこともある」とか言っていた。

 

本人ですらわかってないことに正解があるわけがない。ただ、その書いた当時の本人の環境や時代背景から「もしかしたらこうではないか」「●●を想定して書いたのではないか」と推測することはできる。

 

 

評論を見聞きすることは勉強になるが、抽象度が高い分、難易度も高い。友達と雑談するにも人を選ぶ。「みんな違って、みんないい」のだから一つの答えにたどり着くこともない。片方が抽象度が高くて片方が低いのであれば、低い方が「それが正解なのか」と納得することはあるかもしれないけど、本人の理解度の問題であって別に答えにたどり着いたことにはならない。

 

 

普段の何気ない会話は考察でいいのだ。別に運動に興味があるからって、本気のフルマラソンを走りたいわけではなく、近所の散歩でいいのだ。

 

 

 

 

動画の中で三宅さんが「評論家が減ってる(不要になってる)」みたいなことも言ってた。

 

前から思ってたんだけど、もはや専業評論家はいらないと思う。だって、ネット上には素人評論家が無限にいるのだから。玉石混合であることは間違いないが、探せば素人でも良い評論をする人はいるし、プロだから良いってわけでもない。

 

 

いま専業評論家として活動している人は、メディアのバックアップがある人たち。もちろんプロであるからにはその視点は鋭いし説得力があったりおもしろい人もいるのだけど、中には評論家というより「お抱え言論人」になっている人も。業界にはモノ申さないのに、一般人にやたら厳しいことばかり言う評論家は、どんなに良いコトを言っていても信用できない(実際にいる)。

 

 

最初は純粋な評論をしていても、経歴が長くなるにつれて、業界寄りの視点になるのだろう。良かれあしかれ、それが人間の性ってもん。そうでなくても強力なバックがついていたり、収入源を握られていたら、客観的な評論なんて続く訳がない。

岡田斗司夫みたいに孤独に我が道を行く人か、複数の仕事を持ってる人が趣味でやる評論なら信用できるが、そういう人はメジャーにはならない。スポンサーに不都合なこと言われたら困るもんね。

 

 

 

 

 

金とプライスレスのバランス

 

金とそれ以外のコストについて思ったこと。金で解決できることは多いに違いないが、金以外のコストを惜しまない方がいいんんじゃないかなと思う。

 

 

わたし自身に起こったことで、ちょうどいい例があった。

 

 

わたしは編み物が趣味。

 

ある日、自作リストウォーマーをつけて出かけた時に、ご近所さんに鉢合わせした。わたしのリストウォーマーを見た彼女は「あら素敵」と一目で気に入った。

 

 

彼女はわたしとタイプが似ており、手作りとかていねいな暮らしに興味がある人。普段からお世話になっているので、そんなに気に入ってくれたなら編んでプレゼントでもしようかと思った。

 

 

すると、わたしが申し出る前に彼女から制作の依頼が来たので、二つ返事で引き受けた。

 

 

値段を聞かれたので実費のみいただくことにした。決して気を遣ったのではなく、自分なりに思うところがあった。

 

 

・素人にしては上手だろうが、売り物として通用するのかは不明。

 

・人に頼まれた以上、自分用より丁寧に作るつもりだが、経験値は浅い。今回はある意味で練習台でもある。

 

・彼女は家族ぐるみのつきあいがある人なのだが、どっちかというと、うちの方がお世話になっている

 

・自給換算すると最低でも実費+2万円は欲しいところ。でも、そこまで高いとわたしよりプロから買う方がいい

 

――というようなことを考え、「いまのわたしが彼女のために編む」のであれば実費でOKと判断した。

 

 

彼女には特に説明せず「実費でいいですよ」とだけいったところ、そりゃダメでしょ、という反応だったが「わかった、何か考えるわ」といってくれたので、あとは本人に任せることにした。

 

 

完成品を渡すとお礼をくれた。

 

 

中味は実費+αと「調味料キット」。+αのお金は気持ち程度だったのだが、わたしとしては調味料キットをもらえたことに感動した。

 

 

キットといっても市販品ではなく、彼女が集めたものを計量してくれていた。中身はこだわり農家のお取り寄せ野菜や発酵食品。説明を受けなくても素材の良さは実物を見るとすぐに分かった。

 

 

どれもその辺のスーパーでは売られていない特別な品。わたしのために買ったのではなく、彼女が自分のために取り寄せたもの。それをおすそ分けしてくれたということ。わたしはケチなので、高級なお取り寄せをおすそ分けするのは少し勇気がいる。だから彼女は太っ腹だなと思った。

 

 

セットには手書きのレシピもついていた。口頭で伝えるだけとか、「ネットで調べてね」というのもアリだろうに。(わたしだったらそうしていただろうから勉強になった。

 

 

このキットだけでも売られていたら2千円かそれ以上はしそう。これに加えて彼女の心遣いはプライスレス。また、初めての調味料づくりという経験をする機会ももらった。手作り好きのわたしとしては、うれしいプレゼントだった。

 

 

値段に変えられない価値とはこのこと。

 

 

ただ、今回の話はわたしと彼女だから成立しただけであって、万人に通じるわけじゃない。

 

 

わたしが「実費でいい」と言っても、「そんなの困る」と言う人もいるだろう。

 

彼女の調味料キットを見て「めんどくさい」とか「お金の方がよかった」と思う人もいるだろう。

 

 

わたしと彼女がこのやり取りで成立したのは、相手のことをよく知っていて、どうすれば喜んでくれるかを考えて行動し、それがマッチしたから。

 

普段の付き合いを含めて、あげたりもらったり、という大きな流れの中で「今回はこれ」という落としどころがあったから。

 

たとえ多少のズレがあったとしても、「まあいいか」と思える信頼関係があったから。

 

 

目に見えない部分で、ちゃんとやりとりできていたということだ。

 

 

今回の相手が彼女じゃなければ、わたしは値段設定をしたかもしれない。いや、まだプロとしてお金を取る自信がないから、たいして関係の出来てない人ならそもそも断るか。それなりに時間がかかるので、無料でもやりたいと思える人じゃないと嫌かな。

 

 

金を介さないやり取りはめんどくさい。でもそれが楽しい。

 

 

そして、このやり方だと必ずしも一般的な数字というのが当てはまらない。今回みたいに、一般常識で思われている数字より低いやり取りでも成立する。お互いがいいならいくらでもいいのだ。

 

 

金はラクだが、すべてのやり取りが金になると、人間関係は味気ないものになる。ついでに、いくら金があっても足りない。

 

 

逆に言えば、人間関係を丁寧に築くことができれば出費は抑えられる。もちろん、出費を抑えるために人間関係を築くのではなく、あくまで結果ではあるが。

 

 

いつだったか、ホリエモンが「金で解決できることはしろ」といっていたのも、それはそれで正しい。忙しい人間は、リソースを割く場所を選ぶ必要性が出てくる。金で解決できない部分はゼロではないだろうし、そこではちゃんと対応してると思う。

 

 

金を稼ぐ才能のない人は、それが悪いのではなく別の才能があるということ。家計が火の車というのなら、このバランスが崩れてる。わたしみたいに商売とか普通の労働など普通と言われている稼ぎ方が苦手なタイプは、ちゃんと別の方法でそれを補う能力が備わっているはず、と信じている。

 

 

この考え方で生きていけるのか、いまは検証中。うまくいくだろうと思っているけど、万が一いかなくなったらその時考えるつもり。

 

 

 

 

 

 

ヤングケアラー問題を見て思ったこと

 

 

探偵ナイトスクープ」で男の子が家事一切を任されて疲弊している様子が流れ、「ヤングケアラー問題だ」と話題になっている。

 

 

ツイッターで断片的に拾ってみたところ、確かに気の毒だなと思った。両親の問題が指摘されていて、それもうなずけるものだった。

 

 

ただ、この親のように“ちょっと変わった”大人は意外と珍しくない。子どもたちにとっては厳しいかもしれないが、別の場所では良い人で通ってるかもしれない。

 

 

 

逆に常識的な親だとしても、無自覚に子どもを追い詰めてるケースも知ってる。そのほとんどは悪意なんてないし、本人なりにちゃんとやってるつもりだったりする。

 

 

ここで「児相にいうべき」「警察が介入すべき」という理屈も分からないでもない。そこまでしなきゃ、現状は変わらないのかもしれない。

 

 

今、この手の「犯罪や事件とまでいかない、内輪のもめ事や問題と思われること」で一番手っ取り早く頼れるのは公的機関だ。おかげで、システムが順調に整ってきてる。

 

 

うちの近所でもパトカーが巡回するようになった。最初は事件でもあったのかと思っていたが、いつも同じ場所でUターンすることに気付き、「これが通常業務になったんだ?」と驚いた。そういう世の中なんですね、世知辛いですね。

 

 

でもシステムの行き過ぎが怖い。家族の問題にシステムが介入してくるなんて、絶対イヤだ。

 

 

わたしは親とよくケンカをする。手は出さないが、大声で怒鳴り合うことなんてしょっちゅう。2,3日険悪なムードが流れたらそのうち時間が解決し、再び平和な日々が戻る。

 

それで警察を呼ばれたら、たまったもんじゃない。たとえすぐ帰るとしてもよ。家に入り込んできて、事情聴取みたいなことされたくない。前に、ある件で警察に協力したら、なんか自分が犯人になったかのようで怖くてドキドキした(警察は悪くないけど)。

 

 

今の段階ではすぐ警察を呼ばれることはないかもしれないが、数年後はどうなってることやら。助けを求める場所があるというのは、決して悪いことではないとはいえ。。少しずつ自分のテリトリーが侵食されていくようで、気持ちのいいものではない。

 

 

なぜ、こんなことになったのか?

 

 

人間関係が希薄になり、全てが自己責任となり、かつて「困ったときはお互い様」だったのが、有料サービスにとってかわられ、トコトンまで個人が分断された成れの果てが今、なのだろう。

 

 

今回の両親にも友人や親族、ご近所さんがいるはず。その誰一人として子どもたちの現状を知らなかったとは思えない。つまり、知っていても指摘しなかったか、言ったとしても「大丈夫だから」と返されてしまえば、それ以上踏み込めなかったのだろう。

 

 

もしわたしがこの親のママ友だったとして、何ができただろうか。

 

家に行ったときに子どもを手伝うとか、励ますくらいしかできないだろう。「遊びにおいで」と言っても弟や妹がいれば放っておけないだろうし、その子に代わって家事をすることもできない。踏み込みすぎると別の問題に発展するし。そういう親に嫌悪感を抱いて距離を置くかもしれない。

 

 

これが昔のご近所付き合いなら、周りの大人が放っておかなかった。

両親に「ちゃんと子どもを見なきゃだめでしょ!」と怒る人も一人くらいはいただろう。たとえ直接介入できなくても、たまに優しい誰かの家に逃げ込んでゆっくりさせてもらうような場所があったはず。今はそれがない。

 

 

うちの親も今振り返ると結構キツいタイプだった。

 

わたしがラッキーだったのは、近所づきあいが広くあったこと。きょうだいもいたので、誰かの友だちの家に便乗して端っこに居座ったり、常にご近所さんの目の届く場所でチョロチョロしていた。

 

 

子どものわたしは、いろんな大人たちに世話になり、いろんな価値観を知ることができた。親は親で、人付き合いの中で「困ったときはお互い様」をしつつ、「それはどうなの?」とたしなめられたり、怒られたりすることもあったようだ。

 

本人に悪気がなくても子どもが傷ついていることがある。それを知るのは、他人と価値観を交換する機会があるからこそ。

 

 

今回の親は、交友関係が広いようだが、本当に大事なことを指摘してくれる相手や、本音を言い合える相手がいなかったということか。SNSにあった意見の中で「お金があるならシッターを雇えばいい」というのに大賛成だが、お金があってもやらない人はやらない。

 

 

あと、今回出てきた子どもは自分の置かれた状況をかなり客観視できていた。それは普通の同級生と自分の置かれてる環境が違う、ということが目に見えて明らかだったからだろう。幸か不幸か。

 

 

しかし、普通に幸せそうに生きていても、無自覚に疲弊している子もたくさんいる。わたしがまさにそうだった。いつも人の顔色をうかがい、何が原因かもわからず、追い詰められている自覚もなく、息ができないほど締め付けられる夢をしょっちゅう見ていた。

 

 

振り返ると、当時のわたしは支配的な親のプレッシャーに押しつぶされそうだった。当時の友だちで、わたしがそこまで追い詰められていたと知る人はいない。学校では悟られないように、普通にしていたから当たり前だ。それに、苦しいことばかりではなく楽しいこともあったから、気を紛らわせることは可能だった。

 

 

誰にも相談できないし、誰にも心配されない。むしろ、強い子に見られていたので厳しい言葉をかけられる。逃げ場もなく、夜寝るときだけが唯一自分の心と向き合う時間だった。当時の苦しみは大人になってからも続いて、脱却するのに時間がかかった。

 

 

やっと当時のことを過去にできた今だから言えるのは「親もただの人間。期待するだけムダ」ということ。わたしの知り合いでも、子ども時代に親に傷つけられた人はたくさんいて、未だに引きずってることだってある。もう孫がいる世代の人でもいるくらいだ。

 

 

どこからどう見ても立派な親に見えてたとて、それでも子どもの心に暗い影を落とすことはある。しかしそのすべては、良いことだけも悪いことだけもない。両方あるから人間として成長できる。わたしに子どもはいないが、いたとして立派な親になれるかなんてわからない。だから今回の親が変な人だとしても、責めることはできないよな、と思う。

 

 

そして、地獄のような子ども時代も、過ぎてみればもはやどうでもいい。それが糧になってすらいる。最後まで間違った選択をしなかったのは、希望を捨ててなかったから。捨てない限り、希望はある。

 

 

今回の子どもの話に戻ると、児相や警察が介入するのは難しいのかもしれない。これをきっかけに介入する方針になるのが良いとも思えない。

ただ、放送があったことで(SNSでやり玉に挙げられたことで)、周囲の人間は変わるだろう。

 

 

「実は前から〇〇くんのこと、気になってたのよね」という人が現れて「わたしも」という賛同者が増えそう。学校からの指導が入るとかね。人の目を気にして当たり障りない人間関係に終始している人ほど、同調圧力に流されるもの。

 

あるいは、「そんな事実全く知らなかった」という優しいご近所さんが少し子どもたちをケアするかもしれない。そうやって、今回の家に関してのみ、救いはあるのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

アノマリーな日々を送る

 

タイトルを「おやつく後記」から「あのまる日記」に変えました。

 

 

おやつづくり記録を別のところで書いているから、こっちは「後記」でいいや、と思って安易につけたのだけど、前から「おやつと全く関係ない……」と見るたびに思ってた。

 

先月くらいから”変えたい欲”が湧き出てきたところ、「アノマリー」という単語が目に入った。

 

 

そう、「あのまる」とはアノマリーをもじった造語。アノマリーは最近知った単語で、「特異点」みたいな意味らしい。アノニマスもこれが語源なのかしら? とにかく社会のバグである自分にぴったり。響きも気に入った。

 

「バグ」を使ってもよかったのだけど、響きがイマイチ。虫やし🐛

 

 

でもどうやらアノマリーというのは投資用語でもあるらしく、そっち系の人の検索に引っかかるのはなんかヤだったので、どうしようか考えていた時に「あのまる」を思いついた。アホっぽくていい。

 

 

「〇〇まる」って日本語も気に入った。

 

「まとまる」「絡まる」「勤まる」「丸まる」「かしこまる」――。これらのことばは、中心にいる個人や集団が内側に向けた動きを示している。いつもひとりで考え込んで、自己完結しているわたしにぴったり。

 

 

最後に”日記”とつけたのは、ホントいうと物足りない。「備忘録」「ダイアリー」「メモ」「記録」とか比較的無難なやつから、もっと飛躍させたカッコイイ響きのも考えたが、なんかしっくりこない。タイトル負けしたブログになっても仕方ないので、世界で一番無難な単語でいいや、ってことで適当にした。

 

 

ほんとねえ、アノマリーな日々なんですよ。数年くらい前から一気にアノマってる。

 

 

こないだ年末年始に人と会って感じたことを書いたが、ますます一般認識と自分の認識が離れてってる気がしている。

 

 

わたしがガンコになってるだけ? 人と会わな過ぎてズレてしまってる?

 

とか考えるのだが、「いやいや、わたしは人間諦めてないだけだ」と言い聞かせてる。

 

 

子どものころから「変わってる」と言われてきたので、多少は変わっているのだろう。しかし他人のいう「変わってる」というのは、どこがどのようになのだろうね?

 

 

定期的に言われるものだから、小学生のときに「わたしは人間じゃないのか?」と本気で考えたことがある(悩んだってほどではない)。

 

でも、好きな本や映画、マンガなど、日本や世界で名作と言われている作品にちゃんと感動していることに気づき、「大多数の人間と同じものに感動してるんだから、人間だ」という結論に至った。

 

 

いまなら自分のどこが変わっているのか、多少は分かる。比較的、社会性がなくて野性味が強い。みんなが気にすることがどうでもよく、みんなが気にしないことが気になる。みんなと見ている場所が違うらしい。

 

 

とはいえ、社会性に固執していた時期もあった。子どものころに叩き込まれた教育のせいで、自分を矯正して社会に合わせていったからね。

 

30代前半くらいまで、家系や学歴、就職先がすべてと信じ、ガムシャラに邁進していた。でも、元の野性味がどうしても手放せなかったらしい。この歳になってようやく、自分はこっち側の人間なんだわという諦めがついた。もうバグです、バグ。

 

 

「バグズライフ」っていうアニメのDVDが昔、家に転がってたのだが、あれはわたしの将来を暗示していたのかもしれない。

 

うちはアニメDVDなんてものがある家庭ではなかったのだが、兄が誰かにもらってきたかなんかで、たぶんわたし以外誰も見てない。

 

いまわたしはバグズライフを満喫中です。映画の内容は忘れたけど。

 

 

もはやブログタイトル、「バグズライフ」でも良くない? という気にもなってきたけど……やっぱアノマリーで。マイルドな響きでいこう。

 

 

このことば、量子の世界では「量子異常」「対称性の破れ」ともいうらしい。なんかカッコイイ。対称性をぶち破りながら生きていきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今年の目標

 

それは野生を取り戻すこと、世界を信頼すること。

 

 

年末年始、普段とは違う動きをしたせいでペースが乱れ、取り戻すのに時間がかかってしまった。週1更新を掲げていたのがストップしてしまったけど、お正月休みだったということで。

 

 

最近はめっきり人に会う機会が減り、同居家族以外はたまにご近所さんと話すくらいしかなかったのに、この年末年始はいつもより会う人が増えた。数年ぶりに連絡をくれた友人とか、疎遠になっていた親戚とか。

 

 

そこで、久しぶりに生身の人間が毎日何を考えて生きてるのか、断片的に知ることができた(この状況はなかなかヤバイけど、自分で選んでるから仕方ない)。

 

 

社会から切り離された生活をしているので、世の中のことは主にネットで情報を取っているけど、それも自分で取捨選択している。お気に入りのインフルエンサーや、もっともらしいことを言ってる人の発信を見聞きして、改めて事実確認をすることもない。なんとなく、「この人信用できそうだなー」と流している。完全に信じてるわけじゃないが、無意識に影響は受けているだろう。エコーチェンバーもいいところ。良くない傾向だと分かってるけど、改める気はナイ。

 

 

それでもたまに、自分の信じてる世界がズレすぎてないか確認したくて、世間の考えを知りたくなる。

 

 

というわけで今回、複数の人としゃべってみて、いろいろ参考になった。

半分は予想通り。もう半分は予想外。

 

 

予想通りだったのは、自分を律して生きているタイプ。好きな仕事に就いてそれなりのお給料をもらって、幸せな家庭を築いて、休みの日にはパートナーや子どもとレジャーを楽しんだりしてる。

しかし……うまくいかないことも多いよね……でもまあ、わたしだけじゃないよね。世の中そんなもの。なんだかんだ楽しいこともあるし、頑張って生きていきましょうかね。

 

――みたいな。本人はそこまで言ってないが、幸福感よりやりきれなさが勝っているように見えた。

 

 

そんな人たちの子どもは、そこそこ恵まれているはずだが、今回会った子に限っていえば、ときどき子どもらしからぬ疲れたサラリーマンのような表情を見せた。

 

何となく、圧倒的に遊び足りていないんだろうなと思った。わたしの時代は普通にできたことが、令和を生きるこの子たちには難しい。制限だらけなのが当たり前なので、不満はあるがそれを自覚することなく我慢強く生きている。

 

 

この子が現代っ子の標準とはいわないけど、全体的に安心安全に囲まれて無茶することなく無難に生きているのは間違いない。近所の子どもを見ていてもそう思う。

 

 

一言でいうと、野生を奪われている。野性を失った大人がつくった社会で育てられてるのだから当然。子どもはまだ野性を発揮するチャンスを諦めてなさそうだったが、これが続けばそのうち飼いならされてしまうだろう。

 

 

今回会った人たちについて「半分は予想通り」と書いたが、もう半分は想定外だった。

 

 

想定外の人たちは、システムにちゃんと馴染んで幸せに生きているタイプ。もともとシステムに適合した気質の人と、元の気質は違うけどシステム側に自ら改造していった人、の2種類。どちらにしろわたしには到底真似できないが、両者ともに清々しいほどまっすぐなので「そういう考え方もあるのか」と感心した。きっと違う星の人なんだな。本人が幸せなら問題ない。

 

 

ただ、システムからこぼれ落ちた”バグ”としては、やっぱりバグの方が人間らしくて良い、と信じてる。

 

 

人と同じことができなくて、くだらないことでいちいち感情を揺らして上がったり下がったり。五感が敏感で燃費が悪く、すぐ体調を崩す。とにかくシステムでは邪魔だったり扱いにくい能力ばかりが発達している。しかしそういう人間も一定数いるもんだ。

 

 

システムは理性優位、バグは野生優位。

 

 

野生だけが良いとは言わないけど、いまはあまりに少ない。

 

 

システムを外れて数年、モヤモヤとしながら隅っこで小さく生きてきたけど、どこかでこんな自分を世間に認めてほしいと思っていたらしい。最近気づいた。

 

物理的には自由に生きてるはずなのに精神は自由を感じていなかった。上半身が凝り固まっているのは、世間に対する罪悪感や劣等感が強いから。どうせみんな、システム側の人間なんでしょ、という諦めと警戒心も。

 

 

でもこの状況にもそろそろ飽きた。変わる気がないなら、もう開き直るしかない。

 

 

こうなったら、我慢していた野生――というか本性で、劣等感も罪悪感も捨てて生きていくしかないんじゃないだろうか。このまま縮こまって生き続けて寿命迎えたら絶対に後悔する。

 

 

ってことで今年の目標は、「野生を取り戻す」「信頼する」。

 

 

書いてはみたけど、野生っていうのが何なのかはよく分からない。別にケモノになるわけではない。ただ、「システムに合わせなきゃ」というのを止めて、それを人に認めてもらおうとするのも止めて、「それでも大丈夫」って思いたい。

 

 

うまくいかなかったらまた考えよう。

 

 

 

さて、毎日のように家の前を朝通る親子連れがいる。子どもは一番下が2,3歳くらい、その上に幼稚園に通っているお兄ちゃんとお姉ちゃんがいて、みんな仲良く手をつないで歩いていく。

その末っ子がいつもゴキゲンに歌っている。一度だけ親に怒られでもしたのかシュンとしていたが、それ以外はずっと歌ってる。

 

うちではその子をこっそり「ゴキゲンベビー」と呼び、歌が聞こえると「あ、ゴキゲンベビー来たよ」とほっこりしている。

 

 

実はこのベビーは二代目。初代は去年いた別の子(二代目とは全然関係ない)。初代は自転車に乗せられて、大声で歌いながらうちの前をさっそうと通り過ぎていた。

いつからか初代の歌は聞こえなくなった。親が道を変えたのか、小学生になったのか。今も通っているけど歌うのを止めたからわたしが気づかないだけ、という可能性もあるけど。

 

 

子どもは何もしなくてもゴキゲンでいられる。この子たちがゴキゲンなまま育つ世界がいいよ。

 

 

 

 

ツイートはできないがブログは書ける

 

 

わたしは複数のSNSのアカウントを持っているが、自分が発信する場合は長文が許されるブログじゃないと無理。インスタは写真メインだから別として、ツイッター(X)をやる人はすごいなとつくづく思う。

 

 

ツイッターができない理由としては、まず、短い文章で伝えなきゃいけないこと、アップした直後からどんどん埋もれていくことに抵抗がある。言葉が雑に扱われているようで、ちょっとね。

 

 

もしわたしが商売をやっているなら、戦略として使うだろう。自分の専門分野について宣伝がてらツイートするのはアリ。過去、ブログ更新のアナウンスとして使っていた時期もあったけど、最近はそれすらやめて、もっぱら見る専用のツールになっている。

 

 

で、見る側としてはツイッターはおもしろい。主に長文の濃い内容を書いている人か※、最新情報について独自の見解を述べている人とか、テーマがある人が好き。

 

 

(※有料プランにすれば1ツイートでも長文が書けるっぽい。それでも埋もれていくことには変わりないので、わたしはやらないけどね)

 

 

そんな中、不思議なのは素人の何気ないつぶやき。

 

 

独り言みたいな、本当にぼそっと呟くようなツイートよ。

 

 

ぼそっと呟いているようで、アプリを開いてポチポチと打って投稿している時点で、かなり時間をかけている。

 

それって”つぶやき風”に編集しているだけで、「これを投稿しよう」と思いついてから投稿するまで、さまざまな思考が通り過ぎている。慣れてる人は短時間でやっちゃうのだろうけど、本気のつぶやきは一瞬。それに比べると「打つ」という行動は数十倍か、それ以上に長い。

 

 

もし、本当に瞬時に脳内のつぶやきを文字に変換したとしたら、ニュアンスがまったく違って伝わってしまう。

 

 

人に伝える時というのは、声の響きや表情、身振り手振りや、それ以外にもたくさんの情報を受け取るもの。声でつぶやく場合、最低でも声の情報が加算される。

 

 

それがオンライン上の文字だけとなると、圧倒的に情報量が減る。そこで、ふと思ったことを文字にして投稿すると、読み手にニュアンスが届かない。誤解されることすらある。

 

 

本気で誰にも届ける気がないツイートには興味ないのだけど、独り言をつぶやいているように見せかけて、ちゃんと読ませる文章を書いている人は、脳内つぶやきを文字で伝わるように変換している。つまり自然に見せた加工品。簡単とはいえ、小さい作品なのだ。

 

 

そこでさらに気になっているのが、”関西のオバチャン風”の人。

 

 

”関西のオバチャン風”というのは、思いついたそばからポンポンと口に出す人のイメージ。関西じゃなくても男女関係なくそんな人はいるだろうが、今回の話に限っていえば関西弁を使っている女性ユーザーのこと。

 

 

「わたし、こう思ってん」とツイッター上で目の前にいる友達に語り掛ける体を取っているのだが、知り合いに向けた言葉ではなく、ちゃんと不特定多数に見られることを意識している。ツイート単体で過不足なく説明し、何気ない関西弁ではあるが、ちゃんと分かりやすい表現を使っている。気楽な関西オバチャンを装っているが、かなり知的な人だろう。

 

 

現実の世界で、ぽんぽんと軽い会話をするオバチャンは、ツイッターなんてしないと思う。そういう人が知的じゃない、というのではなく、使う能力がまったく違う。

 

 

おそらく、ツイッター上の関西オバチャン風にオフラインで会ったら、脳内で浮かんでいた像とは全く違うだろう。

 

 

しかし、そんな関西オバチャンが労力をかけてもツイートというのは多分に漏れず短いし、どんどん流れていく。わたしからすると、常に一発芸をしているようなもの。

 

 

発信しては流れ、発信しては流れていく。変なイチャモンもつきやすい。知り合いとか通行人がコメントくれたら、返さなきゃいけない。なんとコスパの悪い発信だろう。

 

 

わたしはここでは小難しいことばかり書いているが、リアルでは関西オバチャンのごとく、しょうもない会話ばかりしている。ニュースを見てあーだこーだ、意味のないやりとりもよくする。

 

でも、それをオンラインで不特定多数とやるのは時間がかかりすぎる。よく考えると、ツイート上の雑談てめちゃくちゃ不自然だと思うんだが、どうなんだろう?

ポンポン軽い会話をしているように見えるが、1つのつぶやきごとにタイムラグがあり、人によって思考の密度も違う。そこに嘘くささを感じることがある。

 

時には、近所のおばちゃんの立ち話みたいなのが繰り広げられることもあって、「もはや電話すれば?」と思うこともある。

 

 

どのように使おうと人の勝手なのだが、よくわからない。本人は楽しんでいるのだろうということだけはわかる。

 

 

 

ツイッターが一発芸ならブログは最低3分は続ける漫才。

 

ブログでは自分の場所でまとまった考えを一気に出すので、「連続でポンポン発信」は無理。長いので最後まで読んでくれる人は限られるだろうが、伝えたいことは全部書いている。

 

 

独りつぶやき風のツイートというのは、わたしからすると一発芸をマイナーチェンジしながら延々続けるようなもので、体力も気力も持たない。本人はそこまで考えてないかもしれないが。

 

ああ、バイタリティという点では、オンラインにいる実は知的な関西オバチャン風はオフラインの本家と同等なのかも。

 

 

しかし、なんでそんなツイートするんだろう?と不思議に思いつつ、彼女らのツイートというのはたまに無性に見たくなる。

 

 

理解できなくても、いろんな人がいるからこそ面白い。

 

 

 

 

 

 

繋がる縁はちゃんと繋がる

 

 

先日、イトコが遊びに来た。親戚なのでありがちに思われるかもしれないが、わたしの場合はそうでもない。

 

 

お互いの家も遠く離れており、直接の行き来はない。親しくしていたのは幼少期のみ、親たちの里帰りが被ったときの数回しかなく、次に会ったのはそれから10年以上が経った親戚の葬儀。一番最近で会ったのは、前回からさらに10年以上たった、数か月前。

大人になってから2回しか会ったことがないのだ。

 

 

子どものときの記憶はおぼろげだし、大人になってからは儀式やら会の合間に当たり障りない話をする程度。わたしはここ数年、叔父や叔母と会う機会が多かったので、イトコたちの近況については又聞きで知ってはいたが、パーソナリティについてはよく知らないまま。

 

 

そんなイトコと、こないだ10年以上ぶりに会ったときの食事会で隣の席になった。

 

 

わたしは表面的で常識的な会話が苦手だ。仕事ならいくらでも話せるが、プライベートはめんどくさい。親戚の堅苦しい集まりが嫌でしょうがなく、ギリギリまで欠席しようか悩んだくらい。ただ、今回限りで二度と合わない可能性もあったので、頑張ってみようか、と参加を決めた。

 

 

長いテーブルでわたしとイトコは偶然隣同士になった。たぶん、この席にならなければ縁はできていなかっただろう。今思えばなかなか運命的だと思う。

 

 

イトコは母親である叔母の情報によると、変わり者であると同時に、明晰な頭脳の持ち主とのことで、子どもの頃から成績優秀、スポーツ万能。社会人になってからも頭角を現し、業界内ではけっこうな有名人とか。どんだけ。

うだつの上がらないヒキニートのわたしと合うとも思えなかったが、どんな人なんだろうと興味はあった。

 

 

最低限の社交性を駆使してイトコと話してみると、「この人は違う」という感覚をすぐに得た。他愛のない仕事やら親戚の話をしただけだったが、会話は途切れることがなかった。

 

 

明確な目的がない限り話したいと思える人がいないわたしにとって、このイトコと会話が弾んだことは奇跡に近かった。華やかな経歴の割に、それを鼻にかけることもなく、言われなければ分からないくらい。何事にもフラットな感覚を持っている。理解できない部分も多少はあるにしろ、全部ひっくるめて面白い人だった。

 

 

友達が少ないだけに、「この人はいける」と分かったときのセンサーは敏感に反応する。

 

 

そこで、「うちの地元に来ることがあれば、泊まりに来なよ」というと、イトコは「ぜひ。仕事でそちら方面に行くことがあるので」と即答した。

 

 

これ、普通は社交辞令と思うじゃん? もちろん、来てほしくない相手にそんなことを言わないので、わたしも一応本気で言ってはいるのだが、真に受ける人はほぼいないことも承知している。しかしイトコはその一か月後に来た。

 

 

もう一度いっておくと、イトコとはいえ子どものころに遊んだだけで、次に会ったのは大人になってから2回だけ。まともにしゃべったのは、こないだの親戚の集まりで2時間ほど。知ってるようで知らない、独特な関係性なのだ。

 

 

それで本当に来るとは。社交辞令もなんのその、フットーワクが軽い。自分以外でこういう人を初めてみたので、びっくりしたしうれしくなった。

 

 

わたしが好きなタイプは、常識に縛られない人。自分がそうありたいからだろう。イトコはドンピシャだった。

 

 

良くも悪くも図々しくて、細かいことを気にしない。しかし非常識というわけでもなく、他人のことをよく観察している。環境適応能力も高い。どんな場所でもどんな人が相手だろうと、何とかなるのだろうという気がする。

 

 

このタイプと一緒にいると気が楽だ。失言が多いわたしでも、「相手にどう思われているだろうか。気に障ることしてないかな」などと気を遣う必要がない。

 

 

イトコもまた、わたしにシンパシーを感じたらしい。やはり似た者同士、嗅覚も鋭い?

 

 

「似ているのはやはり血でしょうか」というイトコの持論については、「関係ないのでは?」と返したが。

 

 

血縁だから性格が似るということはあるのだろうか? だったらきょうだいの方が似るのでは?

 

 

しかし、イトコとわたしはあるポイントでは似ているが、具体的な方向性は真逆といってもいいくらい違う。イトコはエリートで将来を見据えて資産運用も堅実にやっており、外側から見る限り世間的な王道をいっている。かたや、わたしといえば、ヒキニートで金のこととか将来のことは全くのノープラン、王道からかけ離れた落伍者。

 

 

このふたりが具体的な話をしてもかみ合わない気もするのだが、話題はそこまで具体的でもなかった。何の話をしたのか忘れるくらい、どうでもいいことだったようにも思うが、とにかく楽しかったことだけ覚えている。

 

 

「気が合う」と言うときに、趣味が一緒だの仕事が近いだのを言う人がいるが、わたしが仲のいい人の中で、具体的な方向性が近いタイプはそれほどいない。出会う場所が限られているので経歴がある程度近い人が多くなるのは仕方ないが、別にまったく違う人生を歩んでいても、探せば合う人はいるんじゃないかと思う。

 

 

やっていることが真逆でも、「なるほど。あなたはそうなんですね」と相手の意見を尊重できる相手ならば、大抵はうまくやれる。逆に、同じ方向を向いているように見えても、「これだけは許せない」とか「こうすべき」という思い込みが強い人が相手だと、どこかで衝突することになる。

 

 

過去に色んな人間関係を築いていく中で、うまくいく時とそうでない時を繰り返し、距離の取り方というのがだいぶ分かるようになってきた。結果、孤独になっていくのは自然な流れ。人から逃げることなく、良い関係性を築くにはどうしたらいいのかなと常日頃考えており、その答えは見つかっていないのだが、今は今でベストなのだと思っている。

 

 

世界が広がらないのは今の自分の行動と思考の結果だし、ぼっちでも仕方ないよなとどこか諦めていた部分もあったが、そんなときにイトコと出会った。いや、前から知っていたけれど、遠かった存在が急に近くなった。

 

 

年末に珍しく誘ってくれた友人複数人も、前からそれなりの仲ではあったが、大人数の会ばかり誘ってくるので断っていたのが、サシで誘ってきたので行くことにした。わたしの人付き合いが悪いのはみんな知っているので、このままフェードアウトしていくのだろうと思っていたら、ここにきてにわかに復活。これもまた不思議な縁だ。

 

 

自分から誘うことがほぼなく、引きこもって1人遊びばかりしているわたし。でも、積極的に何か行動したり働きかけなくても、自分らしくいれば、何かしら縁というのは繋がるものなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

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