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花も嵐も踏み越えて鉄道人生44年

2022年02月

現場第一を実現するためには、現場の実情を知らなければならない。
千葉支社では、私が着任する前から、毎月支社の幹部が現場に出て、現場社員との懇談などを行い要望や問題の吸い上げを行っていた。
私も、それをより強化する形で承継した。

私と各部長を班長にして各系統の課長を班員にした六班が計画に基づいて毎月二カ所の現場を見に行く。
現場を見て回って危険個所の発見などに努めると共に、一般社員を中心に、支社に対する要望を訊いてくる。
それを支社の部長会議で発表し、その場で解決できるものは解決し、時間のかかるものは、解決するまでフォローし続ける。

一カ所でだいたい20項目くらいの要望や問題点が上がり、支社全体で240項目を毎月フォローし続ける支社の担当者は大変だが、部長会議で結論を出すから、解決は早く確実だ。

半年ごとに、出された問題数と解決した問題数、検討中の問題数などを円グラフにして、壁新聞に載せて現場に配布した。
だいたい半分くらいは、すぐに解決した。
積み残した問題は色をかえて、それが解決した場合も違う色で判別できるようにした。

私の千葉在任の4年間、ひと月も休まず続けた。
それでもつぎつぎに要望や問題は減ることなく出された。
現場は動いている、のだ。

毎月続けるから、現場社員と支社幹部が顔なじみにもなる。
各系統の課長が一緒に行くから、縦割りの壁をなくして支社一体となって現場の問題解決にあたれた。

支社の担当者が、自分たちに都合の悪いことをいわないように前もって規制をかけることもあったと思うが、何度も続けているうちにホントの姿は見えてくるようになる。
A駅で出された問題がB駅で出ないのはなぜか?
そういう目が支社の幹部に育ってくるということもあった。

壁新聞で明らかになった問題解決の進捗状況は、現場の人たちの発言意欲を刺激した。

そして私は
暇さえあれば、こういう「公式」の現場巡視の他に、予告なしにふらっと一人で現場に行って、現場の生の姿を見ることをやっていた。
そうすると「公式」の場における現場の人たちの発言が、いっそう正直な飾らないものとなって、実りの多い会議になるのだった。

支社長になって、なにより大事にしたのは「お客様第一」「現場第一」ということだった。
言葉としては多くの人が口にするけれど、なかなか実行できていない。
管理部門第一であったり、自分第一であったりする。
国鉄が国民の信を失って民営分割化されたのも、その根っこには、お客様より国鉄の都合、縦割りの官僚的経営、保身第一による無責任体質、現場を知らない、それでいて大事なことを現場にかぶせる、、そんなことがあったからだと思っていた。

そういう形式的官僚的なきれいごとを繰り返すようでは、ふたたびお客様の支持を失い、ひいてはJRおよびそこに働く社員の生活は守れない。
それは、仙台での現場実習ついで会津坂下駅長として始めた国鉄生活のなかで、マル生運動の失敗や神奈川県警交通指導課長としての見聞、東京北局から職員局における労働組合との泥沼の日々、名古屋局営業部長における体験、名古屋臨海鉄道で見いだした現場のすばらしさ、貨物局における貨物会社設立の苦しみ、埼京線開発でのフアッションビル経営や高架下開発、JR東日本企画の設立、JR東日本開発事業の実態などを通して、一貫して強く感じて来たことだった。

多くのことをやり、途中で現場第一の視点から時の権力と対立し、なんどか窓際勤務も強いられ、生活の不安さえ感じたのに、こうして思い出多き千葉の地に立ち、尊敬する田口局長と同じ仕事を与えられた。
これ以上の幸せはない。
すべてを「お客様第一」「現場第一」の実現のために捧げよう。
そんな気持ちだった。
テロなにするものぞだった。

当時、千葉支社長になるのは、ある種の覚悟が必要だった。
三里塚闘争と訣別したカクマル動労本部と対立して、分裂した中核派の千葉動労が、JRになったあともストライキを実施していた。
そのストライキを支援するかのように中核派は浅草橋駅を焼き討ちしたり、千葉支社の総務部長や総務課長の家に放火した。

千葉支社長という職務にはテロの襲撃対象になる可能性があったのだ。
警察庁警備局長をやった人がJR東日本の監査役となっていて、テロの犠牲になることは本人が気の毒とかいうことではなく、組織防衛上容認できないのだ、だからイヤでもボディーガードを連れて歩き、宿舎には徹夜の守衛をつけなければならないといった。

宿舎は千葉の小さなマンションを借り上げて、週末だけ吉祥寺の社宅に帰ることにした。
総武線に事故があると吉祥寺から出勤するのは困難だと思ったからだ。
その吉祥寺のマンションの階段の前に小さなボックスをおいて毎晩警備員が監視についた。
妻は毎晩、お茶とお菓子を出し続けた。
千葉から吉祥寺に帰るときは、鉄道公安経験の男がずっとついてくる。しかし、早朝千葉に出てくるのに付き合うのは難しい。
そんなこともあって、社宅の警備を除いて私は一人で行動するようになった。
それどころか、普通の支社長なら使う専用車にも乗らず、秘書も連れずにどこにでも出かけたのだった。

開発事業部も一年ほど経過したところで、千葉支社長になれと言われた。
会津坂下駅から千葉局人事課長になり、貨物課長も務めたいわば振り出しの地だ。
夢のような話だった。

人事課長になったときは、上野駅まで迎えに来てくれた長谷川・後藤両係長と総武線の普通車で立って千葉まで行ったけれど、こんどは特急のグリーン車で赴任した。
千葉駅に降りると、小鷲駅長が出迎えてくれた。
人事課に私より後から入って来た男、思わず握手をしたら、涙腺が少し崩壊した。

駅前の支社ビルは、管理局のときと変わらない。
泉、田口、今野と三人の局長に仕えて、いろんな思い出のある局長室に入って行くのも特別の感慨があった。

上がり症なので、局員を前にする赴任の挨拶がちゃんとできるかどうか、心配していたが、思い切って大きな声を出したら、あとはすらすらと話ができた。
「来た」というより「帰ってきた」という気持ちが強かった。
ほぼ20年ぶりの帰還だった。

すぐに、OBになっている昔の部下たちが訪ねて来てくれた。
それぞれ駅ビルなどの要職についていて、彼らと再び千葉局を良くする仕事に取り組めるということも嬉しかった。

開発事業部では、商社や銀行など外部の会社から来た人と仕事をするのも楽しかった。

私たちは、彼らと国鉄出身者の差別をしなかった。
部外者扱いをせずにオープンに情報を共有した。
常務や社長などに説明に行くのも一緒だった。
どうせお客様扱いで、ほんとのところは教えてもらえまいと思っていた人は驚きもし喜んでもいた。

しかし、社長への説明に独りで行って来てくれというと、戸惑いを隠さなかった。
会社にもよるとは思うが、トップへの説明は取締役以上に限るようなところが多いようだった。
国鉄は、総括補佐が総裁に説明にいくこともあったし、局長どころか常務理事とサシで議論することもしょっちゅうだった。

上役と衝突しても、どっちかが、すぐに転勤になってしまうから、捨てる神あれば拾う神ありで、新しい天地が開けるというような楽観があった。
上と衝突するくらいな気骨が評価される風土も(かつては)あった。
民間会社は、概して国鉄と比べたら規模が小さいから、いったん上役に睨まれると、なかなかその目の届かないところに脱出するのは難しい。
そのことが、若者が上役の思惑を気にせずに、思うことを自由闊達に主張する風土の醸成の妨げになっているところもありはしないか。

民営分割化されたJRの若い社員たちが、そういうところを民間会社から学ぶのは嫌だな、と思った。
しかし新生JRは、民間会社からの派遣者から学ばなくても、すでに小さく固まって、改革血判組や上司に逆らわないようにするような空気もあったようだ。
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