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花も嵐も踏み越えて鉄道人生44年

当時の国鉄は、「ないものは葬儀屋くらい」というくらい、なんでもやっていた。
○○コを浴びながら真夏の線路を歩く保線区、車内放送で途中駅の名前の読み方を間違えた車掌区、被服工場、切符の印刷場、、現場見習は、そういったすべてを網羅的に見て歩く。
鉄道公安室で公安官の制服制帽に身を固め「敬礼!」をし拳銃を実射したことなどもある(なかなか当たらないものだ)。

いわゆる現場だけでなく、管理局の人事課や旅客課などにも何か月か勤務した。
旅客課では宣伝係に配置されて、会津線・塔のへつりへの宣伝パンフを作ったり、旅客課だよりみたいなものの編集をした。
私の考えたキャッチコピー(子供のころ、母が読んでいた「暮らしの手帖」の見出しの作り方に影響されていた)が、仙台駅の改札口上の壁に大きく張り出されたときはいささか嬉しかった。
宣伝だけでなく輸送や制度の島の仕事も少しづつ見せてもらって、夜の当直指令もやった。
管理局のなかで、部長、課長、係長という組織の動き方を観察したり、親しい人もできて一緒に飲みに行くことも、少なからずあったりすると、じょじょに組織のなかの人間関係も見えてくる。
いわゆる「出世ないしは保身大事」な人と、悪く言えば要領がよくない「ロマンテイストないし正義漢」たち。
課長は私の5、6年先輩の青年エリート、しかも国鉄大幹部の息子でお坊ちゃまタイプ、年上ばかりの部下たちの方が経験豊富でもあり、課長のやることに、内心反発を感じている人もいた。
しかし、その反発は、課長その人には向けられず、課長に迎合するゴマすり人間に向けられた。
といっても、当時の私が、どちらかというと反発組の人と付き合っていたから、ものの見方にはバイアスがかかっていたかもしれない。

話は変わるが、当時の私の経済状態。
手取りで、二万円弱だったと思うが、その半分近くが、管理局と寮の間にあった、つまり毎日通るガード下の居酒屋のツケで消えた。
母と同い年のママのキップがよく、国鉄職員(現場の管理者や寮の機関助士などの友人)、八百屋、古物商などが集って、飲み、語り、やがて民謡から文部省唱歌まで合唱する店。
その20年後に、店の常連が、立派なお座敷でママを囲んで同窓会をやったほどの店だった。

大いに飲んだ月も、今月はあまりこれなかったと思える月でも、だいたい一万円前後にしてくれた。
いつも金のないことを知っているママは、「明日から飯坂温泉の輸送会議に行ってくる」というと、黙って千円二千円と貸してくれた。
給料日に、居酒屋のツケを払って寮費を払うとほとんど残らない。
すぐに寮生の先輩に借金の申し込みに行って呆れられた。

辻褄はボーナスや旅費が出たときに何とかしていたのだが、恒例の見習い納めの東北管内研修旅行(北海道まで足を延ばす一週間くらい)のときには、往生した。
必要な旅費・小遣いの蓄えなどないので、寮の同期生に借金を頼むと、7人全員が自分も金がないという。
それじゃあ、とお目付け役の人事課長に給料の前払いを頼もうと思ったが、年次の近い課長が、なんだか取っつきにくくて、思い切って局長に直訴した。
当時の国鉄では管理局長は、神様みたいにあがめられていて、なおかつそのときの局長は、中学卒で上級試験資格をクリアし、志免炭鉱の閉山を成し遂げた武勇を買われて仙台の局長に抜擢された人、私の先輩課長や部長は敬遠気味の人だった。
だが、私は彼が私の母校卒業であることを知ってから、休みの日に電話して単身赴任でいる官舎に押しかけたり仙台の町を飲み歩いたり(民謡酒場など)する仲だった。

こういうわけで、同期の分も含めて一人一万で、八万円を(局長の指示で総務部長→人事課長から嫌味とともに)借りて、意気揚々と寮に帰ってみんなに報告したら、ななななんと、「よけいなことをしてくれた、お前に貸す金はなくても自分の金はある。幹部に恥をかいた、どうしてくれる」というではないか。
泣く泣く、七万円を返しに行った。

あのときは、それでも足りないと思ったのか、返金のためだったか、西宮にいる祖父のところまで借金に行ったのだ。
母にそういう窮状を知られたくなかったので、内緒だといったのにチクられて後で母から、私に心配させまいとして、可哀そうにと言われて、傷ついたなあ。

甲子園で仙台育英が優勝するのをみたり、NHKスペシャルで会津坂下駅にいたときに構内の肥飼料センターを一緒に作った川島東さんが学徒動員の思い出を語るのを見たりして、このところ晩酌に「ホヤ酢」を食ったりしていると、仙台見習いのころのことがいろいろ思い出されてくる。

とうじの管理局長は渋沢誠次という方だった。
現場の人からみると管理局長と言えば雲の上の人で、口をきくのも畏れ多いような存在だった。
その後何年も経ってJRになってからでさえ、千葉支社長(昔の管理局長)になったとき、現場の人たちと酒を飲むことが多かったが、隣に座った男から「あんたほんとに支社長だよねえ、俺は支社長と並んで酒を飲んでるなんて信じられねえ」などといわれることもあったくらいだ。

いわゆる大学の法学部を卒業して国鉄に入社した事務系エリートたちは「鉄法会」というのを作っていて、年に一度くらい集まって酒を飲んでいた(今はもうないだろう)。
そこには新人の私も参加させてもらうのだが、人事課長が前もって注意して言うのには、「局長は中学(旧制)卒で資格を取ってきた人だから、大学のことはいうな」、大学出の部長以下はなんとなく敬して遠ざけているようだった。

渋沢さんが、長野中学の卒業であることを知った私は宴席半ば局長の前に行ってお酌をしながら、私も長野高校です、といった。
「そうか!」破顔一笑、渋沢さんは何杯も、酒を注いでくれた。
日曜日は、ひとりで官舎にいるから遊びにこい、ともいってくれた。

寮にいる友人や先輩を誘ったけれど、みんな行かないという。
私は電話して一人で遊びに行った。
「おお、よく来たな、あがれあがれ、今原稿を書いているから、そこで待っていろ。ああ、そうだ本屋に行ってこれとこれを買って来てくれ、お釣りは君の好きな本を買っていいぞ」といくばくか(3000円くらいだったか)を渡してくれた。
言いつけられた本は買えたが、さあ、自分の本はどうしよう。
何も買わないで帰るのも水くさいようだし、そうかといってミステリや小説ではなんだから、、ジュリストだったか法律旬報だったか、労働法令の特集が載っているのを買って帰った。
帰ると渋沢さんは「何を買った?え、それだけか、もっと買えばよかったのに」と笑っていた。

「飯のタネ」というのが、とうじ局長が社内広報誌に連載していた記事の表題だった。
国鉄の仕事は、みんなの「飯のタネ」だと、シンプルに仕事の大切さを訴えていた。
そういう立場の人が言いがちな「国鉄再建のため」とか「国家の物流を支える」「合理化が至上命題」みたいなことを言わないのが、私には心地よかった。
出来上がった原稿を見せて、読んでみろというから、その場で読んで、そう言ったらまた嬉しそうに笑った。

それから、二人で市内の繫華街に出て、民謡酒場(めんよう酒場ときこえた)で、呑んで歌い、小さなおでん屋に流れ、もう一軒くらい歩くころは、渋沢さんは千鳥足、やや呂律もおかしくなって、肩を組んであっちへよろよろこっちへよろよろ、店の女将が失礼なことをいうので、思わず「この人は、、」と言いかけたら、すかさず肘をつついて、その先を言わせなかった。

それからもニ三度、官舎に遊びに行き、一度は東京にいる奥様がいらしてご馳走をしてくれた。
見習い期間を終えて本社に戻るとき「経理局の主計課、総裁室の秘書課が出世コース」と教えてくれたが、どちらも縁がなかったし、行きたいとも思わなかった。

結婚式の時は東京鉄道管理局の局長をされていて、披露宴に来てくださった。
披露宴の後、同期の友人たちを二次会に連れて行って下さったが、「きさくな人だね」と友人が言った。

会津坂下の人はみんな懐かしいのだけれど、今回はこの人。

筆頭助役(職名ではなくいちばん先輩の助役)の長さん。
駅員たちはちゃんと○○助役さんと呼んでいたけれど、わたしは長さんと呼んだ。
現場では、とくに管理職に対しては、きちんと職名をつけて呼ぶのが普通だったから、「わし、ちょうさんですかあ」とちょっと面食らったようだったが、そのうち、ほいきた長さんになってくれた。

最年長で、ずっと会津線にいた。
坂下から只見にむかって二つ先の会津柳津の旅館の長男?で、それがゆえに会津線を離れることを嫌い駅長試験は受けなかった。
「頭がいいし、何でも知っている」と他の助役は、少し恐れをにじませて話してくれた。
鉄道現場の知識に詳しく、運転保安関係について、現場幹部がなにより怖がる管理局の保安検査への対応などでは、彼の「指導」を大事にして準備した。
といっても、もう上に行こうという気持ちがないから、私の立場がおかしくならない程度の準備を教えて(今までの駅長の準備万端ぶりはこんなものじゃない、といいつつ)くれた。

官僚的な運輸長や管理局の指導で、理不尽なことがあると、私は「それは間違っている」という。
長さんは、「そんなこと言ったって、どこの駅でもこれに従っている、駅さんは学士だからそんなことを言える、局も本社も駅さんのように考えてくれればいいけれど」とちょっと不貞腐れることもあった。

正直なところ、私以外の助役を含めた駅員たちがおそれていたのは、少しだけ意地の悪いところもあったのではないか。
私は頼りになる親父みたいな感じで、たいていのことは相談してやった。
留置線に置いてあるタンク車からぽたぽた洩れる石油を貯めて、石油ストーブで楽に暖をとることなんかも。
コークスのストーブが決まりで、石油ストーブなんか支給してくれなかった管理局だった。
私が酔っぱらって不始末をしたときに尻ぬぐいの方法を指南してくれたのも長さんだった。

酒が好きで、しょっちゅう酒を飲む会を提案した。
出札のムネやんも酒好きで、二人とも強かった。
若宮の朝鮮人の民家でドブロクをあおって生の豚のモツを食らった。
今でも行きたいくらいうまかった。

会津坂下は特殊日勤といって、駅長は日勤だが、その後21時過ぎの最終まで駅の仕事はあって、助役が交代で当務駅長として列車扱いをする。
その後、出番だった駅員は駅に泊まって、翌朝の列車を扱い、日勤時間帯に出てくる駅長以下当務駅長たちと引継ぎをするのだ。

妻が長男のお産のために東京にいて、私が単身でいたころ、一杯やってから駅に行くことがニ三度あった。
ようすを見たいというつもりと、みんなと話したい気もあったが、長さんが最終列車のあと、酒を飲んでいると告げ口をする人がいたのだ。

私が行った時は、誰も酒を飲んでいなかった。

あるとき、長さんが「駅さん、夜になって駅に来るのは止めてくれ、みんなちゃんとやってるところに赤い顔をしてきていろいろ喋っていくのはよくない。何かあれば駅長官舎に知らせるから信用してくれ」ときっぱり言う。
それから、夜駅に行くことをやめた。
赤い顔をしていなくとも、行くのをやめた。
仕事がすべて終わってひと風呂浴びて、狭い寝室で雑魚寝する前に冷や酒の一杯や二杯、呑んだところで、何が問題だ、俺だって機関士見習いや局の指令当直見習いのときに茶碗酒を飲んだではないか。
と思ったのだ。
密かに駅に行って、彼らの飲酒現場を見つけたら、いったいどうするのか。
もしかしたら、自分も一杯(落語の禁酒番屋や二番煎じのように)付き合うことになりかねないとも。
それとも、「俺の任期の間だけは禁酒してくれ」とでもいうのか(アホか)、と。

一年過ぎて、人事異動で、千葉局に異動するとき駅員たちに挨拶をしていたら、涙がこらえられなくなって、せき挙げてしまうと、すぐに長さんも泣き出して、ほかのみんなも泣き出した。

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