サンテグジュペリの「人間の土地」でつづられる人が生きるという状況と、宮崎駿が映画を作る時の状況が僕なりの解釈ではあるが何となく似ているように思えた。
サンテクジュペリの他、郵便飛行のパイロットたちの状況、死と隣り合わせの郵便飛行、砂漠に不時着し遭難するサンテグジュペリ、アンデスに不時したギヨメの事。
映画を作っている宮崎駿は命の危険のある郵便飛行に飛び立ち、サハラに不時着しさまよう、命の危機にありながらも人間の生きること、価値のあるモノを見出していく。死の淵にこそ何かがある。宮崎駿のドキュメント(特に風立ちぬに関するもの「夢と狂気の王国」「プロフェッショナル 宮崎駿の仕事」)をみて感じた。
映画を作ること、郵便飛行に飛び立つことが何だか同じように感じた。映画を作るのは最後だと言いながら作り続ける。飛行機乗りが危険な事の先にある生きる意味をみいだしたり、極限の状態になってこそわかるものがあると知るようなモノなのかもしれません。
宮崎駿は色々なモノに影響を受けているはずです。サンテクジュペリ、半藤一利、親兄弟、児童文学、高畑勲というのは影響の一部のはずです。人というのは何かの影響をうけて生きていくのだとも感じました。サンテグジュペリが宮崎駿へ与えた影響は少なくはないと感じます。
僕の好き勝手な想像でしかありませんので、真実は分かりません。
「星の王子様」だけを読んでも分からなかった事が少し分かった気がしました。
生活の一部に料理、裁縫、野菜や花を育てるという事が根付いていた。いつから生活の一部から切り離されて趣味になったのだろうかそんな疑問がわいてきている。
社会の変化で家という文化が薄れていき、家族が離れて住むようになった。家で学べたことが外で学ぶことになってきた。生活の中から必要な事を外側に切り離して考えるようになった。
今と昔では時間の使い方が違うのかもしれません。今は時間をお金に変えて仕事をする。少し昔は時間をモノに変えていた。家庭で料理を作ったり、裁縫、小物などもそれぞれで作っていた。小物を作るのが流行していた事もあるかもしれないが、それでも何かを作るという事に時間をつかっていた。
仕事が忙しいから何かを買う、結局時間が無いという事になる。
考えてもわからない事だし、その時代の持つ雰囲気や緊張感は再現できないので比較もできない。趣味を生活の一部に取り戻すのも今の時代を生き抜く方法かもしれません。
何かを書く時に適切な言葉を選ぶのはとて難しい事である。
丁寧な言葉か乱暴な言葉で何かを伝えるのかでも印象がかわる。
翻訳された本では訳者によって言葉の選び方が違います。赤毛のアンの冒頭で「坂をだらだらとくだると」「ゆるやかに下ったところ」と表現が全く異なります。
時代ごとに流行の表現もあるかもしれませんが、言葉の選び方はとても難しいと感じる一方でとても面白いものだという事にも気が付きました。
夏への扉も翻訳によっても変わります。旧訳、新訳でも印象が違ったことをおもいだしました。
言葉というのは時代ごとにその意味が変わってくるというのも何となく感覚的にわかったような気がします。言葉の価値観もかわるんですよね。
言葉のひとつで何かを縛る鎖のようになってしまう事もあります。流行っている言葉そのものに縛られてしまうというのでしょうか。例えば「自己肯定感」という言葉も流行かもしれませんが、その言葉の意味を誰かが作って広まっただけで、本質的なモノは何かと言う事を意識する方が大切かもしれません。
人は言葉で簡単に操ることも出来るのでしょう。怖くもあり心強くもあります。
言葉をうまく使うには話をしたり、書いたりするのが大切ですね。言葉の選び方ひとつで自分自身にも影響を与えるとおもうと、日々の言葉選びを大切にしていく必要がありますね。
人を知って介護に活かすという事にはなっているけども、そうも簡単にはいかないみたいだ。
仕事上では何となくやっているようには思えるけども本当にその人の事を知る事が出来るのだろうか、表面上の事しか知らないのかもしれない。
正直、介護で携わる期間は長くはないのが現実でしょう。そこで、その人の事をどこまで知る必要があるのか、そもそもそこまで知る必要があるのかということだ。
そういう疑問は持ちながらも仕事をしているわけで、何が正しくて、正しくないのかは誰も明確な答えはなくて、色々な選択肢があってどれかを選んでいるだけ。
高齢者の介護という事にかぎれば、70年、80年、90年も生きてきた中で形成されてきたモノを知るというのは半端なことではないし、理解なんで出来そうもない。わかっても氷山の一角でしょう。とりあえず、表に見えている所がその人だと思って対応するしかなさそうである。
業界的には人を科学的に分析して介護に活かす必要がある、そうしないと早いうちに世の中回らなくなるらしい。人を知るには途方もない時間がかかる。言っている事とやっている事が相反しているのではないかとも思ってしまう。
仕事としては表面上で構わないというなんだろうね。踏み込んだ事をしたいなら、別な方法を考えてねという事かもしれません。
ただ、表面上であってもその人はその人なので、背景を観たらきりがないので、これでもいいような気もします。
人を知るジブリに関して言えば宮崎駿という人物を理解しようなんてとても難しい、沢山の映画を作っていて、ドキュメンタリーもある、本も出ているので、分かろうとすればい沢山のヒントがある。でも、実際には分からない、何となく表面上はこんな人だとわかった気になれるだけ。例える方が特殊すぎたかもしれませんが。それほど、人を知るという事は難しいことですね。
はてなブログを使っているので何とも言えないですが、proからは抜けることにした。月1000円程度で広告無しという環境だったが仕方がない。
それにしても、スマホもパソコンも広告表示のための端末になりつつある。世の中の流れなのか、便利さの代償なのか。
広告表示のための技術開発のようにも感じます。その方が世の中の経済が回るのかもしれませんが「んーー、何かが変だ」と何とも表現もできない、心の中の違和感のような、靴の中に小石があるような感覚です。
まあ、初期の状態に戻るだけの事なので特に大きな変化はないのであまり問題はないですね。
他にもやる事はあるので、日々の日記や雑記のためならproじゃなくても事足りますね。
「○○が良いからと」一部の所で認めらたりしたものが一般的に良いものとなってしまう事もあるきがします。
あとは、教育に悪いからという何とも曖昧な理由で禁止されてしまったことも沢山あるでしょう。
世間的に良いと思われて広まった事も後々に悪い結果が生じたときに「やっぱり、あれのせいだ」となっても、言い出したりやり始めた側としては非を認められず続けてしまう。そういう循環でグルグルと回っていて今の状態になっている。
大学の頃にメールや電話位しか使わなかった世代の僕としては、どちらかと言うとスマホが主流になってからはなんとなく良い流れではない気がしています。
物価が上がっているのはどうしてなのか、米、キャベツに白菜、マヨネーズなどの日用品、ハンバーグも値上げになるとのこと。
実際に野菜は収穫量が少ないからという理由で高くなる。米もそう。はたして本当なのだろうか。
外国からの観光客や労働での渡航はどうなのか、日本でお金を消費して帰っていく。外国のお金を日本円に両替して支払う、もしくはクレジットカードで支払という事になる。何だかクレジットカードでの支払いにも何かからくりはありそうだ。
海外からの就労者の増加も何か関係しているかもしれない。
日本に流通している円の量が増えた事で円の価値が下がっただけなのかもしれない。
今まで安い、安いと喜んでいた格安商品を買い続けた報いなのかもしれない。アマゾンなどの便利すぎるサービスを使いすぎたせいかもしれない。
色々な事が絡み合って、結果的に自分たちの生活を苦しくしてしまったのかもしれない。
分からない事を追及しても仕方ない事なので、疑問は疑問のままにしてそのうちその疑問が晴れる時が来るかもしれないし、知らなくてもいい事は知らないままにしておいた方が幸せかもしれない。
メアリーノートンの「床下の小人たち」が原作の作品です。物語の舞台をイギリスから現代の日本に設定を変更して物語を描いています。まあ、日本だろうという感じです。設定資料を探せば日本と出てくるかもしれないですが、映画では明確には日本とは言っていないので『日本だろう』です。
原作との違いについては様々と違うところがあるので、アニメ映画と原作の違いも楽しめます。
原作では挿絵で書かれる小人たちの生活用品も映像化されます。小人の世界というモノはこういうのか、モノの大きさ、音の響き、水の表現といった、小人の世界ならではの『こうではないか』という表現が沢山あり映像そのものを観るだけでも楽しいですね。
ポッドの工作部屋や電気ライトなどは映像化にあたってのアレンジかもしれません。想像力はすごいです。
原作ではイギリスの少し自然が多い中の話ですが、映画では都会でたまに見かける雑木林に囲まれた古いお屋敷が舞台です。人間に見られたら引っ越さなければならいという事です。原作では自然の中に出ていくという事でしたが、さて、今の日本のどこに人に見つからずに生活できるところがあるのだろうかという疑問が湧いてきます。
映画の冒頭、ラストで人間の街並みをみて『どこにアリエッティたち小人の住む場所があるのだろか』と不安をかんじました。そうやって人間は色々と排除して発展していったのかもしれないと何とも言えない感覚になりました。
登場人物の名前は同じでも原作とは全く別の時代の別の土地のアリエッティ達の物語です。世界のどこかにまだアリエッティたち小人たちは潜んでいるんでしょうかね。
世間に色々な情報が溢れすぎているので、情報の整理という事に時間を使う事になる。なので、取り入れる情報を少なくする事で記憶の整理をするための時間を使わないようにするのはどうだろうか。
人間が管理できる記憶なんてたかが知れているので、出来る範囲だけをやっていく。あれもこれもと手を広げすぎない事が良いように思える。
インターネットの情報原の数を極力減らしてみる。年間に読む本を減らしてみる。他にも色々と流入する量を減らす方法はあるかもしれない。
まあ、色々とDVDを買いあさっている身の上としては、肩身が狭くなるような考えかたですがそれがほどほどに生きて、幸せになれる方法かもしれません。
最近はDVDで映像を見る事が増えていて、Youtubeやアニメ動画の利用は減りつつあります。色々な情報を簡単に得すぎると「あれも、これも良いな」とふらふらとしてしまいます。
僕にとっては今は情報を入れすぎない方が良い時期に差し掛かっているのかもしれません。自分の持っている範囲の情報を材料や道具として使って、情報を煮詰めて、かさを減らして精錬した方が良い気がします。
8年ぶりに電車通勤の日々です。ふと電車からの風景を眺めていました。ふと、扉にも広告が張られていて「あれ?扉にも広告ってはってあったか?」と記憶を引っ張りだしましたが、いつからなのか思い出せません。
電車の中吊り広告も沢山あるし、スクリーンにも広告やら色々です。つり革にも広告を張るようになりましたね。
電車の中に広告が無ければ、外の風景ももっときれいに見えるんだろうなと感じましたね。思い切って広告のない電車にしてみたらいいんじゃないのかと、時代錯誤の事を考えてしまいます。
広告も溢れすぎはどうなのかと感じてしまいます。
介護の仕事をしているとはいいながらも、介護を受ける前の事は知らない事が多いです。介護保険上の介護を受けるという事ですね。
介護施設や訪問介護を利用してからの食事、入浴、排泄等の介護はできますが、介護以前のいわゆる「お困りごと」の状況への対応はできません。制度の事になると意外と分からない事が多いです。
そのために地域支援センターや市区町村の相談窓口があって、そこでの相談が介護を受ける前という事になります。介護を受けるまでの、その過程まで知ったうえでの介護をすべきなのです。
家族にとってはお困りごとの1つでも解消できれば、心の負担はグッと軽くなるのでしょう。費用の問題、家族の生活の問題等々一緒に考えていくことが出来るような仕事が出来るようになりたいとは思っています。
カットキャベツは離婚して以来買っていないのですが、値上げだったり、容量の減少がされているでしょう。カットキャベツ以外のモノも値上がりしています。
生活している側の実感としては、量が少なくなった、何だかちっちゃくなったよなとよくよく観察しないと分からないような事が起こっています。
それにしても、値段が上がったのか、それとも円の価値が低くなったからなのかわかりません。経済の話は分からないので詳しい事は分かりません。でも、何となくそんな感じかもしれません。
経済的や物資の豊かな時に考えられたサービスや技術というのは意外と不安定なのではないかと少し感じました。ちょっとした変化でぐらついてしまう。今が良ければという事ではない、最低限、最悪の状況を想定した運用が出来るといいですね。
介護の世界でも、自立の方がメインの施設に介護が必要な方が入れば、施設運営も崩れます、スタッフも従来の分でしか想定していないからですね。その点が経営の難しさなのだとは思います。
何かを決断する時には「大丈夫だろうか」「本当に今なのだろうか」という思いが心に残ります。
決断したからには進むことにはなりますが、何か忘れ物はないか、やり残したことが無いかはその後に少し禍根を残すかもしれません。
少しでも心のつっかえているモノがあるなら、解消すべきかもしれません。つっかえたまま次に進んでも前の事が気になるし「心残り」になってしまいます。
後悔するよりは多少の苦労で、今後のための清算はスッキリと終えられるかもしれません。
介護の経験は長いけども考え方を変えるのは難しい事です。一つの介助にしても「どうしてこんなこと」等々思う事もありました。
最近になってやっと気が付いたのですが、高齢の方は歴史そのものなんだよなという事です。昭和史や戦争の事を知ると余計にそう感じる事もあります。
特に90歳、100歳を超えていれば時代を生き抜いてきた、歴史上の人物のような存在かもしれません。確かに教科書に載っているとか、すごい事をしてきたという世間に知れ渡るような事も無いですし、裏では非道な事があったかもしれません。
ただ、こういう歴史的な人達と関わる事が出来るというように、考え方を変えてみると面白いかもしれません。
100歳を超えた方のトイレ介助をするのなんて、人生の内であるかないかの貴重な経験でもありますし。
90歳を超えて、戦争も経験してどうしてそんなに笑顔でいられるのかという尊敬の念まであります、そんな事実に気が付いたときに「ゾワッとする」感覚にもなりました。
誰が言い出したのわかりませんが、仕事とプライベートは分けるのことという事がきかれます。
僕の場合は何だか仕事とプライベートが癒着していて切り離すことは出来ないものなんじゃないかと感じてはいます。
どうしても、何となく仕事につなげてしまったり、仕事で感じた事を生活に取り入れてみたりと、完全には切り離せないモノではあります。
プライベートの中に仕事があって、その中でどれくらいの割合を占めているのかという事かもしれません。
日々の生活の中に仕事があって、仕事があるから日々の生活が成り立っていてと循環しているようにも思います。
今の世の中は楽しみというモノがあふれていて、何だかよくわからなくなっています。エンターテイメントはあふれていて楽しそうな世の中ですが、何だか生きずらもあふれているかもしれません。「あれもしたいけどお金が足りない、だから生きずらい」こういう事もあるかもしれません。
色々なことに惑わされすぎず、上手く利用して生活をして仕事をしていくことが生きずらさから抜け出すためには必要かもしれません。
今の技術的な進歩は抗えない事なのでどうしようもないです、今の価値観では良い事に見えても、少し経ったら良くなかった事に変わってしまう事も多々あるとおもいます。見極めて、考えて、選択して、それでも仕事をして生活をして・・・たしかに「めんどくさくて、生きずらい」ですね。それが人間ですかね。
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