長年続けたバレエの道を抜け出し、美術を学び始めて8年。大学院を出て、アーティストとして活動するようになって2年。やりたい放題生きてきて、気づけば27歳になっていた。
正直まだ全然若いと思っていたが、近頃時間の流れるスピードがどんどん早くなっている。朝から活動していても何度か瞬きをすれば夜になっているし、1年前の出来事でさえ昨日のことのように感じる。子どもの頃によく「年を取ると全部があっというまだよ」と周りの大人たちから言われていたが、そのことをすでに理解できてしまうのが恐ろしい。これからもっと早くなっていくのだろうか……。
迫り来る「大人」の自分に抗うように、私は生まれ育った街「西葛西」へ久しぶりに出向いてみることにした。私がこの街で過ごしたのは、3歳から15歳の12年間ほど。あの頃の時間の流れ方は、夏休みを3年くらいに感じるほどゆっくりだった。
当時、私の世界は「家」「学校」「よく遊ぶ公園」「バレエスクール」くらいに場面が分かれた小さな舞台で、まるでお遊戯会のようだった。世の中がこんなに広くてめちゃくちゃだなんて知らなかったし、その小さな舞台上で起こるちょっとした出来事が物語の全てだった。ここで起きた全てのことが今の私をモデリングしたと言っても過言ではない。
西葛西駅の北口を降りると、予想より変わらない風景が広がっていた。ここに来るのは10年ぶりくらいだけれど、見覚えのある店、通勤で行き交う人たち、ちょっと古ぼけた高架下の雰囲気、何も変わっていない。
ロータリー沿いを少し歩くと、私が幼い頃初めて"彫刻"と認識した像が目に入る。大人になって彫刻を学んで、こういう像について深く考えることになるとは当時想像もしていなかった。このような裸婦像は74年ほど前、三宅坂小公園の元々軍閥の銅像があった場所に建てられた《平和の群像》を皮切りに日本の公共空間に乱立するようになった。おそらくこの像もその中の1つだろう。
藝大に入って最初に出された課題も裸婦を作るというものだった。正直かなり前時代的だと思う。色々考えながら像を観察していたら、この像が裸じゃないことに気がついた。新体操選手だったようだ。
西葛西はちょっぴりヤンチャな街なので、ときどきこの像がサングラスをかけていたり花を持たされたりしているのを見た記憶がある。ある意味愛されているのだろう。とにかく何十年も当たり前のようにそこにいる街の一部だ。
誰もこの像の背景を想像したりなんかしない。私は子どもの頃に「退屈だな」と思っていたタイプの大人になってきてしまっているのかもしれない。
しばらく駅の周りを歩いていると、公園が見えてくる。
駅から1番近いこの公園は「怪獣公園」と呼ばれていて、幼稚園に入る前からよく遊んでいた場所だ。怪獣の遊具があって、体の中をよじ登ると口からひょっこり顔を出すことができる。ひんやりしたツルツルの石に囲まれた石碑コーナーのような場所が私のお気に入りでよく登っていた。
ここは昔より整備されていて、公園の入り口にはお店のようなものが建っているし、小さい切り株だらけだった地面はフラットになっている。
母は私をたくましい人間に育てたかったようで、よく裸足で土の上を走り回らせていた。切り株につまずいてそこそこの怪我をし、包帯ぐるぐる巻きになったこともあったけれど、足の裏で土を踏んで育ったおかげで今でも自然と陶器作品を作っているのかもしれない。
怪獣公園の石碑コーナーで遊ぶ幼少期の中田
西葛西駅前を後にした私は、小学校時代を過ごした北葛西方面へと向かった。団地が建ち並ぶ広い道を抜けると「サニーモール」や「イオン」など、年季の入った味のあるショッピングモールが出迎えてくれる。信号の仕組みによってスクランブル化してしまうちょっと危ない交差点があり、いつもお巡りさんが立っている。
私が住んでいたのはこの辺りのエリアだった。思い出フィルターがかかっているのかもしれないけれど、北葛西は暖色系の空気をまとっている。非常に光が綺麗な場所なのだ。
この北葛西の街は私にとって家より安全な場所だった。
家が危険な場所だと言うのは心苦しい。もちろん両親にはとても大切にされていたし、楽しい時間のほうがよっぽど多かったのでそういう意味では良い家だったが、問題はそこではない。
と言うのも、私が住んでいた家は昔から不思議な現象が起こる「ホラーハウス」で、見えない何かにいつも怯えていた。ベランダにビニールプールを出して遊んでいると水面に老婆の顔が写った心霊写真が撮れたり、夜中にお風呂場のおもちゃが勝手に鳴り出したり(鳴き方が笑い声のおもちゃだったので大変怖かった)、そういうことが日常茶飯事だった。
弟が生まれる前、両親と和室で川の字になって寝ていると、急に何かに足を掴まれ引っ張られたことがある。隣で眠る母に助けを求めた記憶が鮮明に残っている。数えきれないほどそんな体験があり、今でも弟とその頃の話をするくらい、脳裏にこびりついた恐怖なのだ。
新築だったにもかかわらず、湿気や結露がすごくていつもジメジメしていた。お寺の方に場所を伝えると「霊道だから知っている人は絶対住まない」と言われた。特に廊下が異常に怖くて、ものすごい人の気配がする。
物心ついた頃には住んでいた家なので「廊下ってどこでも怖いものなんだ」と認識していたが、それが引越し先で覆されたときはかなり驚いた。廊下が暗くても全く怖くない。ここには何も居ないのだ。そういう、掴みきれないものを感じ続けた幼少期の体験は、今の制作に大きく影響を与えている。
話が逸れてしまったが、その家との対比もあってか北葛西が暖色オーラの安全な町として感じられるのだ。
小学生の頃は、学校から近い2つの公園でよく遊んでいた。1つめが「行船公園」、2つめが「宇喜田中央公園」である。学校が終わると大体「行船と中央どっち行く?」という会話が展開され、みんな散り散りに遊びに行く。
1つめの行船公園はとても要素の多い公園で、隣接された「バナナ球場(通称)」もよく遊び場になっていた。流星群のニュースを見て、友達と「星を眺めに行こう」とバナ球の真ん中に寝転がる夜もあった。公園内に入ると大きな池がいくつかあり、中央にある浮きを触ろうとして盛大に落ちた男子を思い出す。
この公園のすごいところは、源心庵という立派な日本庭園があったり、無料の小さな動物園が入っていたりするところだ。上野恩賜公園をミニマムにした感じと言えばイメージしやすいだろうか。当時は気づかなかったが、今見ると本当に豊かな場所である。
源心庵ではよく鯉にエサをあげたり飛び石の隙間にタコ糸でスルメを垂らしてザリガニを釣ったりした。小さい滝のような場所があって、そこによじ登ったり飛び降りたりもしていた。小学生が小学生らしく過ごすことができる公園だった。
無料の動物園も魅力的で、ウサギやモルモットと触れ合うことができたり、たしかプレーリードッグやワラビーなんかも飼育されたりしていたと思う。名物は九官鳥の「九ちゃん」でたくさんおしゃべりしてくれる愉快なやつだったが、流石にもう居ないだろうか……。到着時は既に閉園の時間帯で、残念ながら確認することはできなかった。
この公園では夏になると「金魚まつり」という夏祭りが開催されたり、春はお花見ができたり、色んな人々の四季の思い出が詰まっている。
トレードマークは大きなすべり台。小さい頃は滑るのが怖かったけれど、だんだん楽しく遊べるようになって、しまいにはみんなでDSのゲームをやるための溜まり場になった。とにかく全世代が楽しめる素晴らしい公園だ。
2つめの宇喜田中央公園は、行船公園を出て小学校の前を通り過ぎ、古い文房具屋さんを越えた先にある。
小学校の前の道を通れば、給食の時に頻繁に流れていた歌「コンピューターおばあちゃん」を今でも鮮明に思い出せる。同世代に聞いてもあまりこの歌を知っている人がおらず、わかる人を見つけるとなぜかうれしい気持ちになるのだが、ご存じだろうか?
その歌しかり、保健や家庭科の時間に見たビデオしかり、私はヴェイパーウェイブな雰囲気のコンテンツが大好きだ。私の映像作品も、実はそれに影響されている瞬間が多々ある。
中央公園にたどり着くと、遊具の上で遊戯王やDSをやっていた子たちやブランコで勢いをつけてジャンプする遊びを思い出した。あの頃と言ったら、外でもゲームをするか危ないことをするかのどちらかだったように思う。
公園の真ん中には、夏の間、定期的に水が放出されて小川のようになる場所がある。その時期になるとたくさんの子どもたちがそれを目当てに集まっていた。こういう街の中にあるインスタント人工自然みたいなものは面白いなと思う。手づくり情緒の舞台装置だ。
ちなみにこの公園には個人的に悲しい思い出がある。とある仲良しの女の子と「タイムカプセルを埋めよう」という話になって、2人でそれぞれ手紙を書いて持ち寄り瓶に詰めた。
それを埋めようとしたけれど土がすごく硬くて、頑張っても半分くらいしか埋まらなかったのだ。翌日心配で見に行ってみると、やっぱり誰かに掘り起こされて無くなっていた。
ただそうやって瓶の中に思い出を詰めるだとか、ハンカチにコロンを一吹きして持ち歩くおまじないだとか、何かを凝縮させた特別みたいなものが大好きだった。タイムカプセルはどこに行ったのかわからないが、そういう自分を今掘り起こしたような気がしてちょっとうれしい。
宇喜田中央公園をあとにして、もう一度危ない交差点に戻る。ここは葛西橋通りという大きな通りで、たくさんの車が行き交っている。葛西橋通りにはバス停がいくつかあって、小2くらいになるとそこからバスに乗って1人でバレエ教室に通うようになった。
葛西橋通りを橋に向かってどんどん進んでいく。
この辺りには昔、祖父母が住んでいて、母に怒られたりするとよく祖父母宅へ逃げ込んでいた。バレエの帰りにもこの近くのバス停で降りて、祖父母に会いに行ったのを思い出す。祖母はものづくりが大好きな人で、私によく水彩画や編み物を教えてくれた。間違いなく祖母の面影は私のものづくりの原風景だ。
まもなく大きな葛西橋が見えてくる。
ここでふと気づいたのは、葛西橋を渡った先が全くの未知であるということだ。大人になった今でこそ、はっきり意志をもって電車やタクシーを使いあちこちに移動するようになったけれど、当時はここから言われるがままのバスに乗り、突然バレエスクールにワープしているような感覚だった。
振り返れば、子どもの私が足で移動できた範囲でしかこの街を知らない。学校や遊び場、塾や習い事の教室を線で結んだその中でしかワールドが展開されていないのだ。小さな舞台上に街というハリボテで囲まれた場面がいくつもあるようだ。長くて濃い時間を過ごしたはずなのに、そのハリボテの外は霞がかって全く見えない。これは幼少期を過ごした街でしか感じられないことなのかもしれない。
私はそのまま葛西橋に登っていった。
実は小6の卒業間際にも、冒険のような気持ちでここを登ったことがある。他のみんなが地元の中学に進む選択をするなか、中学受験をして私立に行く同士で仲が良かった男女4人グループがあった。メンバーの中に当時好きだった男の子もいて、なんとなく甘酸っぱい思い出だ。
6年間通い詰めた公園や児童館で遊ぶのに飽きていた私たちは、ふと橋のほうに行ってみようということになった。高速道路のようなスピードで車が行き交う橋の上を4人で自転車に乗って走る。橋の真ん中あたりにコンクリート造りのフラットな河川敷があり、そこで何気ない時間を過ごす。
夕方になるまでそこにいて、今日と同じような虹色の空を見て感動したのをよく憶えている。
当時の私にとっては初めての大冒険で、小さなワールドをちょっと広げる一大事。それでもまだ怖くて橋の向こうまでは行けないまま、私は小学校を卒業した。
当時のように夕日が沈んでゆくのを見ながら河川敷をゆっくり歩いてみる。あの頃は、毎日空が違う表情である事にちゃんと心を動かされていた。ここは当たり前になってしまったことを新鮮に見ることができる場所だ。頭上の大きな道路は、子どもと大人を分ける門のようにも思える。ここを境に私の街は途切れている。
今なら怖いものも無いので、橋の向こう側まで渡ってみようかとも考えた。だけど、私の小さなワールドはこのサイズのままで大切にしまうのが良い気がした。
大人になるのが辛いとよく思う。時間が経つのは早いし、責任は増えるし、知りたくもない色んなことを理解してしまい疲れる。カービング作業のように削り取りながら大人の自分を作っている感覚だ。時には削りすぎて自力では戻せなくなる。
そんな時、自分をゼロからモデリングしてくれたこの街にまた来たい。今日のようにゆっくり歩いて、元の形を思い出したい。子どもの頃の自分なんて盛り過ぎだったりどこか偏っていたりするけれど、それを知れば今の自分を良い形に削り出せるかもしれない。
そんなことをぼんやり考えながら、暗くなるまでそこにいた。
なんていい街なんだろう。
著者:中田愛美里
1997年生まれ。東京都出身。東京藝術大学美術研究科彫刻専攻修了後、アーティストとして活動している。プロのバレリーナを目指し舞台上で役を演じる経験をもとに、セラミック、CG/映像を用いた作品を制作。日常生活から感じられる演劇的な要素を、バレエや演劇の演目、童話などをベースとした物語に落とし込む。空洞なセラミックと役の入れ物としての空虚な人間たちを重ね合わせ、ひとの在り方を模索する。
Instagram:@__emilcake__
HP:emirinakada.com
展示情報
個展「a piece of cake」(三越コンテンポラリーギャラリー)
会期:2025年5月21日〜2025年6月2日
編集:岡本尚之
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