東京に住みたいと思ったのは、高校二年生の春休みにザ・ローリング・ストーンズの来日公演観たさに単身東京を訪れたのがきっかけだった。限られた時間の中で出来るだけいろんな街を巡って分かったのは「東京には天神みたいな街がたくさんあるんやな」ということだった。
それもみんな同じような“都会の街”ではなく、それぞれの街にそれぞれの色があり、福岡の「友だちと遊ぶのもデートするのもとにかく天神」という世界とはまるで違って見えた(あくまでコンプレックスを抱えた浅薄な高校生当時の私見です)。
好きなバンドの来日公演は組まれないし、レコード屋だって東京にはディスクユニオンだけで何店舗もあるし、気になる映画の多くは東京でしかやってなくて、たまに「シネテリエ天神」や「シネ・リーブル博多」あたりでかかるのを有り難がる……という現状がなんだか虚しくなってしまった。
福岡出身の父親がかつて大学進学を機に上京し、二十代を東京で過ごしていたというのも大きかった。子どもの頃から「大学生活というのは都会で過ごすものなのだ」という認識がぼんやりと頭の片隅にあって、ストーンズの来日公演でいよいよそれを現実にしたくてたまらなくなったのだと思う。
そういうわけで両親に東京の大学に進学したい旨を伝え、甲本ヒロトが在学していた(そしてすぐ退学した)という理由だけで名前を知った大学の入学試験に合格し、晴れて東京の人になることが決まった。“多摩キャンパス”がどこにあるのかも知らずに。
下宿先は入学手続きで行った事務所の壁に貼ってあった新入生向けの物件情報で決めた。八王子駅北口から徒歩十五分、六畳一間で築二十年くらいのアパート。家賃は四万円台だったと思う。記憶にないが、下見くらいはしたんだろうか。
今思えばもう少し駅に近くて便利な物件もあったのかなと思うけれど、大家さんがとても面倒見の良い人だったし、インターネットもケーブルテレビもタダだったので結局四年間住み続けた。駅とは逆方向に少し歩くと多摩川の支流である浅川という川が流れていて、ヒマな日は缶ビール片手にiPodでThe ピーズとか聴きながら川沿いの道を延々歩いた。
川沿いの道を十分ほど歩いた先に「ビデオマーケット」という大きなレンタルビデオ屋があった。当時ばかりか今でもDVD化されていないような古い映画のVHSもたくさん並んでいて、ほとんど常に配られている割引券を使うと一本百円くらいの安値で借りることができたので、よく利用したものだ。誰にも課せられてないノルマを消化するかのように毎週何本も映画を観ていた。
そのほかにも、駅の近くに今もある「佐藤書房」という古本屋は当時はマンガの在庫が充実していたのが有り難く、永島慎二や吾妻ひでおなんかの作品を安価で手に入れることができたから、何冊かまとめ買いしては近くのミスタードーナツでおかわり自由のコーヒーをがぶがぶ飲みながら読みふけっていた。
お金が無かったので、近所にこういったお店があったことはとても有り難かった。基本的に親からの仕送りで生活し、どうしてもお金が足りなくなったら仕送りで買い集めた中古CDをディスクユニオンに数百枚単位で売り払ってまとまったお金に換えていた。
上京してすぐに長期のアルバイトを始めなかったのは、当時読んだポール・オースターの小説『ムーンパレス』の序盤で、主人公マーコ・スタンリー・フォッグが伯父の遺した大量の蔵書を少しずつ売り払いながら食いつなぐ退廃的で自堕落な生活に影響されたからだ。というのはもちろん嘘で、入学して間もない頃に面接を受けた某大手アパレルチェーン店の選考(すでに同じ店で働いていた同期の子には「あんなの誰でも受かるよ」と言われていた)にあっさり落ちて、それだけで世界に拒絶されたような気分になって完全にやる気を失くしたからだった。
親の脛を齧り倒し、典型的なダメ大学生をやらせてもらっていた。のちにアルバイトこそ始めたものの授業はよくサボり、単位をあれよあれよと落としまくった。そのくせ代わりに何か生産的なことに精を出すわけでもなく、バンドサークルに入り浸り、ただただよく言われるところの人生の夏休み、モラトリアムというやつを全身で謳歌していた。あんなに時間があったら何でも出来たのにと思い返すことがあるけれど、今の自分がもう一度当時に戻って大学生活をやり直したとしても結局同じように時間を過ごしてしまうのは間違いない。
とにかく八王子は福岡のベッドタウンで生まれ育ったぼくにとっては紛れもなく都会で、かつとても暮らしやすい街だった。“八王子=田舎”という都民の皆様の揶揄、もしくは八王子出身者による自虐にもなんとなく話を合わせていたけれど、実際のところあまりピンと来ていなかった。
「人もいっぱいおるし、店とかなんでもあるし、めちゃくちゃ便利やん」と思っていた。確かに渋谷や新宿といった誰でも知ってる有名な街に出るのには大体一時間近くかかるけれど、別にそこまで行かなくても近くに福生とか国分寺とか歩いていて面白い街はいくらでもあった。
それに人が住む場所というのは都会からこれくらい離れているのが当たり前だと思っていた。あくまで地理的なことだけで言えば、あんなにも都会の生活を切り取って歌うのが上手いユーミンだってこの街で生まれたのだ。
そういうわけで八王子には初めから愛着を持っていた。中央線沿線というのもポイントだった。それはぼくの好きなミュージシャンたちが中央線の街を舞台にした歌をたくさん歌っていたからで、それらの歌を通じて勝手に親しみを持っていた。
というか、東京で若者が住むのは中央線沿いに決まっているとすら思っていたかもしれない。ただ住み始めてしばらく経った頃にはさすがに友部正人や忌野清志郎や真島昌利が歌っている中央線もしくは西東京というのは、自分が住んでいる八王子とは少し違うものなのかもしれないという疑念も湧いてきつつあった。
そんな八王子にも自分が好きな文化の匂いを感じるお店をいくつか発見することができた。中でも特に印象深いのが西八王子にある「アルカディア」というロックカフェだ。バンドサークルの後輩がアルバイトを始めたことをきっかけに訪れるようになったそのカフェ兼バーは1978年から続く老舗で、スワンプ・ロックやトラッド・フォークなどのレコードを聴かせるお店だった。
マスターの高木さんは興が乗るとぼくみたいな若造相手にも、いろんな音楽や映画などの話をしてくれて楽しい人だったし、もともと織物工場だった建物を改装した広々とした店内は歴史を感じさせる佇まいで、お酒だけじゃなくて料理もとても美味しかった。前述の通り、とにかくお金がなかったので、在学中はそこまで頻繁には通えなかったのが残念だったけれど。
高木さんは2021年に亡くなられてしまった。あの独特の語り口を思い出すとさみしくなる。お店は当時のスタッフの方が後を継いで、今も続いている。
今回、せっかく八王子について振り返る機会をいただいたので、久しぶりに八王子を訪れてみた。電車を乗り継いで向かう道中では、今はもう無くなってしまった思い出の店ばかりを思い浮かべていた。ちっとも九州感のない謎のラーメンを提供していた「九州らーめん 桜島」、ラーメンに餃子に半ライスにキムチまで付いて600円だった「とん八」、近隣に唯一あった「ヨネザワ商会」という中古レコード屋など。
でもいざ八王子に降り立ってあちこち歩いてみると、今もなお続く馴染みのお店だけでなく、当時は無かったであろう面白そうな場所がいくつも目に付いた。つい思い出ばかりなぞってしまいたくなるけれど、次に訪れるときは新しいお店も開拓したい。
東京に出てきた時の年齢と、それから過ごした年月とがちょうど同じくらいになった。八王子には大学四年生まで住んで、そのあとは徐々に東の方に移り住んでいき、うっかり一年半ほど埼玉に飛び出した以外はどこかしら東京の街で暮らし続けている。東京のほぼ端っこである八王子は、ぼくにとっては東京への入り口みたいなものだった。東京の暮らしはやっぱり楽しくて全然飽きることがないし、諸々の事情が許すならこのまま死ぬまで東京に住み続けたい。
著者:武内庶民
昭和63年生まれ。福岡県出身。大塚在住。会社員。Webメディアの広告企画、営業。二児の父。時折DJ行為に勤しむ。不定期でIdentity Paradeというパーティーをやっています。
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編集:岡本尚之
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