くるまの中夕光熱く打ちかかりくるしき膝もて汝に順ふ
『百乳文』森岡貞香
※引用元は正字使用
運転手以外として乗用車に乗っているとき、二重に窮屈であるのは、車内では自由に身動きがとれないことと、自分では行き先を決められないからだろう。もう少しゆとりのある設計にしてくれても、と無邪気に思うのだけれど、特に膝が前方につかえて窮屈であることが多い。本来は、野山であれ街中であれ自在に行き来できるための足が、苦しく狭い場所に閉じ込められている。それも、運転手のために、苦しみを背負って見せているかのように見えるが、「くるしき膝もて」という表現が微妙に屈折している。〈膝が苦しいんだけど、けれどもあなたに従う〉という瞬時に悟られるはずの意味合いは、言葉のうえでは微妙に崩されている。単語を注意してひとつずつ追うとすれば〈(端から)苦しい膝でもって、あなたに従う〉というほうが近しいだろうか。それを使いこなせばどこへでも歩いて行けるという意味で、両ひざは自由で楽しいパーツである。しかしながら、その自由さ、楽しさにはどことない苦しみのようなものが、初めから埋め込まれている。何かを埋め込むにふさわしいようなお皿の円い形もそうだし、人体に近いものとして球体関節人形を思い浮かべれば、とりわけ可動域として肩や足の付け根とともに膝が動くようになっている、まるで、動くというより、動かされるためにあるような部位である。
ところでこの歌には人の身体があり、目的地があり、そこへ移動するための「くるま」がある。この中では「くるま」が際立って人工物として描かれているように思いがちだけれど。いっぽう車窓越しに、この人の身体は「夕光」に熱く照らされている。光というよりも、明らかに水のような質感をもつ自然の影響を受けて、車内はまぶしさに満ち、同じように「くるま」自体も、隅々まで光に浸されている。このとき、「汝」と呼びかけられるものは、本当はどこのだれなのだろう。車の中にどんな人が何人乗っているのか、この車がどんな形をしているのかはわからないけれど、あまねく照らされながら、人工物も自然物もなくどこかすべてが滲み出し均質化していくような風景に見える。膝に埋め込まれた苦しみは、物理的な苦しさや痛みを離れて観念的なものに近づいていくようである。自動車はときおり身体性の文脈で語られることがあるけれど、あるいはこのようにも、つまり主観性と離れた地点から、人間の身体と繋がっていくことがあるのだと感じた。身体性、というと限りなく一人称的な感性であるのだと思っていたけれど。いっけん内側にしかない苦しみは少し離れた場所からとらえることもできて、これにより、自分の身体やかけがえのなさをより深く知ることもできるのかもしれない。



