
「わかっているんだよ」
そんな言葉を、自分に何度投げかけてきただろう。
これをやればいい。
前に進むべきだ。
過去に囚われても仕方がない。
頭では、何度も理解している。
けれど――
心はまるで、置き去りにされたまま動かない。
人からのアドバイスを聞いても、
本や記事を読んで知識を得ても、
「その通りだ」と思えるのに、
なぜか実際の自分は変わらない。
「行動すれば楽になるのに」
「考え方を変えれば解放されるのに」
そんな言葉を、もう耳が痛いほど聞いてきた。
それでも動けない自分を前にすると、
どうしても罪悪感に押し潰されてしまう。
まるで、頭と心の間に深い谷があるようだ。
理屈は理解している。
論理も、正解も、方法も分かっている。
でも心は、恐怖や不安や、過去の痛みや、
言葉にならない重みで立ち止まっている。
その谷を越えられずに、
ずっと同じ場所で足踏みしている。
「わかってるのにできない」
この状態にいるとき、
私たちはよく自分を責めてしまう。
怠けているんじゃないか。
意志が弱いんじゃないか。
努力が足りないんじゃないか。
でも、違う。
それは怠惰でも弱さでもなく、
“心の速度”と“頭の速度”が違うだけなんだ。
頭は速い。
情報を理解するのも、言葉を飲み込むのも、
未来を想像するのも、あっという間にできる。
けれど心は遅い。
一つの痛みを消化するのに、
一つの感情を整理するのに、
とても長い時間を必要とする。
だから私たちは、
頭では次のステップに行けるのに、
心がまだ前の場所で震えていることに気づく。
頭は「大丈夫だ」と言う。
でも心は「怖い」と泣いている。
頭は「忘れよう」と言う。
でも心は「まだ痛い」と叫んでいる。
頭は「進もう」と言う。
でも心は「置いていかないで」と必死にしがみついている。
その矛盾に苦しむのは、
きっとあなただけじゃない。
私も、何度もその場所に立ち尽くした。
たとえば、失恋のあと。
「新しい出会いがあるよ」
「時間が癒してくれるよ」
そんな言葉は、頭では分かっていた。
でも心は、あの人の笑顔や声に
まだ縛られていて離れられなかった。
たとえば、過去のトラウマを抱えたとき。
「過去は過去だ」
「もう終わったことだ」
その言葉を理解していても、
心はふとした瞬間に、
過去の映像を呼び覚まして震えていた。
たとえば、挑戦の前に立ったとき。
「失敗してもいい」
「やらなきゃ始まらない」
頭ではその通りだと分かっていた。
でも心は、笑われることや傷つくことを恐れて
どうしても動けなかった。
そういうときに必要なのは、
自分を責めることではなく、
“心の速度を認めること”なんだと思う。
心は頭よりも遅い。
だから待ってあげることが大切なんだ。
焦る必要はない。
人から「理解できてるなら変わりなよ」と言われても、
「なんでそんなに動けないの」と責められても、
心には心のペースがある。
その声に耳をふさいでしまってもいい。
大事なのは、
「今の自分はまだ怖がっている」と正直に受け止めること。
私はあるときから、
頭と心を“別の存在”として扱うようになった。
頭は優秀なナビゲーションシステム。
でも、実際に歩くのは心。
頭がいくら地図を示しても、
心の足が進まなければ動けない。
だから「なんで進まないんだ」と叱るより、
「まだ怖いんだね」と声をかけるようにした。
すると、不思議なことに、
少しずつ心が柔らかくなってきた。
急がされると固まってしまう心も、
待ってもらえると安心して動き出す。
それはほんの小さな変化だったけれど、
やがて確かな一歩につながった。
頭と心がバラバラのままでは、
人生は前に進みにくい。
けれど、どちらかを無理に引っ張る必要はない。
頭は頭の速度で。
心は心の速度で。
その違いを認めることができたとき、
ようやく“両方が同じ方向を向ける”気がする。
あなたも、いまそんな場所に立っているだろうか。
「わかってるのに動けない」
「理解してるのに心がついてこない」
もしそうなら、
どうか自分を責めないでほしい。
それは甘えじゃない。
弱さでもない。
ただ、心が時間を必要としているだけなんだ。
人生には、
「頭の理解」よりも「心の実感」が必要なときがある。
その順序を逆にしないで。
心が納得できるまで、歩幅を合わせてあげてほしい。
今はまだ進めなくてもいい。
でも、いつか必ず心は動き出す。
そのときを信じて、今は待つ。
それもまた、立派な一歩なんだ。
どうか自分を急かさないで。
どうか心の声を無視しないで。
理解しているのに動けない自分を、
そのまま受け止めてあげてほしい。
それがきっと、
未来に向かう一番確かな準備になるから。

ずっと誰かの顔色を見て生きてきた。
怒らせないように。
嫌われないように。
見捨てられないように。
そうやって、知らない間に自分の人生は
誰かの支配の下に置かれていた。
本当にやりたかったことよりも、
「やらなきゃいけないこと」を優先した。
言いたいことがあっても、
「言わない方が安全だ」と自分に言い聞かせた。
いつの間にか、
自分の心よりも、相手の感情が優先されていた。
そんな日々を繰り返すうちに、
自分が何を好きなのか、何をしたいのか、
分からなくなっていった。
「支配されている」と自覚するのにも時間がかかった。
なぜなら、その支配はあまりにも日常に溶け込んでいて、
それが“普通”だと思い込んでしまっていたから。
子どもの頃から、親の期待に縛られてきた人もいるだろう。
「いい子でいなさい」
「勉強さえできれば認めてあげる」
「私たちの言う通りにしていれば間違いない」
その言葉を、信じるしかなかった。
従わなければ愛されないと感じたから。
恋人や配偶者に支配されてきた人もいるだろう。
「お前は俺がいないとダメなんだ」
「君のためを思って言ってるんだよ」
「俺が正しい、君は間違っている」
そんな言葉の下で、選択する自由を奪われた。
愛と支配を混同してしまい、
「これが普通の関係なんだ」と思い込んだ。
職場で、学校で、友人関係で。
いつだって「相手の望む自分」を演じてきた。
逆らえば壊れる関係。
反発すれば切られる絆。
そうならないために、従順なふりをし続けてきた。
でも――
本当はずっと、心の奥で叫んでいた。
「私は私として生きたい」
「もう誰かの望む役を演じるのは疲れた」
「支配なんかいらない、自分で決めたい」
その声を、必死に押し殺してきただけだった。
支配されて生きることの恐ろしさは、
“自分の人生が自分のものじゃなくなる”こと。
気づけば、他人の選択に従うことが習慣になり、
「私は何がしたいの?」と問われても答えられない。
それがどれだけ苦しいことか、
経験した人にしか分からないだろう。
私もそうだった。
自分で決めたはずのことが、
本当は「誰かに言われたから」だった。
嬉しいはずなのに嬉しくない。
悲しいはずなのに涙が出ない。
自分の感情すら、誰かの価値基準に委ねてしまっていた。
けれど、あるときふと気づいたんだ。
「このままじゃ、私の人生は誰かのもののまま終わってしまう」
その瞬間、
初めて“取り戻したい”と思った。
“奪われた人生を返してほしい”と心から思った。
取り戻すことは簡単じゃない。
長い間、支配されることに慣れてしまった心は、
自由を怖がるから。
「自分で決めてもいいんだ」と頭で分かっていても、
すぐに「でも間違えたらどうしよう」と怯えてしまう。
支配から抜け出す第一歩は、
“怯えている自分を認めること”だった。
私は少しずつ、小さな選択から始めた。
今日食べたいものを、誰かの意見じゃなく自分で決める。
行きたい場所を、自分の直感で選んでみる。
嫌だと思ったら「嫌だ」と言ってみる。
そんな小さな積み重ねが、
「私は私の人生を選んでいいんだ」という感覚を
少しずつ取り戻してくれた。
もちろん、怖い。
支配に従っていれば、傷つくことは少なかった。
自分で選ぶということは、
失敗の責任も、自分で背負うということだから。
でも、支配されているままでは、
失敗すら“自分のもの”じゃなかった。
他人のせいにして生きることが、
どれほど虚しいかに気づいたんだ。
あなたはどうだろう。
今、誰かの支配の下で生きていないだろうか。
自由に見えて、実は心を縛られてはいないだろうか。
「本当はこうしたいのに」と思いながら、
相手に合わせていないだろうか。
もしそうなら――
どうか、その感覚を誤魔化さないでほしい。
人生を取り戻すことは、遅くない。
どんなに長い間、誰かに支配されてきても、
今から選び直すことはできる。
それは勇気がいることだし、
孤独を伴うこともある。
けれど、そこでようやく“自分”に会える。
支配される前の、自分の声を思い出せる。
私はまだ、完全に自由を手にしたわけじゃない。
いまも時々、古い習慣に戻ってしまう。
でも、確かに感じるんだ。
小さな選択を積み重ねるたびに、
自分の心が少しずつ、解放されていくのを。
あなたも、取り戻していい。
誰かに支配されてきた過去があっても、
それであなたの人生が決まるわけじゃない。
「私は私として生きたい」
その願いを持った瞬間から、
取り戻す旅は始まっている。
たとえ小さな一歩でも、
その一歩は確かに未来へつながっている。
もう、自分の人生を他人のものにしなくていい。
あなたの人生は、あなたのものだから。

最近、自分の感情が分からなくなることが増えた。
泣きたいのか、笑いたいのか、怒っているのか、寂しいのか。
頭では「私はこう感じているはず」と思うのに、
心がついてこない。
まるで自分自身から切り離されて、
自分という人間のリモコンをどこかに落としてしまったような感覚。
昔は、もっとシンプルだった。
楽しいことがあれば声を出して笑ったし、
悔しいときは思い切り泣いたし、
不安なときは「怖い」と言えた。
でも、大人になるにつれて、
「感情をそのまま出すと嫌われるかもしれない」
「周りに迷惑をかけないようにしないと」
「空気を壊さないためには我慢しなきゃ」
そんなふうに抑え込むことが当たり前になっていった。
「大丈夫?」と聞かれると、条件反射みたいに「大丈夫」と答える。
本当は全然大丈夫じゃないのに。
「嬉しい?」と聞かれると、とりあえず笑顔を作る。
心の奥では喜びを感じていないのに。
「悲しい?」と聞かれると、「まあ別に」と言ってしまう。
泣いたら弱いと思われる気がして。
こうして、少しずつ。
少しずつ、自分の本当の気持ちを見失っていった。
気づいたときには、もう自分の感情の声が聞こえなくなっていた。
あなたはどうだろう。
最近、何かに心の底から笑ったことってあるだろうか?
誰かに泣き顔を見せたことってあるだろうか?
「もう無理」って素直に言ったことってあるだろうか?
もし思い出せないなら、もしかしたら私と同じように、
自分の感情を置き去りにしてきたのかもしれない。
でもね。
感情って、消えてなくなるものじゃない。
どんなに押し込めても、ちゃんとそこにある。
ただ、長い間押し殺してきたせいで、
声が小さくなりすぎて聞こえなくなっているだけ。
本当はまだ、心の奥で必死にサインを出してる。
私の場合、そのサインは「身体」に出てきた。
眠れなくなったり、
意味もなく涙が出たり、
いつも疲れていたり。
心が訴えてることを無視し続けた結果、
体が「もう限界だよ」と悲鳴をあげていたんだ。
あるとき、ひとりで散歩をしていたときのこと。
ふと、なんでもない風景を見て涙が出てきた。
理由なんてなかった。
ただ涙が止まらなくて、
そのとき初めて「ああ、私、泣きたかったんだ」って気づいた。
感情って、頭で考えるものじゃなくて、
体の奥から自然にあふれてくるものなんだって、
そのときやっと分かった。
だから今は、少しずつ練習している。
小さなことでも「今、私は嬉しい」と言葉にしてみる。
ちょっとした不快感でも「今、私は嫌だ」と認めてみる。
涙が出たら「泣いてるんだな」と否定せずに受け止める。
感情を“ジャッジ”しないで、ただ“観察”する。
そんな小さな一歩から、感情を取り戻していけるんだと思う。
あなたはどうだろう。
自分の感情が分からなくなって、苦しくなったことはないだろうか。
「平気そうに見えるよね」と言われて、本当は全然平気じゃなかったことは?
「強いね」と言われて、本当はただ我慢していただけだったことは?
もし少しでも心当たりがあるなら、
どうか、今の自分の気持ちに耳を澄ませてあげてほしい。
感情は、あなたの敵じゃない。
ずっと隣にいてくれる大事な存在なんだ。
ただ、長い間押し込めてきただけ。
泣いてもいい。
怒ってもいい。
寂しいって言ってもいい。
それを否定する人より、
あなた自身が否定してしまうことの方が、
よほどあなたを傷つけてしまう。
もし、今「自分の感情が分からない」と感じているなら、
それはあなたが壊れてしまった証拠じゃない。
むしろ、ずっと感情を抑えて頑張ってきた証だ。
それだけ耐えてきたこと、その強さを認めてあげてほしい。
感情は、時間をかければまた戻ってくる。
小さな声を聞く練習を重ねれば、
また自分の心と繋がれるようになる。
あなたは、感情を失ったんじゃない。
ただ少し、遠くに置き忘れてきただけなんだ。
だから、焦らなくていい。
少しずつ、取り戻していけばいい。
本当のあなたの感情は、ちゃんとそこにいるから。

いつからだろう。
何をしても「本当の自分」じゃなくて、
「演じてる自分」しか動いていない気がして。
笑うときも、話すときも、謝るときも、
まるで自分が“自分”を遠くから見てるような、
そんな変な感覚におそわれる。
心の中にあることを、そのまま言葉にするのが怖くて、
気づいたら、いつも“正解っぽい自分”ばかりを出してた。
子どものころは、もう少し素直に生きてた気がする。
泣きたいときに泣けて、
笑いたいときに笑えて、
怒ったときには、ちゃんと「イヤだ!」って言えた。
でも、
大人になるにつれて、
「そういうのは迷惑」って言われるようになって、
「空気を読んで」
「人にどう見られるか考えて」
「大人なんだから」
そんな言葉で、感情がどんどん封じ込められていった。
今、私がしているすべての行動に、
“台本”がついてる気がする。
職場では、「頼りになる人」を演じて。
家では、「明るくて元気な自分」を演じて。
友達の前では、「悩みなんてなさそうな私」を演じて。
心が壊れそうなときでも、
「大丈夫だよ」って、笑ってしまう。
本音を見せるのが怖くて、
誰にも「助けて」が言えない。
でも──
誰も頼ってくれなんて言ってないのに、
勝手に「演じなきゃ」って、
勝手に“期待”をつくりだしてるのは、自分なんだよね。
そうやって、
誰にも頼れなくしているのも、
誰にも本音を話せないようにしているのも、
実は、自分自身。
だけど、やめ方がわからない。
演じることが習慣になりすぎて、
“本当の自分”の出し方を忘れてしまった。
ときどき思う。
もし私が、演じることをすべてやめたら──
誰かは離れていくんじゃないか。
「こんな人だったの?」って言われるんじゃないか。
だから、怖い。
本音を言ったあとの“静寂”が。
何も返ってこなかったときの“孤独”が。
あなたにも、そんな経験はありませんか?
誰かと一緒にいるのに、
どこか一人ぼっちのような感覚。
自分を出せば出すほど、
拒絶される気がして、
無難な“仮面”をかぶって生きてしまう。
演じるのをやめたいのに、
“演じる自分”だけが評価されて、
それ以外の自分を、もう誰も知らない。
でもね、
あるときふと思った。
「演じること」って、
本当は“守るため”に始まったんじゃないかって。
嫌われないように。
怒られないように。
置いていかれないように。
傷つかないように、
誰かに必要とされるように、
必死に“役”をまとってきた。
それって、
本当は弱さじゃなくて、
ひとつの“強さ”だったのかもしれない。
でも、強くなりすぎた。
役を脱げなくなった。
だからこそ、
少しずつでも、戻っていきたい。
たとえば──
ひとりの時間だけは演じない。
心から安心できる人にだけ、本音を言ってみる。
「無理してるかも」って、自分で気づいてあげる。
そんな小さな一歩が、
“本当の自分”を取り戻す道なんじゃないかと思う。
完璧じゃなくてもいい。
強くなくてもいい。
いい人じゃなくてもいい。
“わたし”を出せる場所が、
少しでも増えていくことが、
息をしやすくしてくれる。
演じることを完全にやめるのは無理でも、
せめて、演じなくてもいい時間が、
この世界のどこかに、あると信じたい。
もし今、あなたが
“演じること”に疲れているなら──
どうか忘れないでほしい。
あなたの中には、
まだちゃんと「本当の自分」が残ってる。
それは消えたんじゃない。
ただ、静かに眠ってるだけ。
少しずつでいい。
取り戻していこう。
あなたは、誰かの期待を生きるために生まれたわけじゃない。
“あなたのまま”で、生きていていいんです。

「自分らしく生きたい」なんて、わがままだろうか。
社会に適応して生きていくには、
ある程度の“ふるまい”や“ルール”が必要なのはわかってる。
でも、
それを守っているうちに、
自分の“本当の部分”がすり減っていくのを感じる。
気づいたら、
誰かの期待に合わせるのが当たり前になっていた。
たとえば会社。
仕事だからと割り切って、表情をつくる。
同僚に合わせて、冗談を言う。
上司の意見にはとりあえずうなずく。
「周囲とうまくやっていくため」の自分が、
だんだん“本当の自分”を侵食していく。
終業後、帰り道でどっと疲れる。
体よりも、心が消耗している。
「自分じゃない誰か」を演じ続けて、
そのまま一日が終わっていく。
昔は、「自分らしく」なんて、かっこいい言葉だと思ってた。
けれど、社会に出てからというもの、
“らしさ”はただのリスクに見えてくる。
意見を言えば「空気を読め」
沈黙すれば「やる気がないのか」
個性を出せば「扱いづらい」
波風を立てなければ「影が薄い」
…一体、どうすれば正解なんだろう。
私自身、「自分らしく」いようとして、
何度も打ちのめされた。
好きな服を着れば浮く。
言いたいことを言えば嫌われる。
自分の価値観を出せば否定される。
「ありのままでいい」なんて、
どこの話だって思った。
「わたしらしくいたい」なんて言うと、
「社会に甘えてる」と言われる気がして、
それを口にすることさえやめていった。
でもさ。
心の奥では、まだ諦めきれない。
自分らしさを全部殺さないと、
この社会ではやっていけないの?
“適応”のために、
“自分”を捨てなきゃいけないの?
そんなの、
なんのために生きてるのかわからなくなる。
一度だけ、職場で勇気を出して、
「こういうやり方はどうでしょうか」って提案したことがある。
結果、軽くあしらわれて、
「まだ若いね」「空気読んで」と笑われた。
それ以来、
私は“空気を読めるふり”を覚えた。
だけど、それは確実に、
“自分を感じる時間”を奪っていった。
誰かに「自分らしく生きなよ」と言われても、
それが一番難しいんだ。
社会で評価されるには、
“空気を読む力”と“型にはまる力”が求められる。
そのなかで、
「自分のままでいたい」と願うことが、
どれほどの孤独か。
あなたも、そんな葛藤を抱えていませんか?
でもね、最近ようやくわかってきた。
社会に“合わせること”と、
“自分らしくいること”は、たしかに矛盾しているかもしれない。
だけど、
どちらか一方を完全に選ばなきゃいけないわけじゃない。
100%自分でいるのが無理でも、
せめて“自分を裏切らない”選択を、
少しずつでもしていけたら。
それだけで、
人生の景色は変わるかもしれない。
たとえば、
ひとりの時間だけは、誰にも合わせずに過ごす。
本当に信頼できる人の前では、素の自分でいられる。
嫌なことには「嫌だ」と言えるタイミングを増やす。
そんな小さな積み重ねが、
“自分を生きる”ことにつながっていく気がする。
私たちは、
社会の歯車になるためだけに生まれてきたわけじゃない。
誰かの期待を叶えるだけの人生じゃ、
あまりにも、もったいない。
だからこそ、
この矛盾のなかでもがきながらも、
“わたしの居場所”をつくっていくしかないんだと思う。
その過程には、きっとたくさん傷つく瞬間がある。
でも、
自分を殺して生きるより、
傷ついても“自分で在る”ほうが、ずっと生きてる感じがする。
もし今、あなたが
「社会に適応しなきゃ」と苦しんでいるなら──
無理に“らしさ”を捨てなくていい。
ただ、今の自分の声を、少しでも聞いてあげて。
完全には両立できなくても、
“ほんの少し自分を守る”選択肢を持つだけで、
人生は、確実に変わっていく。
あなたがあなたであることが、
どうかこの社会の中で、許されますように。

あれ、私ってなんだっけ。
朝から晩まで「○○さん」と呼ばれ、
メールでは「担当者様」
職場では「上司」
家庭では「母親」「父親」
地域では「〇〇の保護者」
どこに行っても、「役割」で見られる。
気づいたら、自分の“名前”で呼ばれることが、ほとんどなくなっていた。
仕事で結果を出す。
家族の世話をする。
トラブルには冷静に対応する。
誰かに心配をかけないよう、常に笑顔でいる。
そのどれも、間違ってはいない。
むしろ「大人として当然」のふるまいかもしれない。
でも、ふとした瞬間、
なぜか息が詰まりそうになる。
誰かに「どうしたの?」と聞かれても、
自分でも答えがわからないまま、
ただ静かに疲れている。
“人として”じゃなく、“役割として”扱われる毎日。
丁寧に仕事をしても、
「さすが〇〇さん」と、肩書きで称賛される。
忙しさを笑って流せば、
「お母さんは強いね」って一括りにされる。
頑張ってる自分は、
どこにも“私”として存在していない気がして。
名前のない生活の中で、
「わたし」を見失いそうになる。
あなたにも、そんな瞬間はありませんか?
誰かの期待に応えるたびに、
自分がどんどん“記号”になっていくような感覚。
立場を守るために本音を言えず、
「らしさ」に縛られすぎて、息ができなくなる。
「部長なんだから」
「母親でしょ?」
「男なんだから泣くな」
「年上なんだから我慢して」
そんな言葉が、何度も心をすり減らしてくる。
私自身、会社では管理職をしていた。
部下の悩みを聞き、上司の指示に従い、成果も出す。
誰かが困っていたらサポートし、
トラブルがあれば率先して処理にあたった。
でも、ある日ふと気づいた。
自分の“感情”を感じる時間が、どこにもなかった。
喜びも、怒りも、哀しみも──
すべて「あと回し」にして、
まず「管理職としての判断」をしていた。
そんな日々の中で、
ふと電車の窓に映った自分の顔が、誰だかわからなかった。
ただ疲れていて、
ただ義務感に支配されていて、
笑っても目が笑っていない。
「これが“立派な大人”の姿なんだろうか」
いや、違う。
誰かの理想をなぞるように生きているだけで、
自分の心は、置き去りにされたままだった。
社会の中で役割を果たすことは、大切だ。
責任を持つことも、大人として当たり前だ。
でもその“正しさ”の中で、
自分の人間らしさを見失ってしまったら、
生きている意味が、どんどん曖昧になっていく。
ある日、何年かぶりに学生時代の友人と会った。
彼女は、私を「役職名」でも「肩書き」でもなく、
ただ「〇〇」と名前で呼んでくれた。
その瞬間、なぜだか泣きそうになった。
“自分の名前”で呼ばれることが、
こんなにもあたたかいなんて。
私は、誰かの部下じゃなくて、
誰かの親でもなくて、
社会の歯車でもなくて、
ただ「〇〇さん」でも「責任者」でもない、
ひとりの“人間”だったんだ。
いつのまにか忘れていたことを、
その一言で思い出した。
あなたも、
名前を呼ばれなくなった時間の中で、
自分の輪郭がぼやけてはいませんか?
役割に生きすぎて、
気づけば心が干からびていませんか?
人は、立場ではなく、
“名前”で生きていい。
完璧じゃなくてもいい。
弱音を吐いてもいい。
立場を一瞬忘れても、何も壊れたりしない。
もし今あなたが、
“立場の顔”を貼り付けすぎて疲れているのなら──
どうか、思い出してください。
あなたには「名前」がある。
あなたには「肩書きじゃない人生」がある。
そして、あなたが“人間らしさ”を忘れそうになったとき、
思い出してほしい。
あなたは役割を果たすためだけに生きているんじゃない。
あなたのままで、生きていていいんです。

幼いころ、私はよく言われた。
「もっと甘えていいんだよ」
「ひとりで抱え込まないの」
「大人に頼ってもいいんだよ」
その言葉の意味が、正直よくわからなかった。
甘えるって、どうすればいいの?
誰かに頼るって、どういうこと?
だって私は──
最初から「ひとりでいなきゃいけない」と思って育ってきたから。
物心ついた頃から、
家の中には“緊張”が漂っていた。
母はいつも忙しそうで、
父は気分にムラがあった。
大きな声が響く日は、テレビの音を上げて、それを消すようにしてた。
私は、「いい子」でいるしかなかった。
泣くと怒られる。
ぐずると無視される。
褒められるのは、手がかからなかったときだけだった。
だから私は、
いつしか“感情”を出すことをやめた。
大人になってから、恋人にこう言われた。
「君って、心の距離がずっとあるよね」
「何を考えてるか、いまいちわからない」
「もっと自分を見せてくれていいのに」
言われて、初めて気づいた。
ああ、私、
“誰かに心を開く”ってことが、わからないんだ。
むしろ、誰かに近づかれると、怖い。
相手に甘えるより先に、「どうせ嫌われるだろう」と身構えてしまう。
それは、大人になっても変わらなかった。
あなたはどうですか?
誰かに「助けて」って言えますか?
誰かの前で、無防備に泣けますか?
誰かに頼られても、素直に受け入れられますか?
私は、できなかった。
それが“普通のこと”だなんて、知らなかった。
そういう関係を、見たことがなかったから。
誰かに対して“安心して委ねる”感覚。
信じても、傷つかないという前提。
それが、私の人生にはなかった。
愛着って、つまりは“心の土台”のようなものだと思う。
その土台が、幼い頃につくられていないと、
大人になってからも、ずっと不安定なままになる。
誰かに優しくされても、どこかで疑ってしまう。
「こんな私を、本当に好きなわけがない」
「何か下心があるんじゃないか」
「そのうち捨てられるに決まってる」
──そうやって、自ら距離をとってしまう。
そして気づけば、
心を開けないまま、大事な人を失っていた。
幼少期に「無条件に愛された」経験。
無理しなくても、そこにいてよかったという実感。
そういう記憶がなかった。
誰かの顔色を見て、空気を読んで、先回りして。
いい子でいなきゃ、ここにいられない気がして。
“愛される条件”を探し続けていた。
だから今も、自分の存在そのものに、
いまいち自信が持てない。
でもね、
最近ようやく思えるようになった。
「愛着形成がうまくいかなかった」って、
別にそれは“自分のせい”じゃない。
私が足りなかったわけでも、間違ってたわけでもない。
ただ、
その時代の家庭環境や、大人たちの余裕のなさが、
たまたま“そうさせた”だけなんだって。
それに気づいたとき、
私は少しだけ、自分を責めることをやめられた。
“なつく”って感覚は、今もよくわからない。
でも、
少しずつ心を許せる人は、増えてきた。
恐る恐るでも、
誰かに「しんどい」って言えるようになった。
それは、あの頃にはできなかったことだった。
だから今は、ゆっくりでもいいから、
自分の中に“新しい土台”を築いていきたいと思ってる。
遅くたって、やり直していい。
私の心を、これから私が育てていくんだ。
もしあなたも、
「誰かに甘えることができない」
「信じたくても怖くてできない」
そう感じているのなら──
それはあなたの欠陥じゃない。
それは、“愛されなかった記憶”の名残。
でも、だからこそ言いたい。
あなたは、
これからの人生で“愛されていい人”です。
あなたの心は、もう一度育て直せる。
その歩みが、たとえゆっくりでも、確かに始まっています。
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