Movatterモバイル変換


[0]ホーム

URL:


深く潜れ(Dive Deep)! キネシオロジー&クラニオの蒼穹堂治療室

「ココロとカラダ」再生研究所、蒼穹堂治療室が送る、マニアックなまでに深く濃い、極私的治療論とお役立ち(?)情報の数々。

シュタイナーの言う霊的感覚とは何か 3

江川隆男の『哲学は何ではないのか──差異のエチカ』をヒントに、シュタイナーの言う霊的感覚とは何かを考察する3回目。「2」では(感覚)器官の成立について述べたが、最終回となる今回は、知覚や認識を変容させることにについて。


江川は「ドゥルーズは、スピノザの哲学を『哲学における表現主義』と評していた。この意味で言えば、ほとんどの哲学が実は『表象主義』であったと言いたくなる」と述べ、学校で行われる花を写生する授業を例に、表象と表現の違いをこのように説明する。

さて、この場合、ほとんどの生徒は、その花の外的な形態を意識して、その花の外的な境界線を画用紙のうえに忠実に描こうとするだろう。なぜなら、一般的に人は、模写や写生をほぼその対象物の境界線や境界面──この場合は、その花の縁──の再現としてしかまずは理解しないからである。言い換えると、このことは、一方で眼が「視点」に捉われて、他方で「花」という言葉の信号形態に対応した指示対象としての理解のもとでしか、その花を見ることができない状態を示している。
そのような絵は、実際には、先生の「今日は、この花を写生しましょう」という言葉に反応して、「花」という言葉をあるいは「花」という一般概念を媒介とした知覚のもとでしか自分たちの眼の前にあるものを見ることができないことを示している。(中略)
写生とは、まさに生を写し取る行為のことではないのか。この場合、「花の生を写し取れ」と言われて、描かれた絵は、残念ながら、ただのその花の外形だけを、その縁をひたすらなぞったものでしかない(色彩も同様である)。(中略)
ここでの事例で言えば、花は生物であり、その成長は内側から外側へと延長ししてきたものである。その葉も花びらも、内側から成長してきて、現在のその境界線あるいは境界面を作っているはずである。しかし、或る物の同一性がその形態や外形にあると考えて事物を理解し描くなら、その物の輪郭や境界線は、ほぼ外側から規定され制限されたもの(線や面)として意識されることになるだろう。(中略)
しかし、絵を描くことは、絵によってしか描くことのできないものを線や色彩によって表現することではないか。あるいは言葉についても同様である。それは、けっして絵によっては描かれえないもの、つまり言うことでしかできないものを実現することではないか。
もしもその物の内側の力によってその輪郭や境界線が現れているという理解があれば、人は単純にその境界線を描くことはできないし、それだけでも別の異なった描き方になるであろう。(p.268-270)

その上で江川は表象と表現の違いを次のようにまとめる。

表象とは、ここでは物の形状の再現にかかわり、言葉による一般的イメージに依拠したものの再現である。表象の機能は、過去の記憶のなかの痕跡をよみがえらせて、現在のその知覚の上に重ね合わせることにあると言える。(中略)
それに対して表現は、対象を〈問題-力〉として知覚する仕方、対象性を多様な仕方で生み出すことにある。(p.272-272)

この表象と表現の違いが、我々の通常の知覚と(シュタイナーの言う)霊的感覚による知覚の違い(に近いもの)なのではないかと私は見ている。そこで更に「表現」についての江川の考えを見ていこう。

〈表現とは問う力をもつ問題のことである〉という定義を与えることはできないだろうか。写生の事例からこのことを考察しよう。或る人がこうした写生のときに次のような問いを持ったと考えてみよう──「この花はどうやって土から栄養素を吸い上げているのだろうか」、「この花はいかにして光や空気から触発を受け、それらと交流し戯れているのだろうか」、「そこにはいったいどのような力が流れているのだろうか」。そして、「この花をこうした観点から描いてみたい」という欲望がその花の知覚とともに生じたとしよう。
(中略)そこには、単に知覚不可能なものを知覚可能にするといった可能性の問題ではなく、むしろまったく異なる実在性の問題がある。それは、単に〈見えるもの-可能なもの〉を描くのではなく、〈見るべきもの-必然的なもの〉を描こうとする努力である。そして、そこでは、〈問い-問題〉がなければ、けっして形成されえないような〈線-色彩〉の集合体としての作品が発生するのではないだろうか。(中略)
そこで描かれたものは、下手で稚拙な外形のように見えるかもしれない。また結果的に抽象的なものになるかもしれない。その抽象的な対象性は、実は共通感覚のもとで固定化された形態の当の境界線上であるいは境界面上で、その形態を希薄化させるものとして生起するのである。そこでの線は、もはや点と点を結ぶ仕方で安定して表象されるものではなく、われわれの知覚そのものに対して生成変化の形相となる。(p.274-275)

こうして辿り着いた「表現」の具体例を、江川はガタリの「フラクタル脱構築」に求める。フラクタルマンデルブロによって概念化されたもので、その詳細はマンデルブロが著した『フラクタル幾何学』などに譲るが、「どれほど拡大しても変わらぬ複雑さをもった図形」を指す。

フラクタル幾何学における「フラクタル的対象」とは、ここに関連する規定に限って言えば、次元数が非整数や分数であるような集合のことである。例えば、コッホ曲線と呼ばれる線分は、線の次元数一よりも大きいが、平面の次元数二よりも小さい無限の曲線になる。あるいは立方体をくり抜いていく作図法によって得られるメンガーのスポンジと呼ばれる空間は、平面の次元数二よりも大きいが、しかし立体の次元数三よりも小さい言わば多孔質的な空間になる。(中略)
われわれは、共通感覚における諸能力の媒介によって容易に表象化されうる可視的で大きな(モル的な)諸形態についての意識や知覚を多く有している。しかしこうした表象に対して表現は、むしろ意識されえないような小さな形相、それゆえ知覚不可能な分子状のものを問題視することで、それを可視化しようと努力する。可視的な大きな形態と不可視的な小さな形相とが単に二つの別々の領域として存在するのではなく、それらの隣接域が生じるのである。そして、その隣接域は、多孔質的な領域となる。(p.278-279)

シュタイナーが霊的感覚で捉えた世界の像が果たしてフラクタル的、あるいは多孔質的なものかどうか私にはよく分からない。が、その世界像は「単に〈見えるもの-可能なもの〉を描くのではなく、〈見るべきもの-必然的なもの〉を描こうとする努力」によって捉えられるものであると思う。そして、その「努力」のための道筋を身につけることを「霊的修行」と呼ぶのだとしたら、私には合点がいく。

最後に、シュタイナーは自らの世界認識について、「(自分の著書である『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』に述べたような)正しい手段を用いて、高次の認識器官を発達させるなら、神が人間の中で語り始める」と言っている。「あなたの中の神に語らせなさい。そのとき神があなたに世界について語る内容こそが神智学なのだ」と。

舞台版『ドグラ・マグラ』、PSYCHOSIS(サイコシス)の場合

PSYCHOSISによる『幻魔怪奇劇ドグラ・マグラ RE/再演』を見た。

ちなみに、この時期は見たい舞台が多くて、実は今回も迷った末、日程の被っている別の舞台を見に行くつもりだった。ところがネットでのチケット予約が何度やっても最後のところでエラーになってしまい、断念。PSYCHOSISの『ドグラ・マグラ』に変えた(こちらは問題なくチケット予約できた)。

PSYCHOSISは以前、チラシを見た時から気になっていたが、なかなか予定が合わず見に行くことができなかった。それがこんな形で見ることになろうとは、どこかで何かの力が働いたのだろうか?(゚ω゚;)

PSYCHOSISの公式サイトには

80年代小劇場ブームの中、過激さとロマンチシズム溢れる異端の詩劇を次々に発表した、高取英の戯曲を現代にも残す事を目的とする他、寺山修司夢野久作谷崎潤一郎作品にも取り組んでいる。

とあり、今回の舞台も高取英月蝕歌劇団のために書いた書いた脚本が使われている──はずだが、PSYCHOSIS版『ドグラ・マグラ』は月蝕版のそれとはかなり違っていた。

私は月蝕版も見たことがあって、それについては過去記事「暗黒の宝塚と異形の物語」に書いている。夢野久作の原作を読んだことのある人なら、これが

…………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………。

という時計の音で始まり、同じ時計の音で終わる円環構造を成していることは知っているはずだが、高取英は物語をそこから始めるのではなく、狂人の解放治療場の場面から始める、という意表を突いた形に改変し、そこから『ドグラ・マグラ』を語り直すことを試みている。

今回のPSYCHOSIS版も(高取脚本を採用しているのだから当然)狂人の解放治療場の場面から始まるのだが、月蝕版とは打って変わって高取脚本を更に解体し、『ドグラ・マグラ』という物語を裏側から見せてしまう。ミステリで言えば──というか『ドグラ・マグラ』自体が「幻魔怪奇探偵小説」を標榜した作品なのだけれど──犯人の側から描く倒叙ミステリという形式があり、PSYCHOSIS版も物語を倒叙形式に変え、裏表をひっくり返して見せるのだ。

この物語は若林と正木という2人の博士の間でメビウスの帯のような構造になっているため、たとえ裏表をひっくり返しても語り切れるものではないが、これまで映画化、舞台化されてきた『ドグラ・マグラ』を、また違った形で見せてくれたことは評価できる。この舞台を見た上で原作を読むと、複雑な内容が非常に分かりやすくなるのではないかと思う(とはいえ、この舞台による解釈に引っ張られすぎないようにする必要はあるが)。

ちなみに、いまだに「読むと気が狂う」などと称される夢野久作の原作について、私もレビュー「漂白の思い止まず──ある『ドグラ・マグラ』論」を書いているので、参考までに。

シュタイナーの言う霊的感覚とは何か 2

シュタイナーの言う霊的感覚とは何か、ということのヒントを江川隆男の『哲学は何ではないのか──差異のエチカ』から読み解く、という話の第2回。なお、この『哲学は~』にはシュタイナーのことなど一切何も出てこない。にもかかわらず、この本がシュタイナーの言説を読み解くヒントになる(と私が考える)のか? それはこの本が思考や認識の基盤を、今スタンダードとされているものから転換するための方策が述べられているからである。

「1」にも書いたように、江川はこの本で、これまで西洋哲学の中心にあったプラトン主義(あるいは超越主義)を捨て、プラトン主義の思想的系譜を持たない哲学──具体的にはスピノザの流れをくむ哲学──への転換を主張する。そして、そのスピノザからの流れの大きな結節点にいるのがニーチェとそれを受けたドゥルーズだという。

江川はカントによる認識のための諸能力について述べた上で、「では、われわれが物を知覚し理解するという意味での認識は、カント哲学のような認識論で十全なのであろうか」と問い、それに対して

ドゥルーズは、「超越論的経験論」という彼の代表的な理論的かつ実践的な理説において、まさにこうした問題を提起したのである。人間においては、いかなる特権的な能力も存在しない。なぜか。諸能力は、自然あるいは世界において相互に異なる対象的な諸要素から発生した特異な力能を有するものだからである。(p.243)

と述べ、更にこう続ける。

この点について少し説明しよう。感性という能力があるのはどうしてか。それは、自然において「感覚されるべきもの」あるいは「感覚されることしかできないもの」が存在するから、われわれのうちに「感性」が発生したのである。同様に、自然における「想像されるべきもの」あるいは「想像されることしかできないもの」が想像力を、「記憶されるべきもの」あるいは「記憶されることしかできないもの」が記憶力を、「思考されるべきもの」あるいは「思考されることしかできなもの」が思考力を、それぞれの能力として人間のうちに発生させるのである。(中略)
もしこうした問題の意義が理解し難いなら、人間の感覚器官を事例にしてみよう。人間には一般に五感と呼ばれるものがある──視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚。これらは、人間身体の外部に存在する事物や状態についての感覚や知覚、認識や情報を取得するための身体の諸感覚である。そして、これらに対応した身体の感覚器官が、眼、耳、鼻、口、手ということになる(身体は全体が触覚であるが、ここでは「手」を触覚器官の代表としておく)。
さて、われわれのこうした感覚器官は、自然において、光がなければ、音がなければ、匂いがなければ、味がなければ、物体がなければ、そもそも形成されえなかったであろう。眼は光を、耳は音を、鼻は匂いを、口は味を、手は物を、それぞれ解釈することで形成された器官であると言える。(p.244-245)

そこから江川はニーチェへと話を進める。

ニーチェに倣って言うと、何らかの器官が成立するとき、必ず何らかの解釈がある。胃はまさに食物を解釈する器官であり、この場合の解釈は食物の諸力を支配しようとする努力である。(中略)
ニーチェが言うように、有機体の生命過程は、必然的に外部に存在する多様な存在者についての解釈を前提としている。解釈は、自己の身体を中心とした空間を遠近法主義的な位相として形成するのに必然的にともなう働きのことである。この意味でも、生命過程には同時に諸個体あるいは諸個人がどのように生きるのかがつねに必然的に含まれている。解釈は、知覚や認識の後にあるのではなく、それらと同時で不可分なのである。(中略)
ここまで述べてきたような人間の諸能力がわれわれのうちに存在するのは、そもそも物体が対象的であり、その対象性そのもの本質的に有しているからである。その対象性は物あるいは様態が必然的に何かに対して作用を及ぼす、またその対象性による変化が他の物の何かを発生させるからである。それらの一つがまさに人間の諸能力であることは間違いないであろう。 
眼は、自然のうちに「可視的なもの」あるいは「見られるべきもの」があるから成立したのである。同時に、自然のうちには、耳は「可聴的なもの」あるいは「聞かれるべきもの」が、鼻は「可嗅的なもの」あるいは「嗅がれるべきもの」が……、それぞれに存在するから形成されたのである。人間のこうした感覚器官は、実はそれぞれに対応した単なる「感覚可能なもの」を有するのではなく、まさに「感覚されるべきもの」、つまり「感覚されることしかできないもの」によって発生したのである。
したがって、人間のこれらの感覚器官は、つねに形成過程にある。同時に、人間が地球上の生物の一つの最終形態などと考えないようにしなければならない。自然が変化している以上、そのように人間の感覚器官もその生命過程も絶えざる変様のうちにあるからだ。
さて、人間精神における諸能力についても、このような感覚器官と同様に考えることができる。つまり、人間が持つ広義の認識の諸能力は、それぞれに固有の発生の原因となるような要素が自然のうちにあるから存在するのである。(p.245-248)

この下りはシュタイナーの言うオカルト解剖学、オカルト生理学にも通じるものがある。実はシュタイナーは『ニーチェ みずからの時代と闘う者』という著作もあるほどニーチェから強い影響を受けていて、そうしたことも関係しているのかもしれない。

そして私は「1」で、霊的修行によって霊的感覚を得るとは、感覚器からもたらされる情報自体が変わるのではなく、入ってくる情報の解釈の仕方が変わるのだ、ということを述べた。以下は江川がこの本で同じことを別の形で書き表したもののように、私には思える。

人間の心や精神や魂といったものを考えるときに、身体を不可分のものとして理解するの最大の意義の一つに「私」から「自己」を区別することができる点がある。「私」と「自己」とは、実は異なるものである。「私」とは、端的に自分の心や精神だけを対象にして仮構された概念にほかならないのだ。(中略)
身体は、私の内と外とを区別する皮膚で覆われた境界面を持っている。だからと言って、身体の存在は、外部に対してけっして閉じることはできない。多様な触発を外部の物体から得なければならない。身体はまさに触発の多様体であり、また精神はこの多様体についての観念から構成される集合体である。したがって、人間精神だけを想定して、神や事物、認識や行為、等々を考察してきた哲学とはまったく異なる仕方であらゆるものを考える必要がある。
言い換えると、人間の諸能力は身体の変様についての観念の差異であり、或る能力から別の能力への移行は観念の連結の問題へと転換されるのである。精神にとって身体は、言わば触発のテクストなのである。(p.264-265)

この話、更に「3」に続く。

シュタイナーの言う霊的感覚とは何か 1


神秘家(オカルティスト)であるルドルフ・シュタイナーは医学/医療関係の講義や講演も頻繁に行っていて、その講義録、講演録が書籍の形で数多く残されている。彼の医学/医療についての基本的な考え方や方法論は、霊的修行によって得たとされる霊視や霊聴といった霊的感覚(あるいは超感覚)を通じた人体観察とその考察に基づいたものであり、そうした霊的な知覚や考察を経ないものには、ほとんど重きを置いていなかった。そのことは、例えば『人智学・心智学・霊智学』の中で人体の見方について神智学と人類学を比較した、こんな記述に見ることができる。

神智学は至高の高みに昇っていき、すべての個物を霊的に解明し、その生成過程を時間的に展望しようとします。人類学はまったく下に立ち止まり、個物を物質として空間的に位置づけて展望しようとします。そして現在は、その考察が極端のところまにで達しているのです。すなわち、個々の細胞を並べて考察し、或る細胞組織が月紀に発生し、別の細胞組織が太陽紀に発生したことなど、どうでもいいかのようなのです。しかし個々の細胞組織はさまざまな時代に発生したのですが、その一つひとつを指摘することはできても、霊的な観点から考察するのでなければ、理解することはできないでしょう。このように、人類学はまったく下のところを歩き廻り、神智学は最高の頂に立ち続けます。(p.20-21)

そうした霊的に知覚され考察された人体の解剖・生理については、『人智学・心智学・霊智学』や『オカルト生理学』に詳しく述べられているが、そもそも霊的修行を通じて得られる霊的感覚とは一体どういうものだろう?

シュタイナーは霊的修行の具体的な方法について、4大主著と呼ばれる『神智学』(の中の「認識の小径」)や『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』などで詳しく述べている。なので、その通りにやればいいのかもしれないが、私はそのさわりを読んで「自分には無理だ」と諦めた(´_`。)グスン。それでも、霊的感覚とは何かということにはずっと興味があった。

霊的修行の方法にはさまざまなものがあるが、どういうやり方にせよ、それによって感覚器の物理的な構造まで変わるとは考えられない。つまり霊的修行を経ても感覚器からの情報自体にほとんど変化はなく、変わるのは情報の解釈であるということだ。それは例えば、これは霊的修行とは全く関係ないが、以前はただの薄汚いゴミに見えていたものが、骨董について知ることで数百万、数千万の価値のあるお宝へと認識が変わるようなことに近いのかもしれない(そういう意味では、霊的修行とは人を超えた特殊な能力を身につけることではなく、正しい知識を身につけたり意識の向け方を学ぶことで認識の仕方を変えることであるとも言えるだろう)。

さて、私は最近、江川隆男の『哲学は何ではないのか──差異のエチカ』という本を読んだ。この本の趣旨は「本が好き」に投稿したレビューにも述べたように、プラトンを端緒とし、これまでの西洋哲学のメインストリートであった、同一性を過度に重視し差異を否定的にしか理解しない考え方を捨て、スピノザニーチェドゥルーズと続く内在性の哲学に基づく、多様性を肯定する哲学へのアウトラインを示す、というものだ。

それが具体的にどういうものかは実際にこの本を読んでもらうとして、私は江川がこの本の第七章「人間の能力と感覚」の「3 対象性としての諸能力」と「4 感覚と身体」、第八章「内在性の諸問題」の「1 身体と対象性」で述べている、プラトン的な考え方からスピノザ的なそれに移るために思考や認識をどう変様させるか、という部分に強く惹かれた。それはシュタイナーの言う、霊的感覚で世界を捉える、というのと同じことを述べているように感じられたからだ。

そこで、この本をヒントにシュタイナーの言う霊的感覚とは何かについて探ってみることにした。まずはそのイントロとなりそうな下り。

われわれの認識や思考が、そもそも基本的に同一性を中心にしたものであったなら、そこに差異について理解の仕方を追加したとしても本質的には何も変わらないであろう。そこでの差異は、つねに同一性に対する単なる特性の違いとしてしか捉えられないからである。
そのため、差異の哲学には、われわれ自身が有している認識や思考の諸能力に対する批判が改めて必要になる。人間精神にはたしかにいくつかの能力が備わっている。それは、先天的なものであるかもしれないし、後天的に獲得されたものであるかもしれないが、問題は諸能力間にも位階序列が存在することであり、われわれはこの点を理解する必要がある。(中略)
存在の位階序列あるいはそれに対応した否認性からなる価値体系は、同時に人間精神の内部にも同様の序列や体系が形成され、私たち自身の理解をも支配するようになった。諸能力を位階序列化して理解することは、われわれ自身の精神構造を現実に規定しているのである。(p.229-230)
われわれにとっての問題は、次のような点にある。プラトンは、人間の諸能力の間に位階序列を想定し、それと同時にその位階序列における高低差(すなわち優劣差)に対応した対象が存在すると考えるのである。(中略)
そして、もっとも重要なことは、こうした哲学こそが、前-哲学的で潜在的な事柄として人々が漠然と理解していた存在と価値の位階序列をまさに言語化し、体系化し論理化することになる。位階序列は、このようにして人々に対象の真実性と主体における明確性として与えられるのである。(p.233-234)
人間においては、いかなる特権的な能力も存在しない。なぜか。諸能力は、自然あるいは世界において相互に異なる対象的な諸要素から発生した特異な力能を有するものだからである。(p.243)

なお引用における強調は全て原著による。

以下「2」へ。「2」では『哲学は何ではないのか』から、感覚器官の成立と認識について見ていく。

全国信用金庫協会を騙る詐欺メール

銀行、証券、信販などからの詐欺メールは山ほど来ているが、新たに信金からの詐欺メールが来たので、それをご紹介する。

発信元は全国信用金庫協会で、これは実在する。そのサイトに行ってみたら既に「重要なお知らせ」に「本会名を騙る詐欺メールにご注意ください」と書かれていて、どうやら、この詐欺メールはかなり広い範囲に出されているようだ。

ちなみに当方が受けたメールは、発信元メールアドレスが

info@atelierpataplume.com

だった。

以下、メール本文。

平素より信用金庫をご利用いただき、誠にありがとうございます。

下記の通り、2025年10月分のご利用分を信用金庫ポイントに加算されましたのでお知らせいたします。
 加算内容

    対象期間: 2025年10月1日~2025年10月31日

    加算ポイント数: 4920ポイント(4920円相当)

    加算日: 2025年11月18日

    主な加算対象取引:
     給与のお受取り
     公共料金の自動引落し
     キャッシュレス決済のご利用

 受取期限について

加算されたポイントの受取期限は 2025年11月17日まで となります。
期限を過ぎますとポイントは失効となりますので、お早めにご確認ください。

ポイント受領ページはこちら
https://uwsyqiskaq.com/htm/sh1n/selectState

 ご利用案内

    信用金庫ポイントは 1ポイント=1円相当 として、
     PayPayポイント、dポイント、楽天ポイントなどへ交換可能です。

    ポイントの有効期限は 加算月を含む24か月 です。

    交換手続きは「信用金庫ポイントモール」より行えます。

今後とも、信用金庫をご愛顧賜りますようお願い申し上げます。

 

なお、おかやま信用金庫のサイトには

全国信用金庫協会」の担当者を騙る詐欺電話(ボイスフィッシング)の発生についても報告されています。
全国信用金庫協会」の担当者を騙って企業・個人に電話をして(自動音声の場合あり)、言葉巧みにメールアドレスを聞き出し、偽メールを送ってIDやパスワードを盗みとろうとする電話を受けたとの情報が寄せられています(具体的には、インターネットバンキングの利用に関し、「電子証明書の更新が必要」、「利用の更新手続きが完了していない」等と騙り、メールアドレス等を聞き出す手口などが確認されています)。

とあるので、詐欺メーだけでなく詐欺電話にも注意が必要なようだ。

プロフィール
id:sokyudoid:sokyudo

埼玉県草加市でキネシオロジー、クラニオセイクラル・ワーク(クラニオ)、鍼灸などの施術を行う、アニメと数学とミステリを愛する治療家。キネシオロジーとクラニオのセミナーも行っている。

検索

引用をストックしました

引用するにはまずログインしてください

引用をストックできませんでした。再度お試しください

限定公開記事のため引用できません。

読者です読者をやめる読者になる読者になる

[8]ページ先頭

©2009-2025 Movatter.jp