
それより三日過ぎて、極月十五日の朝、兵法稽古座敷にめし出され、諸家中の見せしめに、御長刀にて、御自身、「小輪最後」と、御言葉をかけさせたまへば、につこと笑ひて、「年頃の御よしみとて、御手にかかる事、この上何か世に思ひ残さじ」と、立ちなほる所を、左の手をうち落としたまひて、「今の思ひは」と仰せける。右の手をさしのべ、「これにて念者をさすりければ、御にくしみふかかるべし」といふ。飛びかかりて切り落としたまへば、くるりと立ちまはりて、「このうしろつき、また世にも出来まじき若衆、人々見をさめに。」といふ声も次第によわるを、細首おとしたまひて、そのまま御涙に袖は目前の海となつて、座中浪の声、しばし立ちやむ事なし。死骸は妙福寺におくりたまへり。
哀れ、露には消えつ。 あしたの霜にはかなき朝顔の池といふも、この所なり。むかし都のいたづら人、須磨に流され、それにこりず入道の娘を恋ひて、ここに通ひたまひし時読みたまへり。
秋風に浪や越すらん夜もすがら明石の岡の月の朝顔
この歌衆道にてよみたまはば、人も知るべきに、なんぞや女房事なれば、沙汰なしになりぬ。
「されば、小輪をころして、この念者いまに出ぬは、よもや侍にてはあるまじ。野良犬の生まれ替りぞかし」と、人のそしり草となりぬ。
――「笠持つてもぬるる身」(『男色大鏡』)
主人の威勢に靡くのは衆道にあらず、思ってくれる人に命を賭けますと言っておった小輪がほんとに命を賭けてしまい、主人に左手を切り落とされても逆に「右手で念者をさすったのだ」と言い放ったので、首を落とされる。話者は、源氏の明石の件をもちだして、これが衆道だったらよかったに、と言うばかりか、相手の念者がなかなか私ですと名乗り出てこないので、「さては侍じゃないな野良犬の生まれ変わりだろう」と悪口を言われたといううエピソードまで煽り立ててくる。
もはや、「キルビル」で、ユマ・サーマンがまるで踊るように次々に首や足を切り落として行くシーンとまではいかないけれども、――ほぼスプラッターを期待している勢いである。永井豪や庵野秀明の作品でもロボットの屍体が切り落とされて、ありえないほどの血の噴水が吹き上がる。
王子茂氏の論文にもあったが、朝顔すらどこかしら水的である。朝顔とスプラッター、どこかしら通じている。
我が庭の朝顔はまだ咲いているようである。しかしわたくしは別にスプラッターが好きというわけではない。もっとも、西鶴や永井豪でさえ、スプラッターそのものが好きなのではなく、問題はリズムなのである。
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