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さちゅりこん2――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

Warum ich so gute Bücher schreibe.

三島氏は、自衛隊の治安出動の呼び水となって斬死にすることを、夢みていたのである。騒動が激化して警察の手にあまるようになった場合、当然次は自衛隊ということになるだろう。しかし自衛隊の出動は重大な問題だから、決定は容易には下せないはずであり、したがって出動のまえにある空白の時間が想定される、と氏は説明した。そのときに飛びこんで行って、斬死にするのだといって、わっはっはと笑う。
 つまり呼び水である。氏の計算では、死ぬのは氏ひとりで、「楯の会」の隊員たちは、(名まえが「楯の会」となったのは、四十三年の暮である) ひとりも死なせないつもりだったらしい。それならぼくが、まえを楯をもって走るというと、「どうしても死なせないつもりなんだな、意地悪ゥ」と、また笑った。
 何かをやるときには必ず事前に相談する、ということだけは、それでも氏はぼくに約束してくれた。 しかし氏の気持は、その後もう一度変っているのである。ことに今年の夏からあとは、氏はもうぼくなどの手の届かないところに行っていた。

――村松剛「赫々たる夕映えに死す」

 

結局村松のような人は三島に初めから信頼されていなかったのではないかとおもうが、どうであろう。確かに、三島の行動が自衛隊の治安出動の呼び水となることが重要だった気もしないではない。つまり三島はゴジラをやりたかったのである。ゴジラに弾をうつ自衛隊喝采を浴びていた(54年の「ゴジラ」)。

シン・ゴジラ」は、「どうみても自衛隊が出て行くしかない」ということで法を解釈して自衛隊が出て行った。しかし、簡単に負けてしまう。三島は可憐に討ち死にする事で、自衛隊が治安出動する陛下の軍隊となることを夢みていたのかもしれないが、三島の死からついに五〇年近くたって令和とやらになっても、自衛隊はすぐに負け、あとは官僚とオタクと土木の運転手達に治安出動がなされたようだ。三島は、敗戦国日本のナルシズムを舐めていた。それと、法学部出身だからなのか、法を破るみたいな夢想にとり憑かれがちだったのであろうか。

 

令和といえば、令和人文主義というのが勃興しているらしい。最近の新書とかで活躍している/賃金労働者に売れている?批評家たちらしくみえる。が、「主義者」だから、なんかしらんけど治安維持法によって逮捕するべきなのではなかろうか。

三島のような教養主義者を無視し、花田や吉本のような相手を貶す前に読みまくる主義者たちを無視した議論などしてもしょうがないのであるが、――彼らのような迫力をつけるためにはどうしても何かが必要で、その何かが見つかるまで我慢できないところに、昨今の主義者達の特徴がある。令和人文主義とかもうすでにネーミングから弱そうだから、、「おれの別居事実となんとか」(正式な題名を忘れてしまった)みたいな本を書いてしまう「神秘的半獣主義」者のほうがましであろう。

 

Warum ich so weise bin.

Warum ich so klug bin.

Warum ich so gute Bücher schreibe.

 

令和人文主義?の如きもの――特にそれらの本を読む読者は、結局、昔ながらの「デカンショ」を唸る学生の一種のようにおもえるのである。が、それよりも問題は上のようなかんじの言説が、天才の特徴でもあり平凡な自己肯定感の人みたいなものでもあるということである。「デカンショ」的なものは結局後者の特徴にすぎないという自明の理と自然に闘ってしまうのが批評家、というか優れたごくごく少数の思想家である。結局、大衆化したものなど碌なものではないし、少数にしかわからないのが思想や文学である。わたくしが三〇年やってもますます分からないわけだ。こういうと、また文学崇拝だとかいう非難がわき起こるのであろうが、文学崇拝みたいなのを敵視していることは、大谷君を「野球主義者」とか批判することと同じようなものだ。

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