私が本当に実現させたいのは、労働を遊びに変えることである。その第一歩は、「職業」や「職位」という概念を捨て去ることだ。もともとその活動に含まれていたはずの遊び心の要素も、特定の人々だけに押し付けられ、他のすべての活動をなげうつよう強制する…
『精神』は元来物質に『憑かれ』てゐるといふ呪はれたる運命を担ってゐる。現に今、物質は、運動する空気層として、音といふ形をとって、要するに言語の形をとって現はれる。言語は意識とその起源の時を同うする。――言語とは他人にとっても私自身にとつても…
手近にS・K・ランガー『シンボルの哲学』(矢野万里・池上保太・貴志謙二・近藤洋逸訳)がある。 ランガーは言語の実用説がまちがいだということをしめす決定的な証拠として、アヴェイロンの蛮人ヴィクターを研究し、教育したイタールという医師の報告をあげて…
散文的なものにしかたよらぬ人種には永久にわからぬようないたずら染みた暗合の要素が人生にはあるのだ。ボーの逆説にいみじくも表現されているように、知は思いがけぬ偶然にこそたよらねばならぬのだ。 アリスティード・ヴァランタンは徹底的なフランス人だ…
れんぐわを、つくるもの、せめんとを、つくるもの、それをつみかさねて、塔をたてるもの、まい日まい日、大へんな、さわぎでした。 そんなにして、町の人たちは、三年かかつて、塔を十三がいまで、きづきあげました。「なん百年、かかつてもよいから、天へと…
超越が他者として實存に對立するのみならず、同時に内在として自己の實存と統一せられることがないといふ實存哲學の缺陷は、それの由来を追跡すると、その観想的立場に存することがわかる。思惟がヤスパースに於ける如く内的行爲と呼ばれても、それが氏の解…
その “any-ness” が内包する「否定性」や「可能性」は、まだ潜在的なものに留まっているので、その種子内的な「否定」の力は「宙吊りにする否定」であって、「チャラにする否定」ではない。 「チャラにする否定」のほうは、世界の側を無いことにする(=チャラ…
[…]ライプニッツは、 動物だけでなく植物さえも魂(に類するもの=エンテレケイア)をもっている、と考えた。 どの生きた身体にも、 それを支配するエンテレケイア〔=モナド〕があり、動物で はそれが魂である。 さて、この生きた身体の肢体には、 他の生命体…
「私は詩であり、詩人ではない」ラカンは『セミネール1巻』の「英語版への序文」 のなかでそう述べている。 ここでラカンが言っているのは彼自身のことであるが、このことは誰にでも当てはまる。 私という詩は、私が書いたものではなく、 私の 〈言う〉こと…
百人一首大会
合宿したホテルの横に白山神社がありました。伊弉諾と伊弉冉が祭られておるようです。白山(東讃岐富士)の南側にあります。 入り口の鳥居を臨む。 途中に地蔵堂あり。 普通に登りがきつい。 かわいいのにはだまされぬ。 社殿。 白山の登り口に、龍王社と石…
基督降誕祭(ノエル)にはあと四五日の土曜の夜だ。高いオペラの空気窓から「タイスの」唄が炭酸瓦斯(ガス)にまみれて浮き出ている。遅々たる行列の進みが百貨店の外の入口まで届くと黒服の店員に管理されて人数の一くぎりずつが内側の入口の床石に誘われ…
人間は神にも動物にも変身しない。人間はまったく姿を変えない。人間は、自然を欠き、超越性と内在性を等しく欠いた人間であるに留まる。だが――その限界において(人間とは一つの限界以外のものだろうか)――人間であり続けながらも、人間は人間的本質を出現さ…
高山 總力戦の哲學といふものが創造的だといふことは全く賛成だ。武力戰だ、經濟だ、思想戰だ、外交戦だ、さういふ々のものをもつてはどうしても出てこない創造的な狀態を産み出すものが總力戦だ。總力戦そのものがそれ自體の中に含んでゐる最高命法は、無限…
ベルクソンのよく知られた洞察。《一杯の砂糖水をこしらえようと思うならば、私はとにもかくにも、砂糖が溶けるのを待たなければならない》「創造的進化』(ベルクソン 1966 27)。 この体験を想像変容することによって、われわれは時間の内的本質を洞察するこ…
仮に人工知能が衆生であるとするならば――つまり、生き物の一部であるとするならば当然、人工知能も固有の身体と世界を持っている、われわれにとっての他者であるわけです。現在、人工知能は強制的に人間のふりをさせられているわけなのですが、そんな人工知…
さて、[人間と世界との関係の]生成の一般的な流れはつぎのようになるだろう。すなわち、思考形態や世界の内に在る形態は、それらが出現したばかりのとき、すなわちそれらが飽和していないときには放散してゆくが、そののちに過飽和となり、新たに二重化を通…
『ドン・キホーテ』は、ルネッサンス世界の陰画を描いている。書かれたものは、もはやそのまま世界という散文ではない。類似と記号とのあの古い和合は解消した。相似は人をあざむき、幻覚や錯乱に変っていく。物は頑固にその皮肉な同一性をまもりつづける。…
当の牛肉について思い出すことをいえば、一枚ずつ特殊加工の半透明な紙にくるんである、立派なロース肉なのだが、家族でステーキにしてみると尋常でない固さなのだ。食べあぐねた翌日、運動部で合宿に行くという甥に、妻が固さについて念を押した後、残りの…
中学高校時代には「野球など馬鹿にもできる」と高を括って陸上競技に転向していたが、東京大学に入ると、本屋敷錦吾遊撃手の俊敏さに強く惹かれ、対立教戦もしばしば神宮球場で観戦した。 わざわざ三塁側の最前列に陣取り、すでに佐倉一高出身だと知っていた…
ゲームが現実の人間によってプレイされるとき、ほぼ半数のプレイヤーが裏切るよりも協力的である。ほとんどの被験者が、協力者を裏切ることでより大きな物質的利得を得ることよりも、相互協力を選好し、進んで他のプレイヤーが同じように感じる機会を選択す…
十九世紀のロマン主義的愛コードにおいてもこのような、ここで名付ける「消極的能動性」、あるいは「能動的消極性」という現象が顕著である。ギデンズによると、「クウェスト」(冒険の旅)においては主人公が未来に向かって自ら挑戦するので、そこには「能動…
こういう文学の理論をすべて個体の理論とよぶことができる。現在、文学の創造がいぜんとして個性の仕事であるという意味で、たれもヴァレリイの名言を否定することができない。おなじように、現在この社会に階級の対立があり疎外があるかぎり、ペンをもって…
一 我々がここに論する単子というものは合成体の中に入る単純な実体に他ならない。単純なとは部分がないということである。二 合成体があるからには、単純な実体がなくてはならない。合成体というものは単純な実体の集まりすなわち集合に他ならないのである…
言語活動と死のあいだの関係は形而上学にとっては――その場所を〈声〉のうちにもっている。死と〈声〉とは同じ否定的構造をもっており、形而上学的には不可分離の関係にあるのである。じっさいにも、死を死として経験するということは、音声が除去され、それ…
動物=母は、ミク=私と再一体化し(むさぼり食うようにして)、私の(死の)唯一性を教えようとする。ミク=私は、それを拒否する。複数の、別の死に向かうのである。それらは、異なる変身の諸々の賭場口である。いくつもの死=変身を経て、複数の私が、複数の…
すべての言葉は指示表出性と自己表出性とを基軸に分類することができる。言葉を文法的にではなく、美的に分類するにはわたしの考え方のほうが適しているとおもう。言いかえれば文学作品などを読むにはこの方がいいとおもっている。[…]指示表出性が一番大切…
問題はカミという名のシンボルの意味にあるのではなくて、そのカミとこのカミを共にカミとして認めることの出来る場所なのである。 その場所は眼に見える自然の彼方にある。そうでなければ二つの民族のカミは、その時、その所において共存しえない。そこは意…
大助が処刑された大正十三年(一九二四年)十一月十五日から作之進は絶食生活にはいった。いっさいの面会を絶かなかった。離れの三畳に端座したまま、家族ともほとんど口をきかなかった。 その離れの二階四畳半は、事件直前に大助が使用していた部屋だった。彼…
彼は恐ろしく鋭敏な、頭のいい男であった。ことに語学には天才であった。私と一緒にラテン語を習いだしたのであるが、私が辞書をひくにも苦労している頃に、彼は已に原書を相当楽に読みこなしていた。その当時は私も語学には全力を打ち込んでいた頃で、別に…
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