神路山月さやかなるちかひありて 天の下をばてらすなりけり 日本の人文系の学問でつねに問題になってきたものに、日本に形而上的なものがありうるのか、あったのかという様なものがある。私はあったような気がしているのだが、西洋哲学だって、そのつど、イ…
山深み岩に滴る水とめん かつがつ落つる栃拾ふほど こんな歌は事実だけとってみればなんということもないのだが、作品なのである。事実偏重主義みたいなものと権威主義は屡々結びつく。ただの事実を真実みたいに輝かす必要があるからである。注釈作業が現状…
思ひおきし浅茅の露を分け入れば ただはつかなる鈴虫の声
こととなく君恋ひわたる橋の上に あらそふ物は月の影のみ 「恋ひわたる」と「あらそふ」という動的均衡がすばらしいと思う。「月の影のみ」というところに「恋」以上の愛情があって、逆に、西行は月が好きだから君も好きだったのではあるまいか。 ものの影に…
こういう擬態のあり方ははじめた見た
夜を残す寝覚めに聞くぞあはれなる 夢野の鹿もかくや鳴きけん 夢野の鹿は、摂津風土記逸文などにある説話で、淡路島に妾をもった牡鹿がある日、背中に雪が降る、薄が生える夢を見たという。本妻の牝鹿が、それは猟師に撃たれて塩を塗られる前兆だと言った。…
人来ばと思ひて雪を見る程に しか跡付くることもありけり 「しか」は確かと鹿がかかっていて、この「跡」は、「人来ばと思ひて」と繋がっている観念でもある跡なのである。思うに、西行は雪をまっさらなものだとおもっているのだが、もともとそうとは限らな…
山がつの片岡かけてしむる野の さかひにたてる玉のを柳 山人が領有するしるしに立てた小柳の枝が玉を貫いた糸のようだ、というのだ。考えてみると、ただの玉ではなく、玉を貫く糸のほうに魂を奪われるのが、なんか悔しい。玉をもっと愛でた方がよくはないで…
古畑のそばの立つ木にいる鳩の 友よぶ声のすごき夕暮れ すごしというのは訳しにくい言葉のようにおもわれる。いまのスゴイよりもぞっとする荒涼とした恐ろしさに近いようだが、鳩が友を呼ぶ声なのであまりにそのことを強調するとホラーみたいなニュアンスに…
子日して立てたる松に植ゑそへん 千代重ぬべき年のしるしに 元旦と子の日が重なったときの歌らしいのであるが、そんなしょっちゅう起こる現象ではないのだから、天皇の御代が長く続くことを思わせないような気がするである。しかし、人間とはおもしろいもの…
年暮れぬ春来べしとは思ひ寝に まさしく見えてかなふ初夢 「春来べし」から沈む「思ひ寝に」を経て、「まさしく見えて」とぱっと開いた世界に対して「かなふ初夢」とつなげる西行は、なんだか小学生みたいなところがあるように思う。「初夢みちゃった春も女…
さらにまたそり橋渡す心地して をふさかかれる葛城の峰 役行者が鬼神に橋を架けさせようとして失敗したという話をふまえて、「さらにまた」かかったをふさ(虹)を幻視する西行であるが、坊「反り橋」を「渡す心地して」というところが、虹が渡る美しい動き…
新開水神社は、木太町。案内板がちゃんとあった。ここらは寛文年間に干拓された地であって井戸をつくってもたいがい失敗であったが、ここの井戸だけはきれいな水がわき出ていた、そこで、新開・州端地区の住民がここに水をもらいに来ていたらしい。そこで祀…
吉野山さくらが枝に雪散りて花遅げなる年にもあるかな 國文科に入ってとりあえずヨカッタとおもうのは、くずし字の翻字の練習をして、当たり前であるが昔は和歌やら何やらは明朝体やゴチックで書かれていたのではないということを思い知ったことである。勿論知識…
おしなべて花の盛りになりにけり 山の端ごとにかかる白雲 こんな夢をみた。東京から徒歩で帰ろうと思って小雨の丘を登った。霧で上方が見えないが富士山だろう。怖いので引き返した。私は一生小雨の東京駅だろう。 山の端と簡単に言ってくれるが、山の端は美…
ほぼ立て替え完了の伏石神社を訪ねました。 一般に、平成の時とちがって金がないのか、信心がだだ下がっておるのか、――最近神社巡りが出来てオランので分からないけれども、改元紀念の鳥居はまだ確認できてません。しかし、伏石神社のそれは真新しい。メディ…
瀧落つる吉野の奥の宮川の 昔を見けん跡慕はばや この歳になって、やっと柿本人麻呂の吉野讃歌が楽しそうな散文のように聞こえてくるようになったが、それに比べると、ただのミッションの表明ではないかっ、と思わざるを得ない。 天武持統の時代に、離宮であ…
吉野山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬかたの花をたづねん 桜と修行と言えば、百人一首で有名な行尊であるが、その「もろともにあはれと思へ山桜 花より外に知る人もなし」という花の視線の向こうに消え去った我みたいなものは、ここにはなさそうだ。まだ、…
花に染む心のいかで残りけん 捨て果ててきと思ふわが身に 出家は多くの雑音入りの録音から、ある音域だけを切り取ってみつめる作業のような気がする。そうすると、花に染まっている帯域が意識の中に顕れるのだ。出家をしないと我々はあまりにも多くの作用の…
あくがるる心はさてもやまざくら 散りなんのちや身にかへるべき あくがるる心が身に帰るはずはない。もともと心は身にないからである。 しかし、これが花に対する恍惚的な浮遊感だったから、身に帰らんとしても、ぼーっとしてればいずれはおさまるものである…
鈴鹿山憂き世をよそに振り捨てて いかになりゆく我が身なるらん 「いかになりゆく我が身なるらん」というのは知ったことではないが、――寧ろ問題は、憂き世を「よそに振り捨て」ることが可能かということであった。「よそに」は場所を示唆しない。鈴鹿山がち…
なにごとにとまる心のありければ 更にしもまた世のいとはしき がんばれ西行さん
世の中を捨てて捨てえぬ心地して 都離れぬ我が身なりけり 山家集の前後には捨てたけど捨ててない気がするとか、まだ思い切りが足りないんだとかなんとか歌ったものがあるので、出家の不徹底さを感じていたのだろうと思うんだが、――西行はたぶん周りに「おれ…
大井川舟に乗りえて渡るかな 流れに棹をさす心地して 出家の勢いとは別に、流れに棹差すというその勢いが素晴らしく、それは出家という観念を感じさせないような気がする。 われわれの文化には、言葉を重ね書きして行くところがある。引用への偏執、本歌取り…
惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは 身を捨ててこそ身をも助けめ 家柄と才能をもちながらこんなことを言っているのかとも思うが、人間社会のことである、本当に「惜しまれぬ」ことになってしまうことは屡々起きる。そんなときに、思い切って惜しいなど言わ…
空になる心は春の霞にて世にあらじと思ひ立つかな 三種無二みたいな境地の現れかも知れないのだが、そこはそういう境地を観念的に要請する情況があったと考えた方がよいのではなかろうか。「世にあらじ」という感情は、実際には春の霞が立つという自然とは混…
さてもあらじ今見よ心思ひとりて 我が身は身かと我もうかれむ うまい!!
30度
柳田國男が「先祖の話」で、「遠国分家」について語っていた。それは一種の武家の支配形態でもあり、子ども達にたいする思いやりでもあった――ような話だったように記憶する。水戸家から高松に松平がやってくるみたいなことであるが、これは末端の武士達、ひ…
シテ 山伏といっぱ山伏なり なんと聞こえたことか。 アド 聞こえたことでござる 蟹山伏は楽しい作品だが、考えてみると何が面白いのかはよく分からない。上のような形式論理と蟹が最後まで蟹に見えず、みたいなところが面白いのであろうが、あまりに抽象的な…
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