重たいザックを担ぎ、いささかフラフラしながら降りていった。踏んだ山頂から赤や橙の斜面が広がり、その奥にきれいな三角形の山が毅然として独り立っていた。あ、富士。それだけだ。むしろ周りの色合いが目を浮き足立てる。反対側には遠く日本海に流れ出る川が作った谷が深い。紅葉に彩られた谷には「水源の地」と書かれた木柱が建っていた。日本一長い川の一滴を、僕は掬い、飲んだ。
少しの間、道は不安定だった。下手にガレに乗ってしまうと、足元は揺れて重心を失い、転倒するだろう。目線の高さから岩の安定度を想定して足を下ろす。ある意味、それは一歩に命をかけているような道だ。
ガレ場が終わると、だから心から安堵する。するとその時、向こうから大きな吠え声が聞こえた。犬の吠え声は日本では「ワンワン」だが、それは本当にこう聞こえた。「バウバウ」と。セント・バーナードが居た。アルプスの雪の中でウイスキーの樽を首から下げて人を助けたという、ハイジの家におじいちゃんと住んでいるという、あの犬。ホッとザックを降ろした。山小屋の犬だったか。彼がいれば大丈夫。と、髭モジャの小屋番が出てきて、彼を連れて小屋の中に入った。僕はそこに小さなテントを張った。テントのくぼみが暖かったのは、彼の体温だった。
* * *
僕の山歩きは続いた。あれはどこの山だったか。何処かの山頂から見たあの山を目指した。山頂にある大きな岩はまるで狼煙のように目立つ。その岩は五丈の丈があると聞く。
息を吐きながらガレを上り詰めると山小屋があった。少し休ませてもらおう。ガラス戸を引いて椅子に座った。すると、ヌーっと足の間から黒光りする鼻が出てきた。黒い犬だった。
山頂を踏み、僕は稜線を東に進んだ。今日のテント場はもっと東にある小屋だから。しかし彼は、ずっと僕についてくるのだった。
迷子になるぞ、そう言い、ザックを降ろした。水筒の水をコッヘルにあけた。長くて赤い舌が、ポチャポチャとそれを舐めた。水を飲み終えると、そこに彼はお座りをするのだった。夕暮れに追われるように僕はザックを担ぐ。何度か追い払っても、ついてくる。
困った。山道が平坦になり、シラビソの林の中に粒子が流れてきた。シルクのカーテンにも思えたが、その白い布は簡単にまくれ、向こう側に拍子抜けに飛び出せるのだった。
おい? 振り返ったら、彼はもう居なかった。ただ乳白の霧が、静かに流れていた。
* * *
ビッキーという名前の犬がいた。市の役場のサイトによると、彼の命日には慰霊登山が行われているという。
駅を降りて東に進むと、小さなお寺があった。まわりの家からは朝餉の匂いが風に乗ってきた。里の端から小さな道となった。緩い段々畑には、何が栽培されていたのか、あの頃はそんなものには興味もなかった。
畑の終わりから本格的な登り道。明瞭な尾根に乗ると、向こう側が見えた。そこは大きな採石場だった。山の中の造成墓地のように、段々と切り崩されていた。ザックを下ろして、大きく息を整えた。
その時だった。動物の気配を感じた。何かがいる。こんな里山に熊はいるまい。五感を利かすというのは、こんなことだろうか。単独登山には不安はつきもの。少し怖かったのかもしれない。わざと咳払いをして、ゆっくりと登った。こんな気配を感じ取れるんだな、僕も動物だな、そう苦笑いしながら汗を拭いた。
と、上から降りてきた。ちょうど登山道が向きを変えて急坂になってからだろう。それは一匹の犬だった。僕の少し上で、彼は止まった。赤茶色をした雑種に思えた。
軽快に尻尾を振りながら、彼は山道をギャロップして登っていくのだった。彼と僕の足の速さは違う。まるで迷彩色の軍服のように、彼の姿と色は山の緑に消えてしまった。
迷彩色はカモフラージュとなり、身を隠すのに相応しいが、彼は決して待ち伏せをしていなかった。あの奥秩父の深い尾根道で、霧に消えた彼のように、夢か?と思った。
大きくない山頂だった。立ってみると、リニアモーターカーの試験線路の筒が、真っ直ぐに向かいからこの山に向かって突き抜けていた。
ザックを下ろす。と、向こうで女性登山客の笑い声が聞こえた。「あら、いい子ね。お座りもして。」笑いの中に、彼は居た。なんだ、戻っていたのか。安堵が広がった。
僕の下山道は反対側の谷だった。彼は数歩ついてきたけれど、振り返ると、また緑の中に溶けていた。
この山に犬が住んでいる。そう知ったのは、その後だった。誰が名付けたのか、ビッキーという名前らしい。決して自分の居場所を離れない。その頃からデジタルメディアが広まった。この山の名前とビッキーという名前で検索すれば、いくつかの写真がヒットした。雪の尾根道を、一人前足立ちして北を見ている写真があった。もしかしたら、その村に飼い主と住んでいて、山に散歩に来た時、ご主人は倒れ亡くなったのか? いつか帰ってくるから、と、そこにずっといる。そんな想像も浮かぶほどに、彼のその写真は孤高で美しさがあった。
僕は少し年老いて、癌に罹患した。病床で高原に移住を決めた。綺麗な空気と水。あそこでなら癌も再発しまい、と、小さな車に家内と犬を連れて移った。
いつしか僕は小さな畑をてにかけるようになった。白菜とキャベツが丸くなっている。そんな今も列車に乗り、あの山の麓を走る。車窓から僕は、あの尾根を見る。あの辺りだったな、彼が迎えてくれたのは。一人歩きの不安を感じ取って、来てくれたのだね。
もうそこには居ないことは、市のホームページが伝えてくれた。しかし命日が分かっているのだから、きっと里に住む方に、ハイカーに、愛されていたのだろう。この地の冬は厳しいけれど、それも過ごしてきたのか。
キーボードの向こう、モニターのはるか先に、彼が見えた。少し淋しい思いだった。すると足元に彼が来た。それはビッキーではなく、フクタロウだった。我が家の小さな彼が、トコトコと尻尾を揺らしながら歩いてきたのだった。初めて飼ったシーズー犬・ゴンタロウが去り、寂しさの中に彼が来た。保護施設から引き取ったのだった。
何、淋しいのかい? そう彼は言う。フクタロウを持ち上げると、確かな犬の体温が、そこには在った。
僕の中では、ゴンタロウもフクタロウも、ビッキーも、稜線に消えた彼も、小屋のセント・バーナードも、皆同じ犬に思う。ただ毛皮と骨格を入れ替えただけだ。
また登ってみるかな、あの山に。慰霊の日はいつだろう。福太郎も来るか?
彼は、いつも尻尾を振るのだった。

id:Gonta7LKF31963年生まれ。男
山、自然、音楽、旅、美味しい食べ物が大好き。
57歳で仕事を早期退職、直後脳腫瘍・悪性リンパ腫に罹患。それを機会に残った時間を好きな様に、スローに過ごそうと。還暦の年に好きな南アルプスが見える八ケ岳山麓へ移住。ライフスタイルを見直し、日々の生活のありがたさを感じる、そんな生活のありかたを考えている。
メールアドレス: LKFcharade369@yahoo.co.jp (最初の大文字三文字はダミーです)
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