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一条真也の新ハートフル・ブログ

今年最後の東京出張 

一条真也です。
16日朝の小倉は晴れですが、気温は9度。愛用のコートの上から新しいマフラーを巻きました。サンレー本社に寄って大事な打ち合わせをしてから、北九州空港へ向かいました。そこからはスターフライヤー80便で東京の羽田空港に飛びます。これが今年最後の東京出張となります。

北九州空港の前で


故人の功績を称えて合掌しました

 

北九州空港が誕生した最大の功労者は、元北九州市長の末吉興一氏です。14日、肺炎のため91歳でお亡くなりになられました。わたしは末吉氏の尽力で生まれた北九州空港のおかげで年間に何度も東京出張をすることができます。故人の偉大な功績を称えるとともに、ご冥福を祈って合掌しました。それから「末吉市長、ありがとうございました!」と声を出して感謝の言葉を述べ、深く一礼いたしました。なお、通夜は19日午後7時、葬儀は20日午後1時北九州市小倉北区上富野3の2の8のサンレー小倉紫雲閣で行われます。社員一同、心を込めてお世話をさせていただきます。

いつも見送り、ありがとう💛

それでは、行ってきます💛

 

今回の東京出張は、理事長を務める一般財団法人 冠婚葬祭文化振興財団の理事会および忘年会への参加、参与を務める一般社団法人 全日本冠婚葬祭互助協会の理事会および忘年会への参加が主な目的です。12月4日に出版された最新作「鬼滅の刃」と日本人産経新聞出版)の販促打ち合わせ、来年1月出版の『こども冠婚葬祭』昭文社)、来年3月出版の『本の読み方』『映画の観方』(ともにオリーブの木)に関する打ち合わせも行います。時間があれば、東京でしか観れない映画も観たいですね。

スターフライヤーの機内で

昼食のコンビニおにぎり2個&貝汁

 

11時35分発のスターフライヤー80便の機内は、ほぼ満席でした。テーブルの使用が可能になると同時に、わたしは昼食を取りました。コンビニで買った梅と昆布のおにぎり2個です。最近は羽田空港に到着後、空港内のレストラン「銀座ライオン」でランチすることが多いのですが、この日は時間がなくて、到着後すぐに行動しなければならなかったのです。機内サービスの貝汁と一緒にいただきました。お茶は、自宅から飲みかけのペットボトルを持参したのでタダ。ですので、おにぎり1個158円×2=316円が本日のわたしの昼飯代ですね。トシを取ったら、これぐらいで十分!

食後は機内で読書しました

 

昼食後は、機内サービスのコンソメ・スープを飲みながら読書をしました。この日は、『サム・アルトマン』キーチ・ヘイギー著、櫻井祐子訳(ニューズピックス)を読みました。「『生成AI』で世界を手にした起業家の野望」というサブタイトルがついています。アマゾンには、「世界を変えた生成AI『ChatGPT』を生んだOpenAIの若き創業者、サム・アルトマン。AI時代を先導するこの男は『救世主』か、それとも『破壊者』か。ウォールストリート・ジャーナルのトップ記者が、本人をはじめ重要関係者への徹底取材ですべてに迫る、初の本!」と書かれています。サム・アルトマンとは何者なのか? どんな世界を作ろうとしているのか? いま世界が最も注目する天才起業家のすべてに迫る決定版ノンフィクションです。わたしは天才の脳内の覗くのが大好きなので、とても面白く読めました。ちなみに、来年は「儀式とAI」をテーマのビジネス書を書く予定です。

東京はやや曇りで気温11度

羽田空港にて

 

この日は、13時20分に到着しました。今朝の北九州の気温は9度でしたが、東京はやや曇りで、気温は11度。到着後は定宿である水天宮のホテルに向かいます。ホテルには複数の来客があり、コーヒーラウンジで打ち合わせをこなしていきます。また今夜は、映画関係との忘年会に参加します。相変わらずのハード・スケジュールですが、わがミッション&アンビションを遂行しなければなりません。そうです、「天下布礼」に休みはないのです!

さあ、行動開始です!


映画「男神」がクロアチア国際映画祭で二冠達成!

 

到着後にスマホを開くと、大量のメールやLINEメッセージが入っていました。ブログ「男神」で紹介した神道ファンタジー映画のゼネラルプロデューサーである志賀司さんからは、第3回クロアチア国際映画祭の日本映画祭にて、「男神」が主演女優賞(彩凪翔)&衣装デザイン賞(三宅誠子さん)の二冠達成というビッグニュースが届いていました。これは素晴らしい! ちなみに「男神」には小生も出演していますが、残念ながら助演男優賞は受賞できませんでした。(笑)それと次回作の仏教映画「仏師」の田中綱一監督から連絡があり、来年3月26日に同作に出演することが正式に決定しました。ようやく撮影日も決まり、安心しました!


本日の葬儀、参列したかった!


供花の芳名板には錚々たる面々が・・・

 

それから「出版寅さん」こと内海準二さんから、この日の午前中に行われた映画監督の原田眞人氏の葬儀告別式の写真が送られてきました。わたしもぜひ参列したかったのですが、どうしても時間が合いませんでした。明日の午前中なら参加できたのですが、それは仕方のないことです。お花を贈らせていただきましたが、供花の芳名板を見ると、まさに"THE  日本映画界”といった感で、錚々たる面々の名前が並んでいました。今日は原田監督への追悼へ想いを込めて、ブログ「ラスト  サムライ」をUPしましたが、13000字を超える渾身のレビューとなりました。それを読んだ内海さんからは「追悼ブログ、監督も喜ばれておられることと存じます。一条真也にかかると縦横無尽、無限に世界観が広がります」とのLINEメッセージを頂戴しました。この師走、末吉元市長や原田監督といった偉大な方々の訃報に接し寂しい限りですが、故人の偉業と人となりを忘れずに生きていきたいと思います。わたしは「死者を忘れて、生者の幸福なし」ということを信じているからです!



*よろしければ、佐久間庸和ブログもお読み下さい!

 

2025年12月16日 一条真也

「ラスト サムライ」

一条真也です。
U-NEXTでアメリカ映画ラスト サムライを22年ぶりに観ました。ブログ「さらば愛しの映画監督」ブログ「『ラスト サムライ』から『国宝』へ」で紹介したように、映画監督の原田眞人氏の訃報に接したことがきっかけです。昨年の師走も女優・中山美穂さんの訃報に接してブログ「Love Letter」で紹介した彼女の主演作を再鑑賞しましたが、このような訃報に導かれての映画鑑賞はとても大切で、映画人には最高の供養ではないかと思います。

 

ラスト サムライ」(原題: THE  LAST  SAMURAI)は、2003年のアメリカの叙事詩的時代劇アクション映画です。エドワード・ズウィックが監督・共同製作し、ジョン・ローガン、マーシャル・ハースコヴィッツと共同で脚本を務めました。主演は共同製作のトム・クルーズで、渡辺謙ティモシー・スポールビリー・コノリー、トニー・ゴールドウィン真田広之小雪、小山田真らが出演。日本の映画監督であり原田眞人も出演、日本の大臣で実業家でもあった大村松江を演じました。本作は日本人俳優がハリウッドに進出する契機となり、渡辺謙真田広之は外国映画に数多く出演しています。

 

明治維新直後の日本。政府は軍事力の近代化を図ろうと西洋式の戦術を取り入れることを決断。一方で前時代的な侍たちを根絶させようと企んでいました。やがて、政府と発展著しい日本市場を狙うアメリカ実業界との思惑が一致、政府軍指導のため南北戦争の英雄ネイサン・オールグレン大尉(トム・クルーズ)が日本にやって来ます。彼はさっそく西洋式の武器の使い方などを教え始めますが、ある時、政府に反旗を翻す侍のひとり、勝元盛次(渡辺謙)と出会います。そして、彼ら侍たちの揺るぎない信念に支えられた“サムライ魂”を感じ取った時、オールグレンは失いかけたかつての自分を思い出していくのでした。

 

ラスト サムライ」の日本での興行収入は137億円、観客動員数は1410万人と、2004年度の日本で公開された映画の興行成績では1位となりました。一方、本国のアメリカでは2003年12月1日にプレミア上映されたのち、12月5日に2908館で公開され、週末興行成績で初登場1位になっています。その後も最大で2938館で公開され、トップ10内に7週間いました。興行収入は1億ドルを突破し、2003年公開作品の中で20位でした。日本人俳優が海外に進出する1つの契機を築いただけでなく、日本文化そのものを象徴する「武士道」の存在とその魅力を世界中に知らしめたという意味でも、「ラスト サムライ」は映画史に残る重要な作品であると思います。

 

ラスト サムライ」はワーナー・ブラザーズなどが製作したアメリカ映画ながら、日本を舞台に日本人と武士道を偏見なく描こうとした意欲作です。多数の日本人俳優が起用されたことも話題を呼びましたが、その中でも「勝元」役を演じた渡辺謙は、ゴールデングローブ賞助演男優賞、ならびに第76回アカデミー賞助演男優賞にノミネートされました(いずれも受賞には至らず)。戦闘シーンの苛烈さや、一部に介錯シーンなどを含むため、アメリカ公開時はR指定(17歳未満の鑑賞は保護者同伴が必要)となっている(日本では全年齢指定)。興行収入は4億5600万ドルで、公開当時、演技、脚本、監督、スコア、映像、衣装、メッセージなどが高く評価されました。また、アカデミー賞4部門、ゴールデングローブ賞3部門、ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞2部門など、数々の賞にノミネートされました。

 

トム・クルーズが演じるのは、アメリカ第7騎兵連隊のネイサン・オールグレン大尉です。彼は、かつてアメリカの先住民との戦いで心に深い傷を負った南北戦争の英雄でした。日本政府に雇われ、近代的な軍隊の訓練を指導するため来日するも、勝元率いる反乱軍との戦いで捕虜となります。彼らと共に過ごす中で、武士道の精神や日本の文化に触れ、次第に武士たちの生き方に深く共感していきます。Wikipedeia「ラスト サムライ」には、「この映画のプロットは、1877年の西郷隆盛による西南戦争と、外国勢力による日本の西洋化にヒントを得ているが、映画の中ではアメリカが西洋化を推し進めた主要な勢力として描かれている。また、戊辰戦争榎本武揚と一緒に戦ったフランス人陸軍大尉のジュール・ブリュネや、常勝軍を結成して中国の西洋化に貢献したアメリカ人傭兵のフレデリック・タウンゼント・ウォードの話にも影響を受けている」と書かれています。

 

トム・クルーズが演じる主人公ネイサン・オールグレンのモデルは、江戸幕府フランス軍事顧問団として来日し、榎本武揚率いる旧幕府軍に参加して1868年に起こった箱館戦争戊辰戦争)を戦ったジュール・ブリュネ(1838年~1911年)は、フランス陸軍の陸軍将校です。江戸幕府陸軍の近代化を支援する目的で派遣されたフランス軍事顧問団の一員として訪日し、榎本武揚率いる旧幕府軍に参加しました。ナポレオン3世は開国した日本との関係を深めるため、第15代将軍・徳川慶喜との関係を強め、1866年に対日軍事顧問団を派遣することを決めました。ブリュネはシャルル・シャノワーヌ参謀大尉を隊長とする軍事顧問団の副隊長に選ばれたのです。1868年の戊辰戦争ではナポレオン3世に書簡を送り、アメリカやイギリスの軍人が倒幕派に加担していることを伝えています。帰国後は将官に就任。

 

ラスト サムライ」は1876年の横浜港から物語が始まりますが、その翌年の1877年には「西南戦争」が起こっています。明治維新の立役者である西郷隆盛が挙兵した戦いで、日本国内における最後の内戦です。「ラストサムライ」で渡辺謙はカリスマ性あふれる武士・勝元を演じましたが、モデルは西郷隆盛だとされています。1828年に鹿児島で生まれた彼は鹿児島藩島津斉彬に取り立てられます。安政の大獄と斉彬の死を契機に入水自殺を図った後、公武合体を目指す島津久光のもとで活躍するも、久光と衝突し、配流。召還後、第1次長州征討では幕府側の参謀として活躍。以後、討幕へと方向転換をはかり、坂本竜馬の仲介で長州の木戸孝允薩長連合を結びました。勝海舟とともに江戸城無血開城を実現し、王政復古のクーデターを成功させます。新政府内でも参議として維新の改革を断行。明治6年(1873年)、征韓論に敗れ下野。明治10年(1877年)、郷里の私学校生徒に促されて西郷は挙兵します。これが西南戦争ですが、政府軍に敗北し、西郷は自刃しました。

 

トム・クルーズ演じるネイサン・オールグレン、渡辺謙演じる勝元に続いて、「ラスト サムライ」で大きな存在感を放っているのが真田広之が演じる氏尾。勝元に次ぐサムライたちのリーダー格です。見事な剣さばきでしたが、本作以降の真田は拠点をロスに移して、多くのハリウッド映画に出演。世界進出については師の千葉真一からアドバイスを受けており、「(師は)いつも世界市場の未来に目を向けていたので、その姿勢に大きな影響を受けました。おかげで将来、他の素晴らしい俳優や監督と一緒に仕事をするには、どうしたらいいかを考えるようになりました」と話しています。2024年、ディズニープラスSTARオリジナルシリーズで初めて主演とプロデューサーを務めたドラマSHOGUN 将軍」アメリカ合衆国テレビ業界の最高栄誉であるエミー賞にノミネートされ、ドラマシリーズ部門主演男優賞を、2025年1月にはゴールデングローブ賞のテレビドラマ部門主演男優賞をそれぞれ受賞。両賞共に日本人が受賞するのは彼が初めてとなりました。これは偉業ですね!


村松江を演じた原田眞人

 

そして、今年12月8日に76歳で亡くなられた原田眞人監督。「ラスト サムライ」では、俳優として大村松江を演じています。原田監督が本作に出演していることは知っていましたが、失礼ながらチョイ役だと思い込んでいました。それが22年ぶりに再鑑賞して、あまりの存在の大きさに仰天しました。これは、トム・クルーズ渡辺謙真田広之に次ぐ、4人目の男ではないですか! そもそも、大村松江とは何者か。日本の政治家で実業家だということになっていますが、映画スクエアの「大村松江(原田眞人)」の項には「フランスの法律家、ドイツの技術者、オランダの建築家といった多くの外国人を日本に招いて近代化を進めるなど、明治維新後の政府の要人として大きな力を持っている。また、鉄道などの利権を押さえた財閥のリーダーでもある。政府との契約を急ぐアメリカ大使を他国との契約をちらつかせて黙らせるなど、巧みな交渉術も持つ」と書かれています。

村松江は明治新政府の権化だった!

 

村松江のモデルは1人に限定できません。名前だけなら大村益次郎を連想しますが、その風貌は伊藤博文。キャラクター的には大久保利通山縣有朋の面影もあります。まあ、明治新政府の権化のような存在、それが大村松江なのでしょう。大村は、新政府に従わない勝元を鎮圧するために軍備を強化し、自らサンフランシスコに渡って軍の教練する人物としてオールグレンやバグリーを日本に連れ帰ります。自らの財閥が関与した鉄道を勝元が襲った時には、兵士が未熟であることを理由に出撃に否定的なオールグレンの意見を受け入れずに出撃。結果として大打撃を受け、オールグレンが勝元に捕らえられてしまいます。その後の忍者による勝元襲撃の首謀者とも見られています。ちなみに明治時代に忍者は存在しないので、これは明らかに時代考証がおかしいですね。

 

その後、大村は天皇の命令として勝元を東京に呼び出し、元老院に出席させます。その際に、廃刀令に従わずに刀を持って元老院にやって来た勝元を捕らえて、自宅に謹慎させるのでした。しかし勝元が自宅から村に帰ったことから、鎮圧のための軍を勝元の村に出撃させ、大村は自らが司令官を務めます。勝元やオールグレンの戦術に翻弄されながらも、最後はガトリング銃で勝元の軍を倒すのでした。映画のラスト近くで勝元の刀を献上するためにオールグレンが天皇の謁見に現れた時には、勝元の思いを理解した天皇から叱責されて反論します。だが、「恥辱に耐えられなければこれを使って腹を切れ」と刀を渡され、何も言い返せない姿を見せるのでした。原田眞人、一世一代の名演技に感服いたしました。

 

映画「ラスト サムライ」では西南戦争を連想させる戦いが描かれていますが、オールグレンのモデルであるジュール・ブリュネが参戦したのは箱館戦争戊辰戦争)でした。これも西南戦争と並んで、最後の侍たちの戦いでした。原田眞人監督はブログ「燃えよ剣」で紹介した作品を2021年に発表しましたが、これはまさに箱館戦争戊辰戦争)の物語でした。司馬遼太郎のベストセラー小説を原作にした時代劇ですが、新選組の副長・土方歳三の姿を、近藤勇沖田総司といった他の志士たちの人生と共に活写します。江戸時代末期、黒船来航と開国の要求を契機に、天皇中心の新政権樹立を目標とする討幕派と、幕府の権力回復と外国から日本を守ることを掲げた佐幕派の対立が表面化。そんな中、武士になる夢をかなえようと、近藤勇鈴木亮平)や沖田総司(山田涼介)らと京都に向かった土方歳三岡田准一)は、徳川幕府の後ろ盾を得て芹沢鴨伊藤英明)を局長にした新選組を結成。討幕派勢力の制圧に奔走する土方は、お雪(柴咲コウ)という女性と運命の出会いを果たすのでした。ラストの函館戦争で土方が散ってゆく映画「燃えよ剣」こそは、まさに原田版「ラスト サムライでした!

 

燃えよ剣」で主人公・土方歳三を演じた岡田准一は、ブログ「イクサガミ」で紹介した今年11月13日配信開始のNETFLIXの大ヒットドラマでも主演しています。明治11年2月、豊国新聞に「大金を得る機会を与える」との広告が掲載され、その3か月後、5月5日の未明に腕に覚えがある292人が京都・天龍寺に集まりました。始まったのは、7つの掟が課せられた「蠱毒(こどく)」と呼ばれる奇妙な「遊び」。点数を集めながら、東海道を辿って東京を目指せという。参加者には木札が配られ、1枚につき1点を意味します。点数を稼ぐ手段はただ1つ、木札を奪い合うこと。手段は問わない。大金を必要としていた剣客・嵯峨愁二郎(岡田准一)は、12歳の少女・香月 双葉(藤﨑ゆみあ)と共に道を進んでいきますが、強敵が次々出現。金か、命か、誇りか。滅びゆく侍たちの死闘が始まるのでした。この「イクサガミ」も最後の武士たちの姿を描いており、まさに令和版「ラスト サムライといえます!

 

さて、映画「ラスト サムライ」で登場シーンが短いにもかかわらず圧倒的な存在感を示しているのが明治天皇です。歌舞伎役者の中村七之助が演じました。本作で描かれている当時はまだ若年であった明治天皇ですが、かつて教えを受けた勝元らが近代化に取り残されていく現状に心を痛めています。興味深かったのは、天皇への拝謁シーンです。オールグレンが明治天皇に拝謁する場面は2回ありましたが、最初に「天皇は一般人に姿を見せない。これは異例の名誉で謁見には作法がある。話しかけられたら答え、天皇が立ったら低く頭を下げる」などのアドバイスを受けます。しかし、オールグレンは帯刀して天皇に謁見しており、これは絶対に有り得ないことです。その後、明治天皇も同席する元老院の場で勝元は帯刀して現れ、大村から「廃刀令をご存知ないのか!」と叱責されますが、これも廃刀令うんぬん以前に刀を持って天皇の前に現われるというのは有り得ないのです。もちろん廃刀令が出る以前の江戸時代でもそうでした。

 

映画の最後でもオールグレンは明治天皇に謁見しますが、いったん逆賊に加担した彼が天皇に会えること自体が疑問ですね。そもそも、勝元率いる反乱軍と官軍との戦いにおいて、官軍の回転式機関銃ガトリング砲によって勝元を含む反乱軍の全員が死亡しました。そのときオールグレンも勝元の側にいたのに、彼だけが生き残ったのも不思議です。というか、脚本の粗さを感じました。生き残ったオールグレンは明治天皇に拝謁。そこで勝元の生きざまを語り、遺刀を渡しました。受け取った天皇は勝元の刀と彼の教えを取り戻し、結んだばかりのアメリカとの契約を破棄。全てを水の泡にされ激怒する大村でしたが、決意を新にした天皇に完全に説き伏せられます。そして天皇はオールグレンに勝元の「死に様」を尋ねました。オールグレンは彼の「生き様」を話し、勝元の遺志を伝えました。それは日本が真に近代国家に生まれ変わるための、勝元からのメッセージでした。

 

 

映画「ラスト サムライ」で描かれている侍たちはあくまでアメリカ人から見たそれであり、ジャポニズムもあってかなり武士道が美化されているという批判もあります。ただ、この映画が「武士道とは何か」を考えさせる作品であることは事実です。武士道と言えば、誰しも思い浮かべるのはブログ『武士道』で紹介した新渡戸稲造の名著でしょう。 明治32年(1899年)に刊行された英文『武士道』が、その直後の日本の目覚しい歴史的活躍を通していかに見事にその卓見を実証していったか、いまでは想像もできないほどのものでした。ことに、義和団の乱日清戦争日露戦争における正々堂々たる戦いぶりと、敗者への慈悲を通して、です。のみならず、自らの潔い死がありました。  こうしたふるまいは、すべて、極東の未知のこの小国における、他のどこにもない「ブシドー」という、ある生き方の極みのフォルムによるものであると知って、世界は熱狂しました。

「鬼滅の刃」と日本人』(産経新聞出版

 

わが最新作「鬼滅の刃」と日本人産経新聞出版)でも指摘しましたが、現在世界中のエンタメ界を席捲している「鬼滅の刃」の物語には、神道儒教・仏教の三宗教のメッセージが溢れています。ブッダが開いた仏教、孔子が開いた儒教は、日本人の「こころ」に大きな影響を与えました。加えて、日本古来の信仰にもとづく神道の存在があります。神儒仏が混ざり合っているところが日本人の「こころ」の最大の特徴であると言えるでしょう。「日本人の心の三本柱」である神道儒教・仏教の三宗教は日本において共生しました。そして、三宗教は混ざり合って、武士道の中で合体を果たしました。そのことを初めて明言したのが新渡戸稲造の『武士道』だったのです!

 

武士道とは、いったい何か。「日本に武士道あり」と世界に広く示した新渡戸は、「日本の象徴である桜花にまさるとも劣らない、日本の土地に固有の花、それが武士道である」と述べています。それは、日本史の本棚の中に収められている古めかしい美徳につらなる、ひからびた標本の1つではありません。それは、今なお、わたしたちの心の中にあって、力と美を兼ね備えた生きた対象です。それは、手にふれる姿や形は持ちませんが、道徳的雰囲気の薫りを放ち、今もわたしたちを引きつけてやまない存在なのです。新渡戸博士は「武士道は、舞台のサムライが花道を去るがごとく、遠からず消えていく運命にある」との予言を残していましたが、栄光に包まれて昭和8年(1933年)に世を去りました。当然、後の世に、自分の「予言」が的中したか否かを知ることはなく。はっきり言えば、「戦後日本」は博士の予言は的中したと信じました。つまり、日中戦争から太平洋戦争にかけて、武士道は失われたのだ、と日本人自身が思ったのです。


知覧特攻平和会館の前で

 

しかし、日露戦争に比べれば日本の欠点がすべて出たような先の戦争においても、武士道は発揮されたとわたしは考えています。ブログ「知覧特攻平和会館」で紹介した鹿児島の知覧にある施設を訪れたとき、それを強く実感しました。わたしは、沖縄の「ひめゆり祈念資料館」や「広島原爆資料館」のごとく戦争の悲惨な記憶をとどめる資料館として知覧特攻平和会館をイメージしていました。しかし、一歩館内に入るなり、身体が凍りついたような状態になりました。そこには千を超える死者の顔写真や遺書や辞世の歌などが展示されていました。遺書や辞世に書かれた字および内容はどれも立派で、現在の若者のそれとは比較にもなりません。どれにも、自分は死んでゆくけれども、残った家族や国民には健康で幸福な人生を送ってほしいというメッセージが記されていました。よく言われるように、それは軍国主義における洗脳教育の賜物かもしれません。でも、「自己犠牲」という武士道の伝統をわたしはそこに見たのです。南の空に散っていった神風特攻隊の少年や青年たちはサムライでした!

 

出撃の前日、数名の少年兵たちが子犬を囲んでいる有名な写真があります。「朝日新聞」の記者に求めに応じて撮影された写真ですが、明日出撃の命令を受けた直後の17・18歳の少年たちが、やさしい笑顔で捨てられた子犬を慰めているのです。明日、確実に死ぬとわかっているのに、子犬に思いやりをかける!わたしは、この写真を初めて見たとき、泣けて泣けて仕方がありませんでした。『葉隠』に「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」とあるように、かつての武士たちは常に死を意識し、そこに美さえ見出しました。生への未練を断ち切って死に身に徹するとき、その武士は自由の境地に到達するといいます。そこでもはや、生に執着することもなければ、死を恐れることもなく、ただあるがままに自然体で行動することによって武士の本分を全うすることができ、公儀のためには私を滅して志を抱けたのです。

 

 

三島由紀夫が愛してやまなかった葉隠にある「武士道といふは死ぬ事」の一句は実は壮大な逆説であり、それは一般に誤解されているような、武士道とは死の道徳であるというような単純な意味ではありません。武士としての理想の生をいかにして実現するかを追求した、生の哲学箴言なのです! そして、まさにその生の哲学を、私は知覧の記念館でくっきりと見せつけられたのです。特攻隊員は自ら死を望んだのではなく、軍部によって殺されただけではないかという意見もあろうかと思います。しかし、おそらくほとんどが死の前日に撮影されたであろう彼らの遺影には、一切を悟った禅僧のような清清しさがありました。彼らは、決して犬死にをしたのではなく、その死は武士の切腹であったと確信します。いくら長生きしても、だらだらと腐ったような人生を送る者も多いけれども、彼らは短い生を精一杯に生き、精一杯に死んでいったのではないでしょうか。

 

そして、「いま甦る、武士道の美学 真のラスト・サムライとは誰か」にも書きましたが、戦後最大のタブーであるA級戦犯と呼ばれる人々に関しても、そこには武士道が存在したという見方があります。巣鴨A級戦犯たちの最後の様子を記録したレポートなどを読むと、「仏室」の外の廊下で、二班に分かれた死刑囚が、手錠をはめられた手でコップを持ち、末期の水ならぬワインを飲んでから、それぞれ両脇の看守兵を見やって、「ご苦労さん、ありがとう」と声をかけたそうです。慣習からして、思いもかけないことが起こったため、これを見て感動した周囲の米軍将校たちは、わらわらと駆け寄って、手錠に手を重ねたといいます。それから、緊縛された両手を挙げての、声をかぎりの「天皇陛下万歳!」があり、二度の、ばたんという刑場の落とし戸の音が響きました。A級戦犯と呼ばれた人々は、むろん、聖人ではありません。それどころか多くの国民を死なせた責任、何よりも戦争に負けた責任を背負う、断罪された6人の軍人と1人の文官にすぎません。しかし、終焉を待つ心境の深さにおいて、日本人として恥ずべきものは何もありませんでした。

 

死に方に現われない生き方はありません。そして至高の死に方を辞世に託する武士道文化は、日本しかありません。従容として死を迎える覚悟を詠んだ彼らの辞世の数々を読んで、そこに共通に表現された「平和日本の人柱」との自覚は、罪状とされた「平和・人道に対する罪」の呪わしさとは、およそ正反対のものであったのです。「ニュールンベルク裁判」は、東京裁判に先立つこと2年2カ月、1946年に死刑執行をみています。死刑宣告を受けた12人中、1人は逃亡していましたし、ゲシュタポの巨魁、ゲーリングは執行前夜に獄中で自殺。このことが日本側の受刑者たちにわざわいして、自殺防止のため夜通し白燭電灯を煌々と独房にともされ、不眠の苦痛を強いる結果になりました。運命との正面対決を受け入れた日本人受刑者にとっては迷惑きわまりない話です。ついに翌日執行を通告しに現われた米軍代表団に向かって、松井石根大将は、「絞首刑で死ぬことは有難い。自殺などしたら意味がない」、東条英機は「あなたがたは警戒しすぎだ。われわれは自殺などしない。立派に死んでいってみせる」と堂々と申し渡しています。

 

ナチス戦犯のほうは、そうではありませんでした。残り10人の受刑者に、即日死刑執行を告げに代表団が現われるや、ある者は「ぶっきらぼうに不機嫌な声を吐き出し」、ある者は「絶望し、罵りながら、アメリカの法廷など尊敬するものか」と毒づくありさまでした。裁判中にも、ドイツ戦犯は互いに激しく「罪をなすりあった」り、上からの命令、さらには死んだ仲間のせいでやったんだと他を告発したりの例が目立ちました。まして、死刑宣告のさいの反応は想像に余りあるものだったそうです。日本の場合にも、宣告の瞬間には、当然ながら暴言を吐いたり失神したりの様子が呈されるだろうと、海外の報道陣は興味津々でしたが、その期待はまったく裏切られてしまいました。自若として宣告を聴くや、静かにレシーバーをはずし、のみならず、軽く会釈して退場していく者さえあったのです。なんと皮肉なことか。東京裁判の死刑宣告の際に、わが国の武士道は世界にその存在を広く示したのでした! A級戦犯たちの絞首刑もまた、武士の切腹だったのかもしれません。

 

「世界のクロサワ」と呼ばれた黒澤明監督は、終戦直後に歌舞伎の「勧進帳」を映画化した「虎の尾を踏む男達」を人気のエノケンらを起用して製作しました。そのときの義経や弁慶の一行は、A級戦犯の人数と同じ7人でした。黒澤監督は東京裁判の法廷を「安宅の関」に見立て、連合国側に「武士の情」を求めたのでしょうか。1945年に製作された「虎の尾を踏む男達」ですが、1948年12月23日にA級戦犯たちが処刑された後の1952年に公開されています。戦犯の処刑後、黒澤明監督によって世界の映画史上に輝く大傑作が1954年に作られました。その名も七人の侍! ブログ「『七人の侍』新4Kリマスター版」で紹介した日本映画史、いや世界映画史に燦然と輝く最高傑作です。現在では、これらは平和の人柱となった人々へのクロサワからのオマージュだとされています。7人の死刑囚は、7人のラスト・サムライだったのです!


2020年1月1日付「朝日新聞」朝刊

 

今年は終戦80年。現在わたしたちが謳歌している平和の背後には、多くのサムライたちの犠牲があったことを忘れてはなりません。そして、「死生観は究極の教養である」というわが持論からすれば、武士とは「死を受け容れて美に生きる」という究極の死生観を持った教養人であったと思います。映画「ラスト サムライ」を観た後、わたしは「おそれずに 死を受け容れて 美に生きる そこに開けり サムライの道」という道歌を詠んだのですが、それが15年後の朝日新聞の元旦の朝刊で紹介されました。この歌が、ラグビー日本代表強化委員長の藤井雄一郎さんの心に響いたそうです。2020年のラグビー日本代表の面々は、同年最も活躍した「令和元年の顔」でした。ワールドカップで初のベスト8入りした奮闘ぶりは、日本中に感動を与えました。じつは、彼らが心の支えにしていたのが、わたしが詠んだ歌だったと知りました。日本代表は、サムライの美しさを意識したチーム作りをしました。その中心にいた藤井さんは、インターネットで検索し、この歌にたどり着いたそうです。かつての武士が身につけていた潔さや謙虚さを教わる気持ちになったといいます。初めてそれを知ったときは驚きました。



そして、これを知ったわたしは非常に驚くとともに、とても嬉しく感じました。「歌を詠み続けてきて本当に良かった!」とも思いました。わたしは2001年の社長就任のときから「庸軒」の雅号で、短歌を詠んでいます。総合朝礼や社長訓示の際はもちろん、各種の全国責任者会議、竣工記念神事、入社式から創立記念式典に新年祝賀式典まで、とにかくありとあらゆる機会に歌を詠み、社員のみなさんに披露します。そこには当社の「志」を詠み込んでいます。「志」と「詩」と、さらに「死」は本来分かちがたく結びついていました。日本人は辞世の歌や句を詠むことによって、死と詩を結びつけました。映画「ラスト サムライ」でも勝元が辞世の句を作るのに苦心する場面が描かれています。死に際して詩歌を詠むとは、おのれの死を単なる生物学上の死、つまり形而下の死に終わらせず、形而上の死に高めようというロマンティシズムの表われだと言えるでしょう。そう、それは日本的「ロマンティック・デス」なのです!



そして、死と志も深く結びついていました。死を意識し覚悟して、はじめて人はおのれの生きる意味を知ります。有名な坂本龍馬の「世に生を得るは事を成すにあり」という言葉こそは、死と志の不可分の関係を解き明かしたものにほかなりません。来年はサンレー創立60周年のアニバーサリー・イヤーですが、これまでに詠んだ道歌を選んで『禮の言霊』という歌集を講談社から上梓する予定です。著者名は、もちろん雅号の「庸軒」です。わたしは、これからも多くの歌を詠み続けていき、生涯に1万首は詠みたいと願っています。最後に、「天高く 手を伸ばせども 届かねば 歌に託さん わが志」という歌を披露したいです。

道歌で「禮の言霊」を伝えたい!

 

2025年12月16日 一条真也

末吉興一市長の思い出

一条真也です。
明日、12月16日から東京に出張します。年内最後の出張で、北九州空港からスターフライヤーに乗って羽田に飛びます。その北九州空港の開港の最大の功労者である末吉興一氏(元北九州市長)がお亡くなりになられました。

ヤフーニュースより

 

わたしが訃報に接したのは14日でしたが、15日の朝、「元北九州市長の末吉興一さん死去 91歳 北九州空港の整備に尽力」という見出しで毎日新聞配信のヤフーニュースの記事がアップされました。記事には、「北九州市長を5期20年務めた末吉興一(すえよし・こういち)さんが14日、肺炎のため死去した。91歳。通夜は19日午後7時、葬儀は20日午後1時、北九州市小倉北区上富野3の2の8のサンレー小倉紫雲閣。喪主は妻ミヨ子(みよこ)さん」と書かれています。

父・佐久間進と末吉興一氏を囲む(2012年)

 

また、記事には末吉氏について「北九州市出身。東大を卒業後、1958年に建設省(現国土交通省)に入省。河川局次長や国土庁土地局長などを経て、87年の市長選で初当選した。強力なリーダーシップで市政をけん引し、24時間離着陸が可能な海上空港北九州空港(同市小倉南区、福岡県苅田町)や、新産業の創出と地域産業の高度化を目指す北九州学術研究都市(同市若松区)などを整備。門司港(同市門司区)周辺に残る古い町並みを活用し、「門司港レトロ地区」として知られる人気観光地にも成長させた」と書かれています。この門司港レトロ地区の開発はわが父・佐久間進北九州市観光協会会長時代に情熱を傾けた事業です。父は「門司港レトロ倶楽部」の初代会長も務めました。

父・佐久間進と末吉市長(1994年)

 

末吉氏は福岡県選出の麻生太郎元首相と関係が深く、2007年の市長退任後、麻生氏の外相在任中に外務省参与を、首相在任中には内閣官房参与を務められました。わたしは生前大変お世話になりました。よくスターフライヤーの機内でお会いました。末吉氏はいつも最前列に座られていて、後方にいるわたしに気づくと隣席に誘ってくれました。わたしがお隣に座ると、「最近、ご商売の方はいかがですか?」と質問され、経済をはじめ、政治や社会全般のお話を羽田着陸の1時間半近くお話しました。いつも「あなたの本は読んでいますよ。よく勉強されているね」とも言って下さいました。

寄付金の目録を末吉市長(当時)にお渡ししました

 

今からちょうど30年前、わたしが32歳で小倉高校の明陵同窓会総会の当番幹事長を務めたときは、母校の体育館の壇上で同窓生一同からの寄付金を末吉市長(当時)にお渡ししたことも良い思い出です。本当にアイデアマンで、実行力があって、何よりも北九州市を深く愛しておられました。北九州市の歴史を見ても、間違いなく最強で最高の市長さんでした。心より御冥福をお祈りいたします。通夜式および葬儀告別式はわが社の総力をあげてお世話させていただきます。

 

*よろしければ、佐久間庸和ブログもお読み下さい!

 

2025年12月15日 一条真也

友田紫雲閣竣工式 

一条真也です。
15日の朝、北九州市長を5期20年務めた末吉興一氏が肺炎のため91歳で亡くなられたという報道がありました。わたしは昨日訃報に接しましたが、生前は大変お世話になりました。北九州市の歴史に燦然と輝く最高の市長さんでした。心より御冥福をお祈りいたします。

ヤフーニュースより

 

故末吉興一様の通夜は19日午後7時、葬儀は20日午後1時、いずれもわが社の小倉紫雲閣で行われます。社員一同、心をこめてお世話をさせていただく覚悟です。なお、本日、わが社の新施設である「友田紫雲閣」が完成。竣工清祓神事が行われました。

友田紫雲閣の外観

友田紫雲閣の前で

友田紫雲閣の宗木支配人と

ロビーには多くの胡蝶蘭が・・・・・・

友田紫雲閣の場所は、大分県日田市南友田112-7です。サンレーグループとしては、大分県内で11番目、全国で95番目(いずれも完成分)のセレモニーホール(コミュニティホール)です。いよいよ、創立60周年に向けての100店達成が見えてきました。あと、もう少しです!

高級マンションのような遺族控室

休憩室のようす

バスルームのようす

ブックレット・コーナー

 

新しい友田紫雲閣は、まるで高級マンションのリビングルームのような、ゆったりとした最新の控室を完備しています。大切な人との最後の時間を心安らかに過ごせるよう、経験豊富なスタッフが真心込めてお手伝いいたします。

さあ、儀式の場へ!

本日の神饌

本日の式次第


最初はもちろん一同礼!


竣工式のようす

神事のようす

清祓之儀のようす

 

竣工神事の進行は、サンレー大分事業部の清水課長が担当。竣工神事は、地元を代表する神社である大原八幡宮の橋本公俊神職にお願いいたしました。開式の後、修祓之儀、降神之儀、献饌、祝詞奏上、清祓之儀を行いました。

低頭しました


玉串を拝受しました


柏手を打ちました


拝礼しました

祐徳常務に合わせて拝礼


神事の終わりは一同礼!

 

それから、玉串奉奠です。最初にサンレー社長であるわたしが玉串を奉奠。設計を担当した有限会社ウトウ設計の兎洞正和社長、施行を担当した豊建設工業株式会社の梶原雄一社長が続き、最後はサンレーの祐徳秀信常務が玉串奉奠し、社員が従いました。その後、撤饌、昇神之儀、そして閉式と、滞りなく竣工清祓神事を終えました。

橋本神職から祝辞を頂戴する

橋本神職の発声で神酒拝戴しました

 

その後は「神酒拝戴」です。
乾杯の御神酒を持った大原八幡宮の橋本神職が御挨拶の中で「本日は、まことにおめでとうございます。この素晴らしい施設が地域の方々にとっての永遠の旅立ちの場所となることを願っております」と言っていただきました。その後、高橋神職の発声で参加者全員で神酒を拝戴しました。

主催者挨拶をしました

本当に嬉しく思います

次は、いよいよ主催者挨拶です。わたしは、次のように挨拶しました。本日、このように立派な施設を建設できて、本当に嬉しく思います。関係者のみなさまに心より感謝いたします。これで、わが社の会員様に満足のゆくサービスを提供できます。ぜひ、新施設で最高の心のサービスやケアを提供させていただき、この地の方々が心ゆたかな人生を送り、人生を卒業されるお手伝いをさせていただきたいです。

友田という土地について

 

友田は、太古の昔から人が住み、祈りを捧げてきた場所です。北友田には「北友田横穴墓群」と呼ばれる遺跡があり、古墳時代後期から古代にかけての横穴墓が複数確認されています。さらに、花月川と三隈川の合流点にそびえる星隈山(星隈公園)には、山腹に広がる横穴墳群や高塚式古墳が残されており、古代からの集落の存在を物語っています。つまり友田は、「葬送と祈りの営み」が何世代にもわたって積み重ねられてきた土地です。この地に「友田紫雲閣」が誕生することは、古代から続く祈りの系譜に新たな“送りの場所”が加わることを意味しているように思えてなりません。

星隈山と友田の関わりについて

 

星隈山と友田は、近世初期の城づくりとも深く関わっています。慶長6年(1601年)、小川壱岐守光が日田北部の領主となった際、月隈城を築くまでの間、星隈山に仮城を置いたという記録があります。現在では公園となっていますが、当時は軍事的要地として重視されていた場所でした。また、友田は江戸期には「友田村」として豊後国日田郡に属し、約930石を有する農村として栄え、日田の城下町を支える基盤でもありました。城下町整備の際には、友田村の人々が城下へ移されたという伝承も残ります。町の発展の陰に、友田の人々の労苦と貢献があったのです。江戸中期には、日田の名刹・岳林寺の寺領として、幕府から友田村の田地が寄進。幕府直轄領であった友田村のうち30石が、五代将軍綱吉名義で寺領として与えられた記録が残っています。

「共田」から「友田」へ

 

この事実は、友田が豊かな田地を持ち、価値ある村として扱われていたことを示しています。単に農地としての価値だけでなく、精神文化を支える地としても重要視されていたのでしょう。「友田」という地名の語源を確定する資料は現段階では見つかりません。しかし、近世以前から「友田村」という名称が使われていたことは確かであり、その名は長く受け継がれてきました。“友”という文字は、人と人が寄り添い、支え合う姿を表すと言われます。また、共同で耕す「共田(ともだ)」から転訛した可能性も、地名研究ではしばしば指摘されます。まさに「相互扶助」の聖地のような場所ではないですか! わたしは静かな感動をおぼえました。

わたしたちは「文化の防人」です!

最後に道歌を披露しました

 

人が助け合い、共に暮らしてきた土地 である友田。まさに「尊厳」や「共生」という理念に通ずる「相互扶助」の響きを持った地名です。友田の歴史を調べながら、わたしはこの土地が持つ深い物語に心を打たれました。古代の横穴墓に始まり、戦国から近世の城づくり、寺領としての扱い、そして現代の住宅地へ。友田は、時代を超えて「くらし」と「祈り」が交差する特別な土地です。新しく生まれた友田紫雲閣が、この地に暮らす方々の人生に寄り添い、大切な儀礼を支え、未来へと続く祈りの場となることを願っています。それから、わたしは以下の道歌を披露いたしました。

 

いにしへの 祈りを刻む 友田にて  
 あらたに出づる 紫の雲  庸軒

 

宗木支配人から決意を受け取りました

記念の集合写真を撮影しました

 

その後、友田紫雲閣の宗木支配人より、決意表明がありました。わたしは、この地の方々の人生の卒業式を心をこめてお世話させていただき、地域に愛されるコミュニティホールをめざしますという宗木支配人の力強い決意を受け取りました。決意表明の後は、参加者全員で集合写真を撮影。


マリエールオークパイン日田に移動しました

直会が開かれました


直会の冒頭、挨拶をしました


祐徳常務の発声でカンパイ!

 

その後、マリエールオークパイン日田に移動して、直会が行われました。冒頭、わたしが「来年はいよいよ記念すべき創業60周年です。新しい施設を得て、さらなる発展に弾みをつけましょう!」と挨拶しました。それから、祐徳常務の挨拶の後、ウーロン茶で乾杯しました。

いただきます!


本日のメニュー


直会のようす

最後は「末広がりの五本締め」でお開き!

 

その後、みんなで、マリエールオークパイン日田の特製弁当をいただきました。今日は出発が朝早く、朝食をしっかり取れなかったこともあって空腹だったので、とても美味しかったです。最後は、小久保取締役によるサンレー恒例の「末広がりの五本締め」でお開きとなりました。

「読売新聞」「西日本新聞」12月15日号

 

オープニング見学会は、12月23日(火)~24日(水)までの2日間を予定。なお、この日、「読売新聞」と「西日本新聞」に竣工広告が掲載されました。「リニューアルオープン」と書かれていますが、これは間違いです。実際は完全な新築オープンであります。抽選で30名様に話題の本として、「鬼滅の刃」と日本人一条真也著(産経新聞出版)をプレゼントいたします。5年前のアニメ映画の大ヒットに続き、今年7月公開の最新作は日本映画として初めて世界興行収入トップを記録。なぜ「鬼滅」は日本人を熱狂させるのか。冠婚葬祭と日本文化を独自の視点で研究する作家・一条真也が社会現象の底流を徹底読解。見えてきたのは、「神話伝承との共鳴」「アイデンティティ不安のケア」という点だ。米不足や熊の出没、外国人問題など時事問題とも絡めた目からウロコの「令和の日本文化論」です。

「鬼滅の刃」と日本人産経新聞出版

 

<応募方法>

郵便ハガキに郵便番号・住所・氏名・電話番号・書籍名をご記入の上、下記宛へお送り下さい。当選者の発表は商品の発送をもって代えさせていただきます。

〒802-0022
北九州市小倉北区上富野3-2-8
サンレー話題の本進呈NP係   
2025年12月26日(木)必着
 

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2025年12月15日 一条真也

『葬儀業』 

葬儀業 (平凡社新書1059)

 

一条真也です。
『葬儀業』玉川貴子著(平凡社新書)を読みました。「変わりゆく死の儀礼のかたち」というサブタイトルが付いています。著者は1971年生まれ。名古屋学院大学現代社会学部准教授。専修大学大学院文学研究科社会学専攻博士課程修了。2016年より現職。専門は死の社会学、家族社会学。単著に『葬儀業界の戦後史――葬祭事業から見える死のリアリティ』青弓社)、共著に『いのちとライフコースの社会学(弘文堂)、『喪失と生存の社会学――大震災のライフ・ヒストリー』有信堂高文社、『サバイバーの社会学――喪のある景色を読み解く』ミネルヴァ書房)。

本書の帯

 

本書の帯には、「戦後日本の葬儀業や葬式はどのような変化を遂げてきたのか――。」と書かれています。また、カバー前そでには、「社会や経済の影響を受け、独自の発展を遂げてきた葬儀業界。『葬儀は不要』『葬儀代は不明瞭かつ高すぎる』などと、葬儀については、これまでさまざまな議論や批判がなされてきた。家族形態や個人の価値観の変化に伴って、現在は『家族葬』や『直葬』などが浸透している。しかし、依然として故人を偲ぶ場として葬儀は大切にされている。多様性が重視される時代の中で葬儀はどうねっていくのか――。業界の変遷や葬儀の現況を知ることで自らの『その時』を見つめ直す一冊」と書かれています。

本書の帯の裏

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
はじめに──「死の儀礼」を考えるということ
第1章新型コロナウイルス禍でみえた?本音?
第2章 死から火葬まで── 一般葬の流儀
第3章 人と社会の変化を映す葬儀業界
第4章 葬儀業界の現在地
事例 日本の葬儀の現場から
[事例1]死のコンシェルジュ
 ──「if共済会」と「事前相談員資格制度」
[事例2]「お葬式組合」を通じた協同体
 ──静岡県湖西市新居町での取り組み
[事例3]日本のプロテスタント教会
     における「死」と「葬儀」

おわりに──誰かに託す、そんな葬儀でもいい

 

 

「はじめに──『死の儀礼』を考えるということ」では、「死」そのものは生きているかぎり誰にでも訪れる普遍的なものであると述べられています。またそれに伴って行われる葬儀は宗教的、文化的な現象であるといいます。ただ、著者自身、儀礼は「経済的かつ利他的(感情的)な現象」ともとらえており、経済社会学的な観点から研究を続けているそうです。それゆえ、人々が葬儀の値段に対して高い/低いと判断すること自体、非常に興味深い現象だと考えているとして、著者は「本書では、葬儀業界の概要や変遷、業界の現状についても言及していきます。そのなかでも注目しておきたいのが、新型コロナ禍での葬儀や業界の動きについてです」と述べています。

 

 

葬儀については、これまでさまざまな議論や批判がなされてきました。たとえば、「葬儀は不要」、「葬儀代が高額である」などです。では、なぜ、儀礼に対して極端な議論――「儀礼は必要、不要」――が起きてしまうのでしょうかとして、著者は「このことを考えるうえで、死の儀礼に携わる葬儀業界を考えるということは、避けることはできないと思っています。一方で、この業界について何らかの意見をまとめたとしても、儀礼の必要、不要の議論に決着がつくわけではありません。それでも、本書を読むことによって死の儀礼における社会のあり方を考える一助になれば、と願っています」と述べます。



第1章「新型コロナウィルス禍でみえた“本音”」の「志村けんの死からみえてきたこと」では、葬儀というのは家族にとって精神的、肉体的、経済的負担が相当かかるということが指摘されます。家族らは、亡くなる間際に病院などに駆け付け、最期の対面をし、その後、葬儀社を手配し、さまざまな手続きに追われ、かつ喪主としてどのような挨拶をするかを考え、常に気が抜けません。しかも、「初めてのことだらけで何が何だかわからない」という人が多いはずです。さらに、忙しい合間を縫って駆け付けてくれた会葬者への配慮もかなり気を使うものです。

 

また、葬儀代や僧侶へのお布施などの予定外の急な出費も負担となります。それがたとえ後日、「よい葬儀だった」と振り返るようなものであっても、終わった直後には疲弊し切ってしまい、心穏やかに故人を偲ぶ気持ちになるのは難しいものです。著者は、「つまり、葬儀は多くの人にとってみれば悲しみを癒すための時間というよりも『負担』の大きいものだったのです。そんなところに突如、未知のウイルスがやって来て、『葬儀は家族、親族だけで済ませました』と『堂々と』言える状況になったのです」と述べます。



著者は、新型コロナの流行により、以前にもまして「死」が身近なものとなり、自分自身や家族の「死」について考える必要が高まったといいます。そして人が集まることを前提にして行われてきた葬儀が、中止もしくは規模を縮小して行わなければならないという状態になり、多くの人が「葬儀とは」ということも真正面から考えるようになったと感じられるそうです。著者は、「未知のウイルスの感染・拡大で尊い命が数多く失われたことは残念でなりませんが、この苦境を経ることで葬儀に対する“本音”がリアルにみえてきました。その本音の意味を改めて考え、将来に活かす、そのことが私たちに求められているのではないでしょうか」と述べます。



エンバーミングとオンライン配信」では、新型コロナ禍を通じ、葬儀に対する考え方が変わり、さらに遺族や会葬者にとって利便性をもたらすサービスがさまざまなかたちで提供されたことが指摘されます。ただ、より新しく、画期的なサービスが登場したとしても、喪主や遺族には、心身ともに相当の負担がかかることは変わりないとして、著者は「死はいつか必ず訪れることがわかっていても、亡くなった人とのかかわりが絶たれる状況は、家族にとって死の前の日常と全く異なる経験であり、お金やサービスの内容でとってかわることがそう容易ではないからです。喪主や遺族の負担をゼロにするのは難しくとも、軽減することはできます。今や状況に応じて適切なサービスを選択するという時代になったといっても過言ではありません」と述べるのでした。



第3章「人と社会の変化を映す葬儀業界」の「『葬祭業』と『葬儀業』何が違う?」では、葬儀に関するサービスを提供する事業者は「葬祭業」もしくは「葬儀業」と呼ばれていることが紹介されます。しかし、「葬祭業」という言葉は、統計上の職業分類にはありません。特定サービス産業動態統計の産業分類では「葬儀業」として扱われています。また、経済産業構造調査では、「冠婚葬祭業」の分類に入っています。「葬祭業」という言葉自体は、葬儀社が集まる全国団体など葬儀業界自らが「葬祭業」と名乗っていた歴史に由来しています。業界資格の1つである「葬祭ディレクター資格」の名にも冠されているように業界内では「葬祭業」としたほうが馴染みがあります。



葬儀業はおおまかに分けると4つあるとして、著者は「葬儀専業事業者、冠婚葬祭互助会、農業協同組合、そして生活協同組合などの葬儀事業です。葬儀専業事業者と冠婚葬祭互助会の大きな違いは、その契約方式にあります。冠婚葬祭互助会は割賦販売法と呼ばれる法律に基づいて事業を行っています。この割賦販売とは、商品やサービスの購入代金を2か月以上の期間、かつ3回以上に分割して支払うことを約束した企業との売買取引(契約)のことです。一方の葬儀専業事業者は、割賦販売を行っていません。ですので、この法律の適用を受けることがありません」と説明しています。


 

 

「戦後の新生活運動の影響」では、葬儀は社会生活などの変化を受けにくいと考えられてきたことが指摘されます。実際、結婚式に比べて民俗的・宗教的な信仰や慣習などによって変わりにくかったといえます。とはいえ、やはり戦後、徐々に葬儀にも変化の波がやってきたとして、著者は「終戦の翌年の1946(昭和21)年の後半にはインフレに見舞われ、生活苦とともに新たな時代が始まりました。そんななか、片山潜内閣時代の新日本建設国民運動要領に端を発した『新生活運動』が起こりました。この運動は、無駄や贅沢を抑えて生活環境の改善を目指すというものです。1955(昭和30)年8月22日に鳩山一郎内閣の閣議決定によって、新生活運動が政府・行政主導ですすめられていきました。無駄や贅沢なものとして捉えられていたもののなかには、冠婚葬祭も含まれていました」と説明します。

 

 

新生活運動は、時代と儀礼を結び付ける重要な社会的意味が含まれていました。それは、儀礼を人々の消費行動の一環としてみなすという意味です。著者は、「儀礼は、宗教的で、かつ地域ごとに行われていた慣習的な行動ですが、同時にそうした文化的価値よりも経済的事情を優先することを間接的に新生活運動が示したわけです」と述べています。この新生活運動の波に乗る形で、1948(昭和23)年には神奈川県横須賀市で冠婚葬祭互助会が立ち上げられました。ブログ「全互連総会in横須賀」で紹介した、西村熊彦翁が創業された横須賀冠婚葬祭互助会です。昭和28年7月17日付けの「日本経済新聞」に紹介記事が掲載されましたが、見出しには、「珍しい冠婚葬祭の互助会」「保険に似た仕組み」と書かれています。

冠婚葬祭互助会はここで誕生した!

 

冠婚葬祭互助会の発足は、すべての人々が平等に葬儀を行えるように、という扶助的な発想と同じシステムのもとで儀礼を行うという合理性も備わっていたと指摘し、著者は「葬儀における〈相互扶助〉を〈契約〉によって購入するという認識が大衆に広まり始めたのです。1956年に入ると東京、大阪、名古屋の地域で8つの冠婚葬祭互助会が発足しました。しかし、1955年頃から高度経済成長期がはじまり、平等な葬儀から逆行するように、葬儀においても贅沢さが競われるようになっていきました。たとえば、それは葬儀の祭壇に現れています。白木祭壇が用いられるようになるなど、祭壇の大きさ、豪華さが葬儀の規模を推し量るようになるほど、祭壇は葬儀の中心的存在となりました」と述べています。



「『消費者問題』と『葬式無用論』」では、昭和40年代に起こった「葬式無用論」が取り上げられます。「葬式無用論」には、「因習打破」という人々への啓蒙とともにそこに経済的な利益を見出した宗教者、葬儀業者らへの批判が含まれていました。しかし、そもそも葬式を派手に行うというのは、宗教者や葬儀業者らが創造したものではなく、「家」の繁栄思想に基づく軌範という側面もあったと指摘し、著者は「葬儀は必ずしも亡くなった当事者や遺族らだけで行えるものではなく、『家』が跡取りによって継承されることを地域の人々にお披露目する機会でもあり、葬儀自体も地域互助によって成立していました。また、職場関係者などが参列する社交と義理の場でもあり、戒名の違い、派手な祭壇、葬儀における香奠の金額などが、その家の豊かさや社会的地位の象徴となりました。つまり、経済力や地位の差異が葬儀において示されていくことで、祭壇の豪華さを競う『誇示的(顕示的)な消費』に人々は駆り立てられていたわけです」と述べます。

 

 

「マナー文化としての冠婚葬祭」では、1970年代から80年代には、茶道家で冠婚葬祭評論家でもあった塩月弥栄子氏による『冠婚葬祭入門』が大ベストセラーになったことが紹介されます。地方出身者たちにとって都市部への移動は、新たな土地の文化やマナーへの対応を迫られることでもありました。冠婚葬祭もその1つで、都市も地方も関係なく共通するマナー文化としての冠婚葬祭が求められたわけです。そして、冠婚葬祭において地域社会からの葬儀の扶助が困難な場合にサービスを提供していく専門事業者としての葬儀業が1970年代に誕生しました。マナー本ブームにのるかのように、大阪の大手葬儀社の公益社では、1975(昭和50)年に『葬儀の知識』という小冊子を企画・編集し、『週刊新潮』に隠れたベストセラーとして紹介され、評判を呼びました。この小冊子の序文には、「葬法に関しては他の行事よりも理解に困難な事が多く、古い慣習のみが伝承され常識化されています。しかし誰しもが生涯の最終を飾るにふさわしい荘厳味の調和する清浄・厳粛な儀式を望まれるものです。公益社では、更に簡素化を考え、現代生活にマッチした悔いの残らない葬儀、すなわちまごころ葬儀の創造に努力しています」と書かれています。

 

 

「葬儀サービスにも『心のケア』を」では、葬儀はあくまでも「儀礼行為」の1つですが、そこには人の「心」や「哀悼」が含まれることが指摘されます。そしてそれが宗教的なもので覆われてきたと考えられるといいます。1980年代には、カトリック司祭のアルフォンス・デーケン氏(上智大学名誉教授)が日本において「生と死を考えるセミナー」を立ち上げ、死生学やグリーフワーク、ケアについて注目されるようになり、これが葬儀におけるグリーフワーク、ケアにも影響しました。ただ、死生学の範疇におけるグリーフワーク、ケアと葬儀におけるケアには、微妙にずれがあるとして、著者は「1980年代以降の死生学やグリーフワーク、ケアへの関心は宗教的な関心に近いところにありました。葬儀業界では1970年代から『心』をマナーと結び付けていましたので、どちらかというと、『心』はサービスの中に組み込まれるものだと考えられてきたといえるでしょう。ただし、そうした配慮や共感はサービスの内容として遺族側に明示されるわけではありません。葬儀業者の態度や表情、接し方などで表されています」と述べています。



実際、故人を前にして悲嘆にくれる遺族へ「配慮をする」、「ケアする」ように接しようとしながらも、葬儀を滞りなく手配しなければなりません。そうなると、遺族側からは葬儀業者の感情は見えにくいものですし、家族の状況や事情はそれぞれ違うため、葬儀業者自身も何が必要な配慮なのか、どんなケアをしたらよいかを考えながら接しなくてはなりません。著者は、「社会的な流れとして、遺族の心への配慮や共感を組み込む『葬儀サービスの心理主義化』は、顧客満足度とグリーフワーク、ケアがイコールではないがゆえに、これといった正解が見えにくい状況といえます。ただ、死別体験者が集まる会を実施している葬儀社もありますので、葬儀ではなかなかケアできないとしても、その後のケアにはつながっているかもしれません」と述べています。



第4章「葬儀業界の現在地」の「日本初の葬儀業者による全国組織『全葬連』」では、今でこそ葬儀業はサービス業として定着していますが、そもそも葬儀業者を監督・指導する省庁が定まっていなかったことが紹介されます。葬儀業が「遺体を扱う」事業か、祭壇など葬具を扱い葬儀を取り仕切る「葬祭サービス」事業なのかがはっきりしていなかったことがその要因の1つです。著者は、「すでに霊柩運送事業は、運輸省(当時)が、火葬業は、遺体を扱うという衛生的な観点と『墓地埋葬等に関する法律』の関係から、厚生省(当時)が所管していましたが、葬儀業は業務内容が曖昧だっただけでなく、届け出などがなくても葬儀事業が始められることもあり、所管する省庁も確定されていませんでした。また、遺体を扱う観点から『遺体取扱師』という名称も用いられ、『墓地埋葬等に関する法律』との関係から厚生省(当時)の管轄になる可能性がありました。結果的には、今後の事業展開を見据え、葬儀はサービス業ということで、当時の通産省、現在の経済産業省の管轄となりました」と説明しています。



「『葬祭ディレクター』制度の創設」では、全葬連と全互協(全日本冠婚葬祭互助協会)が共同運営している葬祭ディレクター制度について言及しています。この資格が葬儀業界にとって、なぜ重要なのでしょうか。それは、葬儀業の職業的・社会的地位が関係しています。葬儀業は、職業的に差別されることが多く、「人を不幸でお金をとる」など葬儀業に対する批判もつきまとっていたといいます。こうした状況を変えるべく、葬儀業界により自らの職業的地位の向上を目指して創設されたのが葬祭ディレクター資格でした。著者は、「実は、この資格ができる前に全互協側にも全葬連側にもそれぞれ資格制度がありました」と述べています。



全互協には「葬祭士」、全葬連側は「一般葬祭専門士」という団体内の任意資格があったのです。しかし、全国的に認知されるような資格制度にするために1985(昭和60)年、全葬連は通産省、厚生省、労働省(いずれも当時)の各省庁に働きかけていました。そのようななか、労働省側から「全葬連、全互協それぞれ独自の検定を実施するのではなく、両団体が共同で、かつ業界全体に開いて『技能審査』で実施したらどうか」という助言を受けたため、両団体での統一資格として協議が始まりました。資格制度への熱意は両団体ともにあったので、葬儀業界全体の「葬祭ディレクター」資格の発足につながりました。この資格が葬儀業界の地位向上に果たした役割の大きさは計り知れません。

葬式は、要らない』VS『葬式は必要!

 

「日本独自の『社葬』」では、儀礼の要不要という極端な立場からの議論は、儀礼が生前からの社会的なつながりに基づいて行われることを無視していることによって生じていると述べています。つまり、こういった議論は、経済的な合理化や効率性重視の考え方をする社会になっていくと必ず起きやすいというのです。著者は、「儀礼は要不要というよりも、その時代の社会、経済状態に合わせて『改変可能なものだ』と考えれば、むしろ儀礼が持つ意味を最大限に生かせるのではないでしょうか」と述べています。わたしは葬式は必要!双葉新書)という本を書いたので、著者から「儀礼は要不要ではない!」と叱られそうですが、あれは島田裕巳氏の葬式は、要らない幻冬舎新書)に対抗した結果、そのようなタイトルになったのです。わたしも、儀礼はその時代の社会、経済状態に合わせて『改変可能なものだ』と考えれば、むしろ儀礼が持つ意味を最大限に生かせると思っています。そのような考えで書いた本が、「儀式はアップデートする」というサブタイトルを持つ葬式不滅オリーブの木)です。

葬式不滅』(オリーブの木

 

事例「日本の葬儀の現場から」では、著者は「葬儀は昔から行われてきた儀式であり、さらには宗教的な意味もあって『風習』や『伝統』などの枠にはめて考えられがちです。もちろん、そうした昔から大事にされてきたことを継承し、次世代に伝えることも大事ですが、『風習』や『伝統』を守るためだけに葬儀が行われているのではありません」と書いています。わたしは、葬儀をはじめとした儀式を行うことは人間の本能ではないかと考えています。儀式および相互扶助という本能がなければ、人類はとうの昔に滅亡していたのではないでしょうか。わたしは、この本能を「礼欲」と名づけました礼欲がある限り、儀式は不滅です。


「葬儀の力」パネルディスカッションのご案内

 

じつは、来年1月20日、わたしが理事長を務める一般財団法人冠婚葬祭文化振興財団が創立10周年を迎えるのですが、「葬儀の力」をテーマとしたパネルディスカッションが開催されることになりました。そこに本書の著者である玉川貴子氏とともに小生も参加いたします。当日、玉川氏と活発な意見を交換することが今から楽しみです!

 

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2025年12月15日 一条真也

「悪魔祓い株式会社」 

一条真也です。12日の夜、ブログ「シェルビー・オークス」で紹介したアメリカ・ベルギーの合作映画に続き、この日から公開された韓国のホラー映画「悪魔祓い株式会社」をユナイテッドシネマなかま16で観ました。ホラー映画史における名作中の名作とされるアメリカ映画エクソシスト(1973年)へのオマージュ的要素の強い作品でしたが、アクション映画としても楽しめました。

 

ヤフーの「解説」には、「悪魔崇拝のカルト集団の台頭により混乱する韓国を舞台に描くホラーアクション。警察や神父たちでさえお手上げな状況の中、悪魔ばらいを専門で扱う会社の社長と社員たちが困難な状況に立ち向かう。イム・デヒが監督を務め、『犯罪都市』シリーズなどのマ・ドンソクが企画などを担当。少女時代のソヒョン、『ヒプノシス/催眠』などのイ・デヴィッドのほか、キョンスジン、チョン・ジソらがキャストに名を連ねる」と書かれています。

 

ヤフーの「あらすじ」は、「悪魔を崇拝するカルト集団の台頭により混乱する街では、警察や神父たちもなすすべがなかった。そこでたくましい肉体と力を持ち合わせたバウ(マ・ドンソク)、エクソシストシャロン(ソヒョン)、情報収集係を担当するキム(イ・デヴィッド)から成る悪魔ばらい専門の会社に人々が殺到する。そんな折、妹のウンソ(チョン・ジソ)を助けてほしいという依頼が、医師のジョンウォン(キョンスジン)から彼らのもとに舞い込む」です。

 

この映画の直前に鑑賞した「シェルビー・オークス」はローズマリーの赤ちゃん(1968年)、オーメン(1976年)、ブレア・ウィッチ・プロジェクト(1990年)といったホラー映画史に燦然と輝く作品群のオマージュ的場面に満ちていましたが、本作「悪魔祓い株式会社」はずばり「エクソシスト」へのオマージュそのものでした。1973年12月26日にアメリカで、1974年7月13日に日本で公開された同作は、少女に憑依した悪魔と神父の戦いを描いたオカルト映画の代表作であり、その後さまざまな派生作品が制作されました。

 

エクソシスト」はアメリカ映画です。アメリカはプロテスタントの国ですが、プロテスタントの祖であるルターは悪魔の存在を信じていたことで知られています。バチカンにはエクソシストの養成所がありますし、悪魔の存在を認めているという点では、カトリックプロテスタントも共通しています。そして「悪魔祓い株式会社」は韓国映画ですが、韓国ではカトリックが盛んです。わたしは上智大学グリーフケア研究所の客員教授を務めましたが、上智といえば日本におけるカトリックの総本山です。それで神父や修道女の方々にも知り合いが増えたのですが、カトリックの文化の中でもエクソシズム(悪魔祓い)に強い関心を抱いています。なぜなら、エクソシズムグリーフケアの間には多くの共通点があると考えているからです。エクソシズムは憑依された人間から「魔」を除去することですが、グリーフケアは悲嘆の淵にある人間から「悲」を除去すること。両者とも非常に似た構造を持つ儀式といえるのです。

 

わたしは、これまでエクソシズムが登場する映画は必ず観てきました。それは儀式を描いた映画であり、参考となる点が多々あるからです。しかし、「悪魔祓い株式会社」はちょっと容姿が違いました。なんと、この映画でエクソシストを務める「悪魔祓い株式会社」の社長・バウは、パンチで悪魔をやっつけるのです。韓国映画界を代表する俳優の1人であるマ・ドンソクはこれまで数々の敵を圧倒的な“拳”で仕留めてきましたが、悪魔を相手にする本作でもそれは同様です。そんな強敵でも彼の鉄拳で粉砕されるので、わたしは「お前は、マイク・タイソンか!」とツッコミたくなりました。ただし、バウの人間離れしたパワーはかつて悪魔から授かったことがわかります。また、少女時代のソヒョンが演じる悪魔と交信する魅惑のエクソシストシャロンも悪魔からパワーを授かっていました。つまり、バウやシャロンデビルマンチェンソーマン」の主人公と同じなのでした。

 

アクションの要素は強いですが、「悪魔祓い株式会社」には、興味深い儀式の描写が登場します。正しくは、「エクソシズムの6段階」が忠実に描かれているのです。それは、1.存在確認(聖書朗読・十字架・聖水などで、悪魔の存在を確かめる)。2.偽装(悪魔が「自分は悪魔でない」と装い、だましてくる)。3.休止(悪魔が苦しみ、深く潜む。憑依者は一時的に気絶し静寂が訪れる)。4.声の攻撃(悪魔が相手=家族やエクソシストのトラウマを突き、心理的な揺さぶりをかけてくる)。5.衝突(悪魔が物理的攻撃を仕掛けてくる。物が壊れたり、暴力をふるってきたりする)。6.追放(救う前の最後の段階。追放の言葉で悪魔が身体から抜け出て、戻っていく)。以上です。



本作で描かれた「エクソシズムの6段階」は、はキューブラー=ロス主著『死ぬ瞬間』の中で提唱した「死の受容5段階」を連想させます。すなわち、1・否認、2.怒り、3.取引き、4.抑うつ、5.受容ですが、これはグリーフケアにも通じる考え方です。エクソシズムグリーフケアは共通点が多いと言いましたが、「魔」も「悲」も放置しておくと死に至るので危険ですね。しかしながら、「魔」や「悲」には対立すべきものがあります。「悪魔」に対立するものは「天使」であり、さらには「神」です。そして、「悲嘆」に対立するものは「感謝」ではないかと思います。神の御名のもとに悪魔が退散するように、死別の悲嘆の中にある人は故人への感謝の念を思い起こせば、少しは心が安らぐのではないでしょうか。さまざまな儀式を提供するわが社は「悪魔祓い株式会社」でもありますが、グリーフケアの実践と普及に努める「悲しみに寄り添う株式会社」でありたいです!

 

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2025年12月14日 一条真也

「ラスト サムライ」から「国宝」へ

一条真也です。
ハリウッドリポーター・ジャパン配信のヤフーニュースの記事で知ったのですが、俳優のトム・クルーズが現地時間12月11日、米ロサンゼルスのカルバーシアターにてブログ「国宝」で紹介した大ヒット日本映画の特別上映会を主催したそうです。上映会には李相日監督も登壇し、第98回アカデミー賞国際長編映画賞の日本代表作品に選出されている「国宝」をアメリカの観客にお披露目しました。

ヤフーニュースより

 

映画の上映前には、トム・クルーズが「本当に並外れた作品です。大スクリーンで観るべき、非常に特別な映画ですよ」と熱弁。そして、「類まれなる才能をもった監督を紹介します」と呼びかけると李相日監督が姿を現し、クルーズと固い握手を交わしました。その後、トム・クルーズはかつて「ラスト サムライ」(2003年)で共演を果たし、「国宝」に歌舞伎の看板役者・花井半二郎役で出演している渡辺謙について、「彼は、すばらしい俳優です。非常に才能があり、とても寛大な方です」と絶賛しました。さらに、「僕は日本に何度も足を運んでいて、国の歴史についても学んでいます。歌舞伎の劇場にも訪れました」と語りました。

 

続けて、クルーズは観客に向けて「『国宝』の内容についてネタバレはしません。とにかく僕が伝えたいのは、李相日監督にはすばらしい才能があり、観客の皆さんは今から渡辺謙さんの圧巻の演技を目の当たりにするということです。本作に出演する俳優は、一人ひとりが際立っています。製作者の方々は、歌舞伎というすばらしい芸術の世界へと誘う本作のために、4年かけて準備をしました。渡辺謙さんは、この役のために非常に長い間準備をされています。僕自身は、『ラスト サムライ』のために2年を費やしました。そして、ヒロ(真田広之)さんや渡辺謙さんと数か月間ともに過ごしたんです。でも『国宝』の出演者の方々は、役のために18か月間かけて準備されました。本当に優れた日本の若手俳優の方々の演技に、目を見張ることでしょう」と語りました。

「鬼滅の刃」と日本人』(産経新聞出版

 

吉田修一原作の映画「国宝」は、上方歌舞伎の名門に迎えられた任侠の血を引く青年・喜久雄(吉沢亮)と、華麗なる血筋を継ぎ、将来を約束された御曹司・俊介(横浜流星)がライバルとして火花を散らし、互いの芸を磨き合いながら、それぞれの人生を劇的に変化させていくさまを描いた物語です。日本では2025年6月6日に公開され、11月24日までに興収173億7,739万4,500円を突破し、実写邦画の歴代興収1位にランクインする大快挙を達成しました。じつはわが最新刊「鬼滅の刃」と日本人産経新聞出版)の中には「『国宝』と日本人」という一章があり、おかげさまで好評を頂いています。同書は発売と同時に増刷が決定し、まさに今日、増刷のゲラを校正し、「国宝」の興収についての情報もアップデートしたばかりでした。

 

トム・クルーズ渡辺謙が共演したラスト サムライは、エドワード・ズィック監督のアメリカ映画です。明治維新直後の日本。政府は軍事力の近代化を図ろうと西洋式の戦術を取り入れることを決断。一方で前時代的な侍たちを根絶させようと企んでいました。やがて、政府と発展著しい日本市場を狙うアメリカ実業界との思惑が一致、政府軍指導のため南北戦争の英雄ネイサン・オールグレン大尉(トム・クルーズ)が日本にやって来ます。彼はさっそく西洋式の武器の使い方などを教え始めるが、ある時、政府に反旗を翻す侍のひとり、勝元(渡辺謙)と出会いました。そして、彼ら侍たちの揺るぎない信念に支えられた“サムライ魂”を感じ取った時、オールグレンはかつての自分を思い出していきます。

 

トム・クルーズ渡辺謙からの手紙がきっかけで「国宝」を鑑賞したそうです。感動した彼は自主的にハリウッドで特別上映会を開いたのでした。2人の偉大な俳優の友情と映画愛には感銘を受けますが、もう1人忘れてはならない人物がいます。ブログ「さらば愛しの映画監督よ」で紹介した原田眞人監督です。原田監督は俳優として「ラストサムライ」に出演しているのです。日本の大臣で実業家でもあった大村松江を演じました。大村は正規の軍人ではなく農民だらけの軍隊の育成の契約をしに渡米したのですが、原田監督の演技は見事でした。今夜は、日本映画界が誇る名匠・原田眞人監督を偲んで「ラスト サムライ」をUーNEXTで観ようかと思います。それにしても、トム・クルーズ原田眞人の記事を同じ日に目にしたのは不思議。まさに、シンクロニシティ

在りし日の原田眞人監督と

 

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2025年12月13日 一条真也

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