2025年5月16日、13日にお墓の撤去が完了した以降に、お墓の管理をしているWさんから電話があって、現場に行って確認したら綺麗に更地になっていて「お礼」の電話でした。その後に、T姉さん(ほぼ姉の)にLINEをしたら、撤去の日にも現地に行って実際の工事を見に行ってくれたそうです。「親子3人かな、優しそうな人達」ということでした。T姉さんがスマホで写真をとろうとしたら、「全部終わったら写真も撮って送りますからと言われたとのことでした。
今回は周りが本当に親切なので助かります。
ところで、父と兄の遺骨ですが、前にも書きましたように、撤去をしてもらった石材店に預かってもらっています。私の気持ちとしては、これで良かったのかなあと思う点もあります。どうなのでしょうね。私の家で預かる方がいいのでしょうか。
昨年6月に亡くなった母の遺骨は、今も私の住むマンションのリビングに小さな遺影とともにおいていて、毎日、新しくコーヒーを淹れた都度、お供えしています。これも25日の納骨日までと思っています。

昔ながらの「しきたり」とか、宗教上のことで言われると「そうですか」としか言いようがないのですね。
でも、亡くなった人の「遺骨」そのものを大事するのはもちろんですが、樹木葬や海への散骨もあるように、私には遺骨に対してのこだわりというか、何か神聖なものに近い感覚はありません。生きていることが一番大事ですし、記憶の中で知っている、または知っていた人がいさえすればそれで十分だ思います。
そんな中、最近読んだ本の中で、看取りや亡くなった人のことで、いくつか発見がありました。
一つは、上野千鶴子さんの「在宅ひとり死のススメ」です。この本の中では、「看取り師」と言って、最期に「抱きしめて送る」ということをやっている人の話もでてきますが上野さんは否定的です。また、オーストラリアの人の話で、『オーストラリアの人々は英語圏ではあれば、世界中どこでも移動します。・・・末期の床にある母親を息子が訪ねてきて、その半年後に母親が亡くなったときに、介護者がイギリス在住の息子に知らせました。息子の答えは「別れはもう済ませたから、埋葬はそちらでやってくれ」という話』がありました。結局、こう書いておられます。「別れと感謝は、相手の耳に聞こえるところで、相手に伝わるあいだに、何度でも言っておけば良いと考えるようになりました」と。
2つ目は、中谷美紀さんの本で「オーストリア滞在記」です。やはり次のように書かれています。ご主人はドイツ人です。
『そして、ドイツの人々には、亡くなった遺体に面会するという感覚がないらしく、夫は亡くなっても「自分の遺体を見られるなんてとんでもない」と言うし、万が一、私が先に逝ったとしても「冷たくなった君の遺体なんか触りたくもないし見たくもない」とのこと。それは自分の両親や兄弟、娘でもそうなのかと尋ねると、「もちろん誰でも亡くなった人は亡くなった人なのだから、わざわざ会う必要はない」というわけで、私などより夫の価値観の方がさらにあっさりしているのだった。』
また「鳥葬を行うゾロアスター教や、遺体や遺灰を川に流して水葬を行うヒンドウ―教、墓参を一切しないという原始仏教など、かつて旅したインドでは様々な価値観があることに驚かされ、・・」ともあります。
亡くなってから遺骨のことを含めて、あれこれいろいろやるよりも、生きている間こそが大事だということですよね。私は母に対して、生前そんな接し方をしたかと問われれば自信がないですが、でも、少なくとも「やれることはやった」と自己満足するしかないですね。
母は、私と家族の記憶の中には、ずうっとあるのです。(母は紫色が好きでした)
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