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音楽枕草子

クラシック音楽や読書関係の感想記として投稿しているblogです。Xでは身辺雑記のポスト、blog投稿の追加情報のリポストなどしています。

完聴記~モーツァルト交響曲全集(その15)~クリストファー・ホグウッド

今週はモーツァルトのホグウッド&シュレーダー、アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックによる交響曲全集の完聴記の15回目、後期六大交響曲とも呼称される第35番「ハフナー」&第36番「リンツ」からききたいと思います。


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CD13
○行進曲ニ長調 K.408-2(K.385)
モーツァルト没後に3曲まとめて出版された行進曲の第2曲。演奏会の入退場やその合間に演奏するためにこういった曲を書いたそうです。この第2曲は「ハフナー・セレナード」に付随する形で書かれた曲と研究結果がでているそうです。他の2曲は不明だそうですが・・・「ハフナー・セレナード」を原曲とする「ハフナー交響曲」の前に演奏するのは理にかなっているともいえます。


交響曲 第35番ニ長調 K.385「ハフナー」 (第1稿)
「第1稿」??「ハフナー交響曲」にそんなにヴァージョンがあったことはこの全集をきくまで知らず、「ハフナー交響曲」といえばあの「ハフナー交響曲」でしょう!と思ったら、皆さんご存じの通りこのシンフォニーはザルツブルクの名家ハフナーさんの貴族就任を祝って書かれたセレナードが原曲になっていて、その状態を復元ししてみました的発想で編成からフルートとクラリネットを外し、先のK.408-2(385a)のマーチを演奏してから交響曲へ入っていく形をとっています。
当然、フルートとクラリネットが無い分”あれっ?”と感じる響きで厚いゴージャスな音をききなれた耳には不思議にきこえます。第2・3楽章には元からお休みなので問題ないのですが、ダイナミックな音が要求される両端楽章ではやっぱり物足りないような気がします。
でも、終楽章の表現力の大きさはモーツァルトの充実ぶりがきこえてきて、いつきいても心が躍ります。
★★★★★


交響曲 第36番ハ長調 K.425 「リンツ
第1楽章アダージョの序奏、少し影があって後の短調作品にも通じるデモーニッシュなものを一瞬受けることがあります。アレグロ・スピリトーソの主部に移り、モーツァルトらしい流れていく様な音楽―それがただきき流されるだけでなく、耳にしっかり入ってきます。
第2楽章はささやきかけてくるような優しさがあるのですが、当時の交響曲の緩徐楽章としては珍しくトランペットとティンパニが入るので重厚感があります。
第3楽章のメヌエットでのトランペットのファンファーレが遠くの城壁から響いてくるような情景が浮かんできます。
終楽章はリズミカルで活発な音楽なのですが、弦だけで繋いだり、弦と管で静かに繋いで次にフォルテで全楽器が加わるみたいな綱渡りをみているようなスリリングな橋渡しと、その落差が楽しいです。奏者にしたら自分が失敗したら流れがストップして台無しになってしまうというストレスの中で演奏しなければならないでしょうが・・・。
編成にフルート、クラリネットを含まないので渋い曲になっているものの、シンフォニーの王道ともいえる重厚な序奏部、長調短調の配合具合、第2楽章ではほんの少しロマンティックなところがあったりして、とても旅の途中で寄ったリンツで貴族より注文を受けてその滞在中の数日(4日間といわれます)のうちに書き上げられたとは考えられないきき応えある交響曲
★★★★★

 

【演奏メモ】
この全集CDは初出時のカップリングから変わっていますが、このディスクはそのままなので組合せの意図がわかります。
「ハフナー」交響曲(第1稿)ではフルート、クラリネットが無く、オリジナル楽器ということもあって、洗顔をしてまだ化粧をしていない若い女性みたいな印象を受けました。
第3楽章メヌエットは幾分ゆっくりで、雅にドレスの裾がヒラヒラと揺れているのを表現しているような感じにきこえてきます。
リンツ交響曲の第1楽章アダージョの序奏部ではくすんだ響きがより陰影を与えていているので、この曲からマイナーコードを想像させる響きをきけたという発見がありました。
快速派ホグウッドも急緩をつけて演奏しているのでとても立派なシンフォニーとして立ち上がってきて、すべてのリピート指示に従っているので35分を超える演奏時間になっています!
第2楽章の第5、7小節はティンパニがフォルテ、他の楽器はフォルツァンド(第70、72小節でも)によりティンパニが目立つように書かれているのですが、ここではその指示をきちんと守っているのでモーツァルトが緩徐楽章でティンパニを用いた意図を成功させています。

【身辺雑記】Xの活用などなど

ブログ記事を投稿は自分の文章を書く&学びと毎週コンスタントに投稿するという習慣付け(プレッシャー的に)も兼ねているので事前に下書き原稿作成とその校正、資料調べなどそこそこ時間をかけて準備をします(時々疎かになったりしますが。。。)そのため投稿する記事の内容によっては机上(床)にCD、レコード、書籍、楽譜、辞書などの資料などが散乱します・・・。

その点、楽なのが「X」へのポストです。さっと思い浮かんだことを書いて、誤字脱字がなければそのままポスト完了。必要に応じて写真を添付したり。1回にポストできる文字数内で端的な言葉で伝える訓練にもなります(センスがないので手掛けませんが俳句・短歌や川柳の創作と通じるものがあると思います)

また、リポスト機能はベースがあるのでそこに追記できるので便利です。

はてなブログで投稿した記事も「X」に連携をさせているので、そこに書けなかったこと、書き忘れたことなども補稿的に活用しています。

例えばモーツァルトの完聴記であれば愛聴盤の紹介、曲紹介であればお勧めディスクの追記を時にはプライヴェート盤など含めて。

そして現在試行錯誤中なのが「note」です。はてなブログ様の殿中!?で他のプラットホームについて言及するのは憚れますがそちらにも記事を書いてみました。

使い方もこれからですがチャレンジしています。

https://note.com/rochade3206_mr

以上雑文的に「なはてなブログ」と「X」併用、他のプラットホームについて書いてみました。

 

ニコラウス・アーノンクール生誕~オススメのディクス紹介

本日12月6日はニコラウス・アーノンクール氏の96回目のBirthday(1929年生・2016年3月16日没)です。このブログをはじめ「日本アーノンクール伝道普及連盟会長代理代行補佐」を自称して彼の残した録音を紹介している私としては週末のブログ投稿日のタイミングと重複したとあれば伝道活動!?をしなければなりません!

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さしあたり誕生祭の本日は彼の録音タイトルを紹介する回としたいと思います。また未聴・未入手のディスクも数々あり、取りこぼしもあると思いますので「現時点での」とさせていただきます。また「あれもこれも」と、とっ散らからない程度で進めます。

バロック期の標題音楽 
 指揮ニコラウス・アーノンクール/ウィーン・コンツェントウス・ムジクス 録音:1969年

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彼の音楽キャリアのスタートはウィーン交響楽団のチェロ奏者でした。その活動の傍ら妻アリスや気の合う仲間たちと集い「失われた響き」の再現としてヴィオラ・ダ・ガンバを弾き、古楽器と古い音楽の楽譜収集に費やしました。その活動の発展がウィーン・コンツェントウス・ムジクス(CONCENTUS MUSICUS WIEN)となります。初期から当時は未知の音楽を発掘して演奏活動を展開しました。
この録音は古楽器の響きと表現力の紹介アルバムの趣です。現在からすればもっと柔軟に刺激的に演奏する団体もいますが、当時のきき手に「シュメルツァー」や「ビーバー」を紹介してみせる、それも厳格な音楽愛好家は顔をしかめるような曲で、ここにアーノンクールのしたたかさ、反骨精神の源泉を感じます。
特にききモノは各種生物を描いたビーバーの「描写的なヴァイオリンソナタ」、マレの「膀胱結石手術図」(麻酔の無い時代、衛生環境の悪い時代に行われた手術が題材の作品)そして心得のない人間がフェンシングに挑み無残負傷する様子を描いたシュメルツァーバレエ音楽「フェンシング指南」、この曲の最後は「外科医のアリア」と呼ばれる皮肉と風刺的な歌がありますが、これを歌っているのはアーノンクール氏では?

○ラモー:歌劇「カストールとポリュクス」(全曲)
 指揮:ニコラウス・アーノンクール/ウィーン・コンツェントウス・ムジクス、ストックホルム室内合唱団
カストール(テノール):ゼーヘル・ヴァンデルスーネ/ポリュクス(ソプラノ):ジャネット・スコヴォッティ他(録音:1972年)

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現在でこそラモーをはじめフランス・バロック・オペラは古楽器演奏+現代演出で上演、ディスクで接するとこもできますが、恐らく録音当時はほとんど顧みられるジャンルでは無かったと思われます。その復刻復興の黎明期ディスクです。
バロック・オペラならもう少し優雅さがあっても・・・と感じますが、ここからは未だ古楽器や演奏法について完全な確立ができておらず試行錯誤、そしてアーノンクールの意欲の表出としての表現になっているのでしょう。

シューベルト交響曲第8(7)番「未完成」/劇音楽「ロザムンデ」~序曲(魔法の竪琴)・バレエ音楽第1番・第2番
 指揮:ニコラウス・アーノンクールウィーン交響楽団 (録音:1984年)

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古巣ウィーン交響楽団を振ったディスク。シューベルトの「未完成」交響曲=ロマンティックな印象をバッサリ捨て去った鮮烈な演奏。後年ヨーロッパ室内管弦楽団とも交響曲全曲を録音していますが基本解釈は同じです。
そして当然ながら自筆譜に基づく演奏なので長年デュミヌエンドとされていた箇所がアクセントになり過去の録音の影を一掃しました(例えば第1楽章146~148小節など)これをきくとワルターフルトヴェングラーベームカラヤンの往年の名録音と云われるものが古風な博物館資料に感じなくもないです。
余談ですがこれと同系統のドライな録音がギュンター・ヴァントのベルリン・フィルを振ったライヴ!これらふたつのディスクをきくとシューベルトは音楽の中に死の闇を覗いたのだ、と思いゾッとします。

○ヨーロッパ室内管弦楽団ライヴ集(ハイドンモーツァルトベートーヴェンブラームス
 指揮:ニコラウス・アーノンクール/ヨーロッパ室内管弦団 (録音:1989年他)

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1980年代くらいからモダンオーケストラにも登場するようになったアーノンクールウィーン・フィルとはギクシャクした関係―これは聴衆も同様でしたが、そのようななかで理解を示したのがアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団とヨーロッパ室内管弦楽団でした。特にヨーロッパ室内管弦団は元がユース・オーケストラということもあり進取の姿勢と柔軟性がありとても相性が良かったと思います(これまた余談ですがクラウディオ・アバドベルリン・フィルよりもこのオーケストラと残したディスクの方が印象深い録音を残してくれたと思います)
収録された作品はどれも同楽団や他の楽団と録音を残しています、録音年代が異なるので一概には比べられませんがこちらに惹かれるものが多いです。
なかでもブラームス交響曲第4番、ベルリン・フィルと全曲を残していますがアーノンクールにしては解釈が徹底しないというか大人しいものでした。こちらはブラームスがいかに過去の音楽への思慕やリスペクトがあったかモチーフ、フレーズから感じます。特にその気持ちが出ているといわれる第4楽章のパッサカリアは過去音楽との邂逅であったことを教えてくれます。

既に長文になっているので最後にひとつ挙げます。
モーツァルト:レクイエム(バイヤー版)
 指揮:ニコラウス・アーノンクール/ウィーン・コンツェントウス・ムジクス、アルノルト・シェーンベルク合唱団他(録音:2003年)

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アーノンクールのレパートリーにおいても最重要作曲家のひとりであったモーツァルトを―交響曲、オペラはもちろん宗教曲全曲も録音しています。
個人的にはモーツァルト、そして12月というと昨日命日であったこともありレクイエムを思い浮かべます。
アーノンクールは1981年にも録音を残しておりますが再録音を。
最初の録音は死への恐れ、恐怖を生々しく鋭いアクセントを用いて―そこには彼のモーツァルトの音楽は優雅・優美だけではないことを表現したい意欲が前のめりになっているくらいですが、2023年の再録音はその面を失わずにもっと表現がマイルドになっています。これは1990年代後半から晩年にかけての特徴でもあります。決して老いて表現が丸くなったとかではなくウィーン・コンツェントウス・ムジクスも当たり前に彼の意図を表現できるようになったこともあるでしょう。そしてもうひとつが合唱の素晴らしいこと!
「音楽とは言葉」の実践であり、テキストの意味に応じてアクセント、歌唱に変化を加えていることです。これはソリストも同様です。そしてやっぱりテキストがはっきりきこえてくることも重要です。

またまた余談ですがNHK-FMでモーツァルトの没後200年の命日の演奏会でこの曲をアーノンクールが振ったものが放送された記憶があります。

その時はラクリモサの中断された箇所で終わり「アヴェ・ヴェルム・コルプス」を演奏するというものでした。モーツァルト命日の「イベント」としてはいいかもしれないが、こっちは中学生でレクイエムの全曲CDすら持っていなかったので残念なところもあったことを思い出しました。その時のエア・チェックテープをMDかSDカードにダビングして持っているはずですが発掘できませんでした。

今回はアーノンクール生誕を記念して個人的・現時点におけるオススメのディスク紹介でした。

今月の届きもの~買い物ディスク紹介(2025年11月)

今月の届きものディスク、買い物ディスクの購買状況紹介投稿です。

HMVさんのオンラインサイトにて注文していたディスク。

ベートーヴェン:弦楽五重奏曲Op.29・Op.104、フーガ ALPHA585

演奏:ケルンWDR交響楽団チェンバー・プレイヤー

ベートーヴェンの室外楽曲といえば弦楽四重奏曲が中心となりますが、五重奏曲は未聴なので興味があります。

演奏家ハインツ・ホリガーとアグレッシブなシューマン交響曲管弦楽曲・協奏曲録音で共演したオーケストラのメンバーでもありますので期待できると思います。

アニマ・エテルナ・ブリュッへBOX~国民楽派からガーシュウィンまで ALPHA654(CD7枚組)

指揮:ジョス・ファン・インマゼールアニマ・エテルナ・ブリュッへ他

フォルテ・ピアニストとして活動していたインマゼールが結成した古楽器オーケストラが意外と思われる時代・国のレパートリーを手掛けたアルバムをまとめたディスクです。

とてもインマゼール古楽器オーケストラのレパートリーからは想像がつかない作品が収録されており興味があります(特にオルフのカルミナ・ブラーナガーシュウィン!!)

ブルックナー交響曲第7番 BR KLASSIK MPHIL0034

ブルックナー交響曲第8番 BR KLASSIK MPHIL0035


指揮:セルジュ・チェリビダッケミュンヘンフィルハーモニー管弦楽団

あれだけ生前は録音を拒否しつづけた巨匠の録音が死後10年以上も経過するのに毎年のように新譜が登場することに驚き!ブルックナー交響曲第8番に至っては何種目でしょうか?といっても購入してしまう自分がいるくらいですから世界的にも需要があるのでしょう。

今回登場した録音は第7番が1984年、第8番が1985年のライヴ収録となります。以前投稿した「リスボンライヴ」が1994年でしたので、その10年前となります。

rochade.hatenablog.com

さてさてブルックナー交響曲を、それもチェリビダッケ指揮となるとしっかりと腰を据えてきかないとこちらの気力・体力もついていけないのでいつきく気になるのか・・・。

②以下は最近ネット(Amazonサイト)にて購入したディスク。          

シューマン:チェロ協奏曲、ブロッホ:シェロモ  WARNER WPCS-28108

チェロ:ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ 

指揮:レナード・バーンスタイン/フランス国立管弦楽団

この作品の名盤として知られる録音です。シューマンの協奏曲ではピアノは別格ですがヴァイオリン、チェロもあの暗さと闇、青白く光る炎のような作曲者のモノローグにもきこえて好きな作品です。

メンデルスゾーン交響曲第4番「イタリア」/第5番「宗教改革」 ドイツグラモフォン UCCG-53085

指揮:ジョン・エリオット・ガーディナー/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

普通に見れば有名交響曲のディスクですが、「イタリア」の改訂版が収録されているのがミソです。メンデルスゾーンも結構な改訂好き?だったらしく、併録の「宗教改革」、そして「スコットランド交響曲や「フィンガルの洞窟」にも異稿が存在するそうです。

一時はグラモフォン(アルヒーフ)を代表する指揮者としてバロックから古典派はもとより、ドヴォルザークストラヴィンスキー、果てはシャブリエレハール!の録音を残したガーディナー、最近は演奏活動とは別のニュースで名前をききましたが過去の録音には貴重なレパートリーも残しているのでカタログに残しておいて欲しいと思います。

ベートーヴェン:ミサ・ソレムニス  BIS BIS-2321

指揮:鈴木雅明/バッハ・コレギウム・ジャパン

東京でこのメンバーによる実演きいたことで、作品への意識をより高めることができた印象深い演奏会のひとつ。その時のディスクをいつか買おうと思いつつも今更ながら購入。あの日の追体験ができるか楽しみです。

③あちこちのBOOK OFFさんでクーポンや割引で入手したディスク。

ブラームスピアノ五重奏曲 ドイツグラモフォン F35G 20122

ピアノ:マウリツィオ・ポリーニ イタリア弦楽四重奏団

ポリーニの珍しい室内楽の録音。この作品の名盤選の常連録音ですが未聴でした。これも今更ながらではありますが入手。CD初出盤です。

シューベルト:ピアノ・ソナタ第21番・幻想曲「さすらい人」 PHILIPS 422-062-2

ピアノ:アルフレート・ブレンデル

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2回目のシューベルトソナタ録音チクルスの1枚。今年亡くなったブレンデル追悼の意味も込めて購入。積極的にきくことのなかったピアニストではありますが、定評のあったシューベルトソナタで改めて偲びたいと思います。1989年西ドイツ盤。

読書「ベートーヴェン捏造 名プロデューサーは嘘をつく」著:かげはら史帆

この本を原作に映画公開されるとのことで読みました。

ベートーヴェン捏造~名プロデューサーは嘘をつく」

 著:かげはら史帆 河出文庫 2023年刊

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しかし映画は公開期間が終了してしまいまだ観ておりません。。。もうそろそろ動画配信サービスなどで視聴できるのかな?

ベートーヴェンは耳が聞こえなくなっても不屈の精神で『運命』を書き上げた」

―このエピソードをきかされ小学校、中学校の音楽の時間では教え込まれました。

クラシック音楽の作曲家で一番エライのは「ベートーヴェン(ベートーベン)」とー。

しかし、クラシック音楽を本格的にきくようになり様々な情報を得ていくとそれら(ベートーヴェンに限らず)の多くが「伝説」「創作」そして「捏造」だったことを知りました。

ベートーヴェン捏造」を読み終え、そのタイトルがどれほど都合よく作り上げられたストーリーであったかを改めて認識しました。

著者のかげはら史帆さんは(著作の略歴によると)1982年生れで法政大学文学部日本文学科を卒業されており、音楽学などの専門家ではありません。他にベートーヴェンの弟子で当時著名なピアニストでもあったフィルディナント・リース(1784-1838)に関する著書もあるという注目作家です。

そしてこの作品のタイトルからして目を引きますが、主人公はアントン・シンドラー(1795-1864)です。そう、ベートーヴェン研究家をはじめ後世のベートーヴェン信者!?クラシック音楽愛好家からはとかく評判の悪い「ベートーヴェンの友人」(自称)・「無給の秘書」(自称)です。

彼の悪行は数知れず、代表的なものだけでも―

①上記の交響曲第5番の冒頭和音、あの誰でも知っている「ジャ・ジャ・ジャ・ジャーン」はベートーヴェンが『運命はこうやって扉を叩く』と言った→ウソ

②ピアノ・ソナタ第17番を理解したければシェイクスピアの「テンペスト」を読むように、と言った→ウソ

③耳の聞こえないベートーヴェンの外部コミュニケーション・ツールであった「会話帳」(約400冊あったといわれる)の都合の悪い部分を破棄、自分の都合の良いように加筆・追加を行った→破壊工作!&改竄行為

何故彼がそんな不正行為をしたのでしょう―シンドラーにあったのは劣等感です。当時としては一流の教育を受けながらエリート階層へ登れなかった。作曲をしてもとても満足なものは書けなかった―それがベートーヴェンと出会い彼の手足・耳目となり作曲に専念できるように―それを阻害するような人物であればその接触を阻止するのが自分の務めであると誤認??。異常なほどの入れ込みです。ただし、一時絶縁状態の時期が2年ほどありますが・・・シンドラーの捏造によりベートーヴェンとの交流は10年くらいになっているが、実際は亡くなるまでの数年くらいの期間。

この著作ではシンドラーが改竄した「会話帳」の中身を細かく精査していかに「現実」や「真実」を「捏造」して自分に都合が良い=ベートーヴェンの信頼が厚かったかアピールしつつ、都合の悪いことは削除、他人のことは悪評を書き込む、などが検証されます。

そして読みごたえがでてくるのはベートーヴェン死後です。「会話帳」改竄の過程、彼の究極の目標「ベートーヴェン伝」を書き上げていく時に生じる摩擦、他にも同様の伝記を書こうとする人たちを巡る騙し合いが面白いです。

特にアメリカ人作家・ジャーナリストのアレクダンダー・ウィーロック・セイヤー(1817-1897)はシンドラーの「ベートーヴェン伝」を読み、その矛盾点を発見して彼と面会をする場面はクライマックスになります。その後セイヤーも「ベートーヴェン伝」を手掛けますが完成させられずに世を去ります。しかし、その意思を継いだ方々により完成に至ったそうです。

そして最後は「会話帳」の改竄・捏造が1977年に明るみになった発端が書かれておりそれも読み物として興味深く読みました。

詳細な情報収集・検証に基づくノンフィクション系統の著作ですが、学究的な方向にならず、現代用語を使用して文章が分り易く、章立ても劇仕立てになっておりクラシック音楽方面にも興味が無い方でも人間とはいかに(なぜ)嘘をつくのか、好きな人(尊敬する人)のためならここまでやるのか。と思いながら読めるのではないでしょうか。

蛇足ですが、このシンドラーの影響もあるのでしょうか、ベートーヴェンはどんどんと神格化され「ドイツ人の英雄」「ドイツ音楽優越性」の象徴となっていきます―シューマンの著作を読むと驚くくらいにドイツ音楽(ベートーヴェン)こそが最高、フランス、イタリアなどは足元にも及ばない。と恥ずかしげもなく書かれています。

その影響は明治維新からの日本のクラシック音楽受容がモロに受け、現在に至っていることは皆様も認識の通りです。

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映画「アマデウス」鑑賞〜午前10時の映画祭

「午前10時の音楽祭」という名作のリバイバル上演で「アマデウス」(4Kレストア版)を観てきました。


午前十時の映画祭15デジタルで甦る永遠の名作 (eiga.com)

上演期間が短いのと午前中の朝早い時間に上演となるのでタイミングを合わせるのが難しいときがあります。
今回は年末までの有給休暇取得推奨&メンズデーを利用し久し振りに平日昼間から映画鑑賞を楽しみました。午前10時の映画祭で観たのは「アラビアのロレンス」「大脱走」以来かな。

この映画を最初に見たのはNHK-BSかビデオ・レンタルか(恐らくモーツァルト没後200年の年、まだ10代中頃のうら若き?青少年の時でした・・・それからDVD(ディレクターズカット版)を所有しています。

原作はピーター・シェーファーの舞台戯曲の映画化で1984に製作されました(日本公開は1985年とのこと)
アマデウス」のタイトルですがモーツァルトが主人公ではなく、同時代のイタリア出身の作曲家アントニオ・サリエリ(1750-1825)から見た「天才」モーツァルトの姿というのが着眼点として面白いです。
しかしこの映画、いくらモーツァルトを「神童・天才」の対比としてサリエリを「凡庸・凡人」扱いしていないでしょうか?
まず、音楽。モーツァルトは三大オペラからピアノ協奏曲、そしてレクイエムなど、他の作曲家が束になっても叶わない名曲を次々と登場させるのに、サリエリ側は物語冒頭、サリエリが面会にきた神父にスピネットで弾いてきかせるよく知らない彼の曲-これも無残にもモーツァルトの曲にお株を奪われる・・・モーツァルトを宮廷に迎えた時に作曲したという歓迎マーチなる曲。そして大成功したといわれる「何とか」というオペラのフィナーレ。
サリエリが傑出した作曲家とは言いませんが、もっと「マトモ」な作品を登場させることは出来なかったのでしょうか?
これではあまりにもフェアではないです。
そして、サリエリが初めてモーツァルトのセレナード「グラン・パルティータ」をきいて感動するところやモーツァルトの修正・加筆がない清書したような楽譜を見て唖然とするところ。あまりにもサリエリが音楽の才能無しの烙印を押しているみたいです。
そしてサリエリが「神は私に音楽の熱い情熱だけを与え、神の声を与えてはくれなかった」と嘆き、狂気のようにモーツァルトへの嫉妬・嫌悪・排除へと向かっていきますが(ここでの描写は素晴らしい)でも、他でもない、神はサリエリに「神の声」をききわける才能をお与えになってるではないですか!と思いました。
これはあくまで映画で描かれたサリエリ像ですが「グラン・パルティータ」の楽譜を見ただけでその音楽の素晴らしさを脳内再生させ、オペラをきいてその内容の濃さを理解する-単純な和音と明快な旋律で耳触りのよい音楽が人気を博していたウィーン音楽界に登場した不協和音、長短の見事な融合による陰影、当時誰も理解できなかった音楽を瞬時に「神の声」として聴くことのできた最高の耳。
音楽評論家という職業が当時あったらその道で生活できたでしょう。
製作当時は当然CG・AI技術に頼れないので屋外ロケ(プラハ)、エキストラ、舞台装置を4Kレストアのディレクターズカット版のフルサイズ(3時間の長さも含めて!)映画館ならではの体験。
音楽も重要なこの映画でやっぱり音響は大切、そして40年を経過する作品ですが大画面で観ても服飾や劇場のセットがリアルな輪郭でした。
サリエリモーツァルト邸を立ち去り路地を歩いていく時(あまり細かく書くとネタバレしますが)を含めた足音や人物の話し声も映画こその立体感できこえます。
クラシック音楽に詳しい方が観ると史実との差異やかい離が気になると思いますが(私も最初はその視点からしか観ていませんでした)映画・創作のENTERTAINMENTとして鑑賞するにふさわしいと思います。

 

完聴記~ショスタコーヴィチ交響曲全集⑪(バルシャイ/ケルン放送交響楽団)

ショスタコーヴィチ交響曲完聴記、ついに最後の第15番となりました。
交響曲第15番イ長調 作品141は1971年にわずか2カ月、病気がちであったこともあり、死の影を考えながら書き上げたことでしょう。初演は翌年1月に息子のマクシムの指揮によって成されました。

その初演から4年後の1975年8月9日モスクワで亡くなりました。享年69歳。

第1楽章 冒頭のフルートによる気楽なメロディーに導かれて曲が進むとロッシーニの歌劇「ウィリアム・テル」から引用がひっそりと、しかしハッキリと―それはスイス救国の英雄としてではなく、何の意味ももたないかのように―その旋律はその後もフト登場します。
ショスタコーヴィチらしい響きにマーラー風の木管金管楽器の吹奏などで展開・変化していきコーダになると虚ろで不気味な空気となり、あちらの世界に引き込まれるようにして終止します。
第2楽章 陰鬱なチェロ独奏―そういえば「ウィリアム・テル」序曲の始まりもチェロ独奏で開始されるなぁと思ってきくと、ここでは既に調性が不確かなものになっています。
続く音楽もショスタコーヴィチの独白ともいうべき、真にショスタコーヴィチ色の出ている暗さや闇を感じます。しかし、曲も半ばを過ぎたところで突如、金管楽器の吹奏と全オーケストラによるおさえていた感情が噴き出してきたような瞬間があります(このディスクでは7分04秒のところ)作曲者の死への恐れ、不安が表出していたように思います。
楽章終わりで鳴らされる打楽器は死への行進にも感じます。そこから切れ目なしに4分弱の第3楽章に入ります。
死神・悪魔が飛んでいるかのような(死の舞踏?)雰囲気が充満しています。その反面、アイロニーというか自虐的ユーモアもきこえてくるのが不思議です。
第4楽章 ここでは金管コラールによりワーグナーからの引用・暗示からスタートします(楽劇「ニーベルングの指輪」~「運命の動機」と呼ばれるもの。これもジークフリートの葬送行進曲との関連がある=死)しかし、このコラールも第1楽章の「ウィリアム・テル」の引用と同様に登場はしますが、楽曲展開に大きな影響を及ぼさず弦楽合奏によるセレナードのように澄んで美しい音楽へと移っていきます。
中間部になると今度はパッサカリア形式の長い進行になります―交響曲の終楽章をこの形式で書いた先人作曲家といえばブラームスの第4番(それも最後の交響曲)―何らかのオマージュみたいなものがあるのでしょうか?ここは第2楽章と共にこのシンフォニーのききドコロのひとつといえるでしょう。金管楽器や打楽器の闖入?もなくスマートに音楽をきかせてくれます。
自作、他作からの引用は楽章中にあります。交響曲第4番、チェロ協奏曲・・・7分38秒ではハイドン交響曲第104番「ロンドン」第1楽章導入部もきこえてきます(やっぱりハイドン最後の交響曲)これだけ多数の楽曲引用する作曲者の意図はわかりませんが・・・。
曲の最後は第1楽章冒頭のテーマが回帰、そこにポキポキした打楽器のリズム(交響曲第4番からの引用と思われます)が対話しながら静かに曲を閉じます。そこに何ともいえない無常観、寂寥感。その奥深い響きからは「枯山水庭園シンフォニー」と表現したくなります。交響曲第14番のような厳しさ、きき手に緊張感を強いる印象は伝わってきません。
ショスタコーヴィチの「ラスト・シンフォニー」にふさわしいと思います。

ショスタコーヴィチ交響曲の多くを初演したルドルフ・バルシャイ、声高な自己主張する演奏ではないですが、
あの時代を生きてきた方による楽曲構成を的確に描いた素直にきかせてくれる録音であると思います。

まとめ。全15曲完聴相成りました。
ショスタコーヴィチは19歳で第1番の交響曲を完成し、亡くなる4年前まで生涯を通じて交響曲を作曲しました。その点では重視すべきジャンルと思います。
また1曲1曲それぞれ個性があってそれぞれ独立して鑑賞レベルに耐えうる作品でありながらも、第1番から第15番までどことなく見えない糸で繋がっているような連続性も感じます。
そこには一節きいただけで「ショスタコーヴィチ!」とわかる、同じ手法による良い意味で類型的な所と独創的なところがあるのが面白いです。これから長く付き合っていきたい交響曲になりました。
来月(12月)は他の演奏家による交響曲録音を交えた補稿にできればと考えています。
来年からはショスタコーヴィチのもうひとつの重要なジャンルである「弦楽四重奏曲」(こちらも全15曲あります)にチャレンジしますので引き続きのお付き合いをお願いできれば幸いです。
ショスタコーヴィチ交響曲完聴記へのお付き合いありがとうございました。

Selct Classic(33)~シベリウス:交響曲第6番~シベリウス生誕150年

アニヴァーサリー・イヤーの今世紀シンフォニストの作品紹介、先月はスヴェーデンのニールセン最後の交響曲第6番を投稿しました。今月は同じく生誕160年にして北欧の隣国フィンランドを代表する作曲家シベリウス交響曲第6番を紹介します。

演奏される機会は第1番や第2番の人気作になりますが、シベリウスの作風を感じるなら特に第4番から第7番をきいて欲しいと思います。


1923年2月に初演された交響曲です。着想されたのはその約10年前、第1次世界大戦開戦の1914年と云われています。同時期には第5番、第7番も並行して着想され始めたそうです。しかし戦争による政情不安(当時フィンランドロシア帝国の侵略下になりました)大戦終了の1918年から再び着手され初演と同じ年の1923年に完成されました。初演はシベリウス自身の指揮で行われました(ヘルシンキ・フィル)
全体は伝統的な交響曲のスタイルである4つの楽章から成ります。
第1楽章はヴァイオリンによる北国の寒々とした空気や景色が静かに奏でられてくと、そこに宗教性も感じる木管楽器が穏やかに入ってくるところが素敵です。そこに少しずつ動きが加わってくると都市が朝を迎えようとしているようにもきこえます。コーダがトートツに終わるのは急にしゃべっていた人が黙り込んだみたい。
*音楽に宗教性を感じるところは経済的にも精神的な面でも彼を支えていたカルペラン男爵が1919年に亡くなったということも影響されているといわれています。また同時にシベリウス自身がルネサンス期の音楽研究もしていた背景もあるらしいです。
第2楽章 木管楽器(フルート、ファゴット)が寂しさを漂わせます、深い森やそこにある湖を描いているような―まるで東山魁夷画伯の「山湖遥か」などの風景画が思い浮かびます。後半に少し動きが出てきてその余韻が第3楽章に続きていきます。
第3楽章 騎馬が行進していくようなリズムに導かれてたくましい音楽に発展していきます。
第4楽章 澄んだ冒頭の響きに魅かれます。シベリウスらしいきき手の心にストレートに沁みるメロディーが美しいです。
木管楽器がここでも印象的に使用されます。またティンパニが全体を引き締め、リズムを主導するところもあるので奏者にとってはやりがいがあるのではないでしょうか?
活気あるリズムとダイナミックな展開をきかせてくれます。コーダの教会音楽を連想するようなメロディーが静かで清らかにコーダを迎えるところがとても印象的です。
北欧の自然や空気感、そして人間の温もり、暖かみを描いているようで、60歳を前にした作曲家の円熟を感じることのできる充実した交響曲と思います。そんなエラソーに書いていますが、ベートーヴェンブラームスブルックナーマーラーなどをきいた時のような分り易い大団円があるわけでもないので最初は理解が追い付きませんでした。口ずさめるようなメロディーも無いので何処から捉えていいのか思案するシンフォニーという印象でした―もっとも第3番から第7番も同様の事がいえると思います。勉強不足でシベリウス交響曲の魅力に気付いたのは最近のことです。

【Disc】
シベリウス交響曲といえば古くはバルビローリ、「お国もの」のパーヴォ・ベルグルンド、そして渡辺暁雄、そして直近では若手指揮者クラウス・マケラの全集など様々なディスクが存在しますが、カラヤンの1980年録音盤を―カラヤンなら1960年代の録音でしょう、という方が多いと思いますが、私はこちらに惹かれます―収録がデジタルということもあるのかこの作品の細かい音や繊細な響きが良くきこえてきます。カラヤンの演出力とベルリン・フィルの力により、まさにシンフォニックにきかせてくれます。

あまりの重厚サウンドとその表現に北欧の空気を感じない、という声もありますが現在私のオススメ盤とご承知ください。


余談―カラヤンシベリウス交響曲第3番だけは録音していません。交響詩フィンランディア」はもちろん、管弦楽作品もそれなりに録音は残しているのに何故でしょうか。彼が明言していないので推察するしかないのですが、持論がある方は是非ご教示ください。

完聴記~モーツァルト交響曲全集(その14)~クリストファー・ホグウッド

ホグウッド=シュレーダー指揮、アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックによるモーツァルト交響曲全集の完聴企画も14回目、番号でいうと30番台前半の後期交響曲につながる秀作登場する回までやってきました。

CD12

交響曲 第33番変ロ長調 K.319

1779年にザルツブルクで書かれたシンフォニー。前後の第32番、第34番などと同様に当初は第3楽章にメヌエットを含まないものでしたが、後にウィーンで演奏する機会があったのでしょう、メヌエットを加えて4楽章のシンフォニーとして伝わってきました。ベームはもちろん(以外にもワルターの録音は知りません)数多くの指揮者も昔から取り上げています。例えばクレンペラーやセル、ヨッフムカラヤンアバドムーティ、そしてあのクライバーまで!(父子で録音があります)

第1楽章、第32番、第34番がトランペットやティンパニを編成に含み、祝典的で劇場型の音楽だったのに対してこちらはオーボエファゴット、ホルン各2本に弦楽というシンプルなため愛らしくて、さわやかな流れのメロディーラインが素敵です。また、ジュピター音型(最後の交響曲となった第41番の終楽章の主要主題として登場する「ド」「レ」「ファ」「ミ」の4つの音型)といわれるモチーフが出てきます。まあ、第1番のシンフォニーにも使っているので年少より馴染みのものだったらしく、意図してやったわけではなく、他にもあちこちの作品で使用されているので無意識のうちに出てくる身近なものだったのでしょう。

第2楽章、よく歌うアンダンテ・モデラート。俗にモーツァルトの「田園交響曲」なんて意味の分からない俗称を解説書の類で書かれていますが、伸びやかな旋律のこの楽章をきいているとまんざら的外れというわけではないとも思います。

第3楽章、きりっと引き締まっていて、後から付け加えられたという先入観できくせいかも知れませんが充実したメヌエットであると思います。

第4楽章はキビキビと楽しい旋律が湧き上がってきて心が躍ります。

全体としてとても親密で親しみ易いシンフォニーで、さすがに後期の作品と比べればややクラシカルな形式で書かれた交響曲という印象はありますが、名人による逸品といえるのではないでしょうか?

★★★★★

○シンフォニーニ長調 K.320(セレナード第9番「ポスト・ホルン」の交響曲稿)

第33番の交響曲が書かれた直後に作曲されたといわれるセレナード第9番「ポスト・ホルン」から第1・5・7楽章を取り出してシンフォニー版として演奏しているものです。

勉強不足で申し訳ないのですが、こういった形で演奏することに学術上の根拠があるのか分りません。全曲を知って何回も接している現代のきき手からすると抜粋版をきいた感じになります。

第1楽章はアダージョ・マエストーソのやや深刻な序奏に始まり雄大で堂々とした王者の風格といったアレグロ・コン・スピリトの主部に入っていきます。シンコペーションが印象的で打ち込まれるティンパニが音楽に重厚感が加えられます。

第2楽章、このセレナードで一番好きな楽章で、哀愁が漂い、ニ短調=ピアノ・コンチェルト第20番K.466にも通じるしっとりとした魅力があります。やっぱり原曲がセレナードということもあってデモーニッシュな方向にまでは傾かないのですがいいメロディーです。

オーボエ・ソロにより吹かれるメランコリックな旋律は特にききドコロのひとつではないでしょうか?

交響曲第34番ハ長調 K.338
1780年にポツンと1曲書かれたシンフォニー。最初は第2楽章にメヌエットを含むハズだったのですがモーツァルト自身が削除しています。その削除されたメヌエットハ長調K.409(383f)として独立してケッヘル番号が付与されている曲ともいわれていますが、楽器編成が合致しない疑問もあるそうです(私はきいたことはありません)

第1楽章のアレグロ・ヴィヴァーチェは力強くて派手な始まりですが、長短の転調が表面的な華やかのみではない厳かな響きを生みだしています。それがオペラや劇音楽の序曲のような感じにもきこてくる瞬間があります。

第2楽章、アンダンテ・ディ・モルト。繊細な音楽で室内楽をきくような親密さ、少しロマンテックな感じもあります。こういった目立たない交響曲でも充実した音楽をきけるとここまでモーツァルト交響曲をきいてきた甲斐があるというものです。

第3楽章はアレグロ・ヴィヴァーチェ。ジグのリズムによる軽快で活発な音楽です。木管をソロイスティックに扱って耳を楽しませてくれるのも魅力です。

★★★★

【演奏メモ】

第33番の「ジュピター」音型をそれと分からせるように表現しています。

「ハフナー・セレナード」のシンフォニー版の第2楽章ではオリジナル楽器特有のサッパリした響きを生かしてあまり悲愴的、デモーニッシュな表現に行きすぎないように演奏しているように思います。

第34番の第2楽章は小編成によるオーケストラということもあって非常に親密でデリケートな仕上りです。

木管楽器は全曲を通じてここでも柔らかく合奏から浮かび上がってきます。

アーノンクールのディスク視聴記~J.S.バッハ:モテト集

J.S.バッハの声楽作品といえば「マタイ受難曲」「ミサ曲ロ短調」「ヨハネ受難曲」そして200曲を超える教会カンタータがその質・規模から名曲といえるものばかりですが、6曲残されているモテト(Motetten)BWV.225~230も目立たないですが佳作もあります。

それらを私の「偏好・偏愛指揮者」ニコラウス・アーノンクール氏も録音を残しています。彼の録音では注目されることはまずないですが(もっともバッハのモテトの知名度自体あまり無いので)その視聴記の投稿となります。

ストックホルム・バッハ合唱団(合唱指揮:アンデルス・エールヴァル)

ウィーン・コンツェントウス・ムジクス

指揮:ニコラウス・アーノンクール

録音:1979年

モテトのほとんどが機会音楽、有力者やその親族の葬儀用として書かれたものになります。曲によって書かれた時期もまちまちなので編成は異なりますが、基本は混成合唱に弦楽器と通奏低音の少人数になります(BWV226ではオーボエなど木管楽器が加わります)

主な作品をピックアップすると―

「主にむかいて新しき歌を歌え」BWV225はモーツァルトが1889年ベルリンに向かう途中で立ち寄ったライプツィヒでこの作品をききとても感動したというエピソードが伝わります。

ザクセン選帝侯アウグストの誕生日用に書かれたといわれ、8声2部に分かれた合唱が歌い交わしてフーガを形成していくところはきき所のひとつでしょう。

「御霊はわれらの弱気を助けたもう」BWV226は葬儀用の作品。しかし合唱が力強く歌うので参列者達が棺に入った死者の周りを取り囲み黄泉の国へ送り出しているみたいにきこえます。

「イエスよ、わが喜び」BWV227はモテト中最長の演奏時間(ここでは20分)

全11曲から成り、第6曲を中心に前後がシンメトリーな形となっており―バッハはこういった規律性を持った作曲方法に執着・固執がありますね―その他の作品を含めてバッハらしいメロディーやハーモニー、フーガ展開がきこえてくるので声楽曲のミニチュア版としても楽しめる曲集です。

演奏は中心となるコーラスの澄んだハーモニーが魅力です。ここで歌っているのはストックホルム・バッハ合唱団。月並みな表現ですがやっぱり北欧の合唱団!と感じます。きめの細かい声質も作品との相性もいいように思います。モテト自体が古風な音楽で、ルネサンス期の作風に通じるところもあり―当然バッハもそれらの音楽を学んでいたからでしょう―そういった温故知新的、古い音楽とも通じるものを意識させるところがアーノンクールはうまいです。

葬送用の音楽なので暗く、重いところもあり、この演奏ではそこが強調されて気になるという方もいるかもしれません。録音されたのが1979年なので現代の古楽演奏家達ならもっとスマートな仕上がりになるでしょう。

しかしその厳粛なところや静けさを際立たせてきかせて納得させてしまうのが演奏者の力量とバッハの音楽が持つ最大の魅力でしょう。またフレーズひとつひとつが柔軟で生きている人間の呼吸感を伝えてくれます。

今後も折々に手持ちのアーノンクールのディスク視聴記を投稿していきたいと思います。

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