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「アボリジニナル・メッセージ」飯島浩樹著〜所有や支配ではない共有の世界〜必要な分だけ

 やはり私たちは原点に帰らないと…

 

「アボリジニナル・メッセージ」

飯島浩樹著 扶桑社

 

 意図してこの本を読もうと思ったわけではない。

 2025年も終わろうとしているが、今年は、いわゆる先住民族たちの、平等、公平、共有、権力者のいないコミュニティ、そして自然との共存というの狩猟採集社会の尊さについて知り得る機会に恵まれた。直近では、「入門講義 アニミズム」(奥野克巳著)という書物にも出会い、「動物も川も人間も平等という知恵」をあらためて授かった。

 人間中心主義とは違う世界観を取り戻すことは大切だ。MAGAどころの騒ぎではない。アメリカや日本を取り戻している場合ではない。彼らの言うところの「偉大さ」を乗り越えてさらにずっと以前の人類の環境という意味でのアメリカや日本ならOKだが。ネイティブアメリカンや、日本だったら縄文人、かな。

 経済、株価云々よりも、後戻りできなくなるかもしれないほど差し迫った状況にある地球について憂慮すべき今は2025年。21世紀の最初の四半世紀が終わろうとしているのである。

 そんななかで出会ったこの本「アボリジナル・メッセージ」。

 憂慮の答えを見つけたくて探していたわけではない。偶然に目にとまったのである。

 

「アボリジナル」とは、オーストラリアの先住民族のことで、以前は「アボリジニ」と呼んでいた。現在は「アボリジニ」が差別的な意味合いを持つということで、「アボリジナル」と呼ぶそうです。

 TBSの記者として活躍した著者。今はオーストラリア在住のジャーナリスト。

 

 オーストラリアのアボリジナルは、多様なコミュニティ社会で、ヨーロッパによる植民がはじまったころには、250を超える言語が各部族にあった。

現在も存続しているのはそのうちの120ないし145種類であり、さらに危機に瀕する言語とされていないのはわずか13種類に過ぎない。

(ウィキペディアより)

 言語と部族の多さに驚きだが、コミュニティ社会とはそういうものなのかもしれない。

 

 もちろん、彼らのコミュニティも、平等で公平で、所有しない、権力を持たない、そいう社会である。現在も。

 なかには、白人と出会うことで、資本主義と強欲に引っ張られてしまったアボリジナルもいるそうだが、それはどこにでもある人間の習性なのかもしれない。

 

 2011年の福島第一原発事故のとき、カカドゥ国立公園に暮らすミラル族の人々は、ここのレンジャーウラン鉱山で採掘されたウランが日本で原発に使われていたことを申し訳なく思ったそうだ。

この場所が乱されると全世界に大きく危険な力が放たれると常に信じてきました。わたしの父は1970年代にオーストラリア政府にこのことについて警告しましたが、権力ある地位の人々は、誰も彼の言うことを聞きませんでした。今日、皆さんのような方々が耳を傾け、行動してくださることを願っています。

(P41〜42)

 これは、2011年4月に、ミラル族長老のイヴォンヌ・マルガルーラから当時の国連事務総長である潘基文に送られた手紙の一節。レンジャー鉱山は2021年に閉山している。

「この場所が乱されると全世界に大きく危険な力が放たれる」って、パンドラの箱みたいですね。

 でも、こういう神秘的なことってあると思うし、加えて、その言い伝えは、そこに埋まっている物(ウラン)が危険なものだということを先祖たちは知っていた、ということなのだろう。

 でも、どうして神様は、そんな危険な物質を地球に埋めたのでしょう。何かの試練、テストなのでしょうか?それとも何かの拍子にどうしてもできてしまう負なるもの、なのでしょうか。

 

 東日本大震災のとき、どこの先住民族の方か分からないが、来てくださって祈ってくださっている姿をニュース映像で見た記憶がある。なんだか嬉しかったし、神聖な気持ちになったのを覚えている。

 

 面白いエピソードがある。

 アボリジナルは、遠慮するという概念がないそうで、著者が飛行機に乗っていたときのこと。通路脇の席を指定して座っていたところ、出発直前に乗り込んできたアボリジナルの若い女の子二人が、窓際席と中央席のチケットを持っていたのだが「ここに座りたいから奥に移動してくれないか」と頼んできた。著者はしぶしぶ奥に移動した。トイレに立つのが便利なので通路側の席を指定したのに…。

結果的には仲良くなりましたが、基本的に人を信頼しているためなのか、相手に過度な遠慮をすることはありません。周囲への気遣いや気持ちに繊細な日本人からすると、このマイペースさは大きなギャップです。

(P78)

 日本にいてこんな人がいたら、なんて図々しい失礼なやつなんだ、と感じますよね。なんというか、異文化ギャップ。

 でも私、ちょっと思っちゃいました。だったらこちらも遠慮なしに、「私はこの席が好きなんです。譲れません。トイレも近いので」とかなんとか言えばよかったのにって。要求を断っても相手は気分を害さないはず、ですよね。

 

薬草になる木の見分け方など、親や周りの大人たちから、様々な生きる知恵を授かってきたそうです。こういった教えや知恵は、部族を守ったり、自己のアイデンティティを確立するためのものであり、誰かを支配するためのものではありません。

(P82)

 誰かを支配するためのものではない。資本主義社会、権威主義社会では、その逆の気持ちを持って、持たされて生きていますよね。

 

アボリジナルは共有が基本なので、そもそも所有の概念がありません。所有の概念があると生まれるのが支配構造です。(…)

アボリジナルには、こういった支配構造が基本的にありません。

(P83)

 長老はいるが、特権があるわけではない。

 支配欲は、所有の概念から生まれるのですね。

 

なぜ彼らは野心がなく暮らしていけるのでしょうか?

それは幸せの価値観が現代人とは異なっているからです。アボリジナルにとってはお金も権力も意味がなく、アートや音楽などの自分の楽しいことにこそ生きがいを感じているからです。誰かと比較したり支配したりすることもなく、ただ己の喜びに焦点を当てて自分の道を進んでいます。

(P85)

 このあと、「ある意味、トップアスリートやアーティストたちと似ているのかも」と書かれているが、ここはちょっと微妙かもしれない。

 その前の土台の思想を変えないと難しいと思う。

 私たちの世界では、アートやアスリートは順番をつけられる。ゆえに、ただただ楽しく自分の道を歩む、ということだけをすることはできない。趣味としてそうしている人たちもいるが、プロの世界があって、そこには比較もあれば嫉妬もある。

 ピアニストのアンドラーシュ・シフがこう言っているそうです。

コンクールは良くないものだと思います。音楽はスポーツではありません。芸術には計り知れない多くの要素があり、速さや距離などで数値化することができません。審査員の嗜好や感情が入り込んでしまうのです。

 

 先祖の伝承をアートで伝えているアボリジナル。

 この本の表紙にある絵のメッセージは「もし必要以上に大地から搾取するなら、大変なことが起きる。人間は強欲を止めて必要な分だけ取り、シェアしなさい」(P104)。

 シドニー在住の先住民、ワランガリ・カーンタワラの作品。

 

 ワランガリ・カーンタワラは、2011年の東日本大震災のあと、シドニーで開催された被災地復興チャリティーイベントで、伝統楽器イダキを演奏してくれた人だそうです。

 その彼からの日本人へのメッセージから一節。

人間は、他の人に何かを与えたいと思い、また受け取り、分かち合いたいと考えるようにデザインされています。しかし、もしあなたが自分自身を啓発しないと、他の人も何をすべきが分からなくなってしまいます。

(P119)

「他の人に何かを与えたいと思い、また受け取り、分かち合いたいと考えるようにデザインされています」とは、すばらしい。たぶん、そのとおりなんだと思う。誰かに何かをしてあげて喜んでもらえたとき、私たちは嬉しいですよね。

 そういう仕組みがもともと人間には組み込まれているのだとしたら、現代社会は極めてよろしくない状況にあると言わざるを得ない。タイパコスパ。誰かを助けるなんてもってのほか。競争社会。時間の無駄。そんなことより自分のこと。自分ファーストだから。それのどこがいけないの?

 実は、自分の本当にしたいこと、自分の心が本当に喜ぶこととは違うことをしている私たち、のようですね。

 

アボリジナルの社会は、嫉妬が災いの元であると考えています。所有の概念があると、人は「持つ者」と「持たざる者」に分かれ、その結果、妬みや競争が生じます。アボリジナルの社会は、資源をデマンド・シェアリングで平等に分配するのが原則になっているので、もし誰かが食料などを独り占めしたり、不平等に分配したりすると、そこに強烈な嫉妬が生まれるのです。それが村八分や暴力的なリベンジなどを誘発し、コミュニティの不和をもたらす元凶になりかねません。

(P146)

 これだよね。今の地球はこれで満ちている。たくさん消費させるために、そうさせられているのかもしれない。

 

アボリジナルのメッセージは、目に見えないけれども実は「存在」しているもの、人類が共通して「無意識」に持つ「正しい道」を私たちに教えてくれるポジティブで平和を求めるメッセージです。(…)

私たちがこのメッセージを受けることにより、共存と協力の姿勢を持ち続けることができれば、世界は能動的に明るい未来へと変わっていくことでしょう。

(P162)

 そのとおりなのだと思います。

 

 最後に面白いエピソードをひとつ。

 著者が少年を家まで送り届けたとき、彼の祖母と親しく話をしていたところ、祖母が「近くのマーケットで食料品を買うためのお金を少しもらえないか?」と頼まれたが、現金の持ち合わせがなかったので丁重にお断りした。著者は言う。アボリジナルの共有、シェアの感覚の現れだ、と。

 なんなら上で言及した、遠慮のなさ、かもしれないと私は思った。

 ところが、この行動の背景には「お金やモノを要求することで、相手がどこまで自分のことを考えているのか、本当に家族になれるのかを試すという伝統からくるものだと指摘する研究者もいる」そうです。

 私もそれはあるのではないかな、と素人ながら感じた。相手が安全で信頼にあたいする人間か試す、ということは、どんな社会でも必要なのかもしれない。

 どこまで自分のことを考えているのかを試す行為は、行き過ぎるとえらいことになってしまうので、要注意ではある。すなわち、巷間でよく見かける強烈なわがままや承認欲求。

 他人と自分の関係、その距離、ということにちょっと思いを馳せた。

「アボリジナル・メッセージ」 ©2025kinirobotti



 

 

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