そもそも私たちは、人生を楽しんでいるのか?
「手段からの解放」シリーズ哲学講話
國分功一郎 新潮新書
この本は、カントの批判哲学を軸に、「快」「楽しむ」についての論が、「快適」「美」「崇高」「善」という四つの「快」を比較しつつ語られていく。
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「美しさの謎」と著者は言う。例えば私たちがあるバラを見て「これは美しい」と判断してそう言うときのことをこう書いている。
その判断に誰もが同意することを確信し、しかも、大抵の場合には美しいものには普遍性があるわけです。
美しいとされている対象をかき集めたところで、美しさの条件が得られるわけではないし、我々はそのような条件を学んだから美の判断を下すわけではない。
(P166)
「美しい」「美しいバラ」はこれこれこういうものですよ、ということを私たちは学習していない。けれども、あるバラを見たときに、「美しい」「きれい」と私たちは言う。そして、他の誰もがそう思うであろうことを疑わない。みんな自分と同じように感じていると思っている。
なんでだろう?
私は、この箇所を読んで「これは、プラトンのイデア」だ、と即座に思った。
すると、上記のすぐあとで、著者がプラトンに言及していた。
たとえばプラトンだったら、僕らがこの世に生を受ける前に、イデア界において美のイデアを見ていたからだと説明するでしょう。
(P167)
そう、そう、と私は頷きました。
今ではこのような考えを真に受ける人はいません。
え?そうなんだ……
えっと、私は、どちらかというと、真に受けています。
しかし、イデアのようなものを前提せずに、どうやって先の謎を解けばよいのでしょうか。イデア界の実在は信じないとしても、美の本質のようなものがあると考えたくなるのは少しもおかしなことではないのです。
イデアに頼ることなくこの謎に果敢に取り組んだところに、『判断力批判』のすごみの一つがあります。カントは個人的な判断が、それを超えた普遍性を要求するものにまで高まる仕組み、まさしく、高次の能力が発揮される仕組みを解き明かそうとしたわけです。
(P167)
國分先生も、同じことをなさろうとしているのだと私は思います。
すなわち、論理的に「謎」を解明する。それはたぶん、公式のように、言葉で論を組み立てて、そして人類が明確に理解できるように。
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「なんらかの必然性のようなものを感じる」「こうでしかあり得ないと感じる」これが、美の正体だという。
「真善美」って、そういうことなのかな、とふと思う。
「善」についてはこうある。
人間は善とは何かを教わらずとも、事実としてそれが何かを知っているということです。(略)人間にはあらかじめ道徳的観念が備わっている。
(P151)
「気持ちよくなるから人に親切にする」という振る舞い方は低次の欲求能力の実現と言えます。
では高次の欲求能力の実現とは何か。それは、「これはやらなければならないことだからやるのだ」という形で行われる行為に他なりません。善はただ善であるという理由だけで為されなければならない。
そのような形式に沿って行為する時、その人は道徳的であり、高次の欲求能力を実現していると言われます。
(P153)
「善」は、あらかじめ人間が知っている道徳的観念なので、善なる行為をするときに、その評価や満足を得るためにするというのは低次元の行為、ということだ。確かに。
誰か困っている人がいて、その人を咄嗟に助ける、助けてしまう、というのが人間に備わった道徳心なのだろう。でもきっと、そんなときにも、ここで助けたらヒーローになれるとか、咄嗟に人目を気にして行動を起こす(ことができる)人もいるんだろうな。怖い。
僕はカント哲学の一つのポイントは、その議論が、「どうしてなのかはよくわからないけれども」に依拠しているところだと思います。
(P155)
どうしてかはわからないけれども、何が道徳的で何が道徳的ではないかが人間には分かっています。これは言い換えれば、人間には既に自分のあるべき姿が分かっているということです。
(P156)
善ということを考えるとき、「神は見返りを求める」(2022年日本)という映画を私は思い出す。
主人公の田母神尚樹(ムロツヨシ)は、お人好しすぎるほどの善人。困っている人を助けずにはいられない。けれどもあるとき、ずっとお金を貸し続けて助けてあげていた友人を、ただお金を渡しているのは逆に親切ではないのではないかとお金を渡さずに追い返した。すると友人は自殺してしまった。さらに、無償で手伝ってあげていたユーチューバーのゆりちゃん(岸井ゆきの)とひょんなことから仲違いしてしまい、「見返りを求める男」と「恩を仇で返す女」の壮絶なバトルがはじまってしまい……。
上記にあるように、人には道徳的素養が元来備わっているので、困っている人を思わず知らず助けてしまうのが本当の姿なのだろう。ゆえに、お人好しすぎるほどの善人である田母神の姿が、人間本来の姿なのだろう。けれども周囲の人たちは、お人好しで損ばかりしていると彼を評する。
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著者は、「楽しむことについての哲学的探求」を試みているのである。
「楽しむことには、人間の生に喜びを与えるだけでなく、おかしくなってしまったこの社会を変えていく力があると、真剣にそう考えてきた」と、「まえがき」にある。
「嗜好品」を味わっている時には、もはや目的は関係ありません。嗜好品はただ直接に快適であるのです。
(P184)
「嗜好品」を「目的」のための「手段」としてしまう、そんなことがある。現代社会ではそちらのほうが大きい。
例えば「健康」「ダイエット」。医師からの指導でそうしなければならないのは致し方ないとしても、そのためだけの食事というのは、なんとも味気ない。私も経験があるが、とてもストレスフルだ。
大谷翔平が何を食べているかが話題になったとき、とにかく体作りと健康ための「栄養摂取」をしているらしいという報道があった。味付けもしない、とか。え?そんな食事って美味しいのかな、楽しいのかなと思ったが、スポーツ選手はそんなもんか、と私はとりあえず理解した。
でもなんか、お菓子とかもいろいろ食べてるみたいなことが分かって、ほっとした。
もちろん、暴飲暴食は誰にとってもよくないと思うけど。
そのものを、好きなものを「ただ楽しむ」、「楽しいからする」ということが、現代社会ではできなくなっている。食事をゆっくり味わうことができている人はどれだけいるんだろう。栄養摂取ではなく賞味している人。
中島岳志が、「手段からの解放」の書評(2025年2月8日 毎日新聞「今週の本棚」)のなかで
現代社会は、「いま」を失っている。
と書いている。
子どもは受験のために、若者は就職やキャリアップのために、中年は資産運用、老齢になると就活で、「いま」という時間が、目的のための手段になって、その時々の楽しさが収奪されている、という。
本当にそうですね。「Carpe Diem」(今を生きる 今を楽しむ)からは程遠い。
ハンナ・アーレントは、全体主義社会においては「チェスのためにチェスをすること」が許されない、と言った。「戦略的思考を身につける」とか「勝負強くなる」といった目的に奉仕するのでなければならない。
そういえば昔、将棋や囲碁も、頭が良くなるからやれ、みたいなことを言っている人が学校にも近所にも親戚にもたくさんいた。
藤井聡太は、おそらく「将棋のために将棋をしてきた」「将棋を楽しんできた」「やりたくてしかたがなかった」「気づいたらやってる、考えてる」その結果として、今の地位にあるのだろう。それは、そうせざるを得ない運命的な何かが働いていたのかもしれないが。
もちろん、野球にせよ、将棋にせよ、あらゆるスポーツや職業で、目的を設定して取り組む人もいるだろう。地位やお金、尊敬されたいとか、モテたいとか。これはこれで私も言いたいことはあるのですが、ここでは触れません。
例えば趣味でテニスをやっていて、単純に楽しんでいたところ「大会を目指してみないか」と言われて楽しめなくなってやめてしまった、という人がいる(逆にそれで燃える人もいるが、楽しむというよりも試合に勝つという目標のためにテニスをしているということになってしまうのかもしれない)。ゲームには競争や勝敗がつきものだ。ただ楽しみたいのに、そこで他人と比較されていく。もちろん、なんらかの目標をもってそこへ向かって進んでいくことは、訓練や成長に役立つが。
学校でもそうだ。私たちは常に他人との比較のなかにある。それで勉強が嫌いになってしまう人もいる。もちろん、ひたすら好きで取り組んでいたらいつのまにかトップになっていた、ということもある。
大学だって、就職のために勉強している(その場合、勉強というよりもただ通っていると言うべきか)のかと思ったらつまらなくないか?ひたすら学びたいこと、知りたいことに取り組み探求していく、その過程にこそ喜びも楽しみもあるのだと私は感じているのだが。成績や就活のためではなく。
なにはともあれ勝利のために取り組んでいる人と、ひたすら好きで取り組んでいる人では、きっと心身に大きな違いが出てくるのではないか…。でも少なくとも現在の地球は成果主義で、タイパコスパの価値観だ。それについていけない人が確かにいて、彼らは楽しみを奪われている。
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この本を読んでいたことで、「あ、このことだな」と思ったニュースがあった。
100円ショップや手芸店などで毛糸が売れまくっているという。なぜか?
あるインフルエンサーが自分の編み物作品を紹介したことで、若い女の子の間に「編み物やってみた〜い」が広まったそうだ。街頭インタビューで、ある女性がこう答えていた。
「無心になれる」と。
編み物をしていると無心になれる、それほど夢中になれる、というのだ。「編み物のために編み物をしている」ということではないか。
「これ、編みました」と、この人たちは自分で編んだものを身につけている。帽子だったり。けれどもおそらく、「これをつくるために」編み物をする、というのではなく、「編み物をする」ので、じゃあ、これを編んでみようか、って感じなのではないだろうか。例えば、恋人のために手編みのなんちゃらをプレゼントする、そのために編み物をする、というのとは違う、と私は理解したのだが、どうだろう。
ゆえに「手段からの解放」によって「楽しむ」状態になっている。「編み物」って無心になるには非常に良い作業のようだ。
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依存症の問題も語られる。
アルコール依存症に陥った時、人はもはやアルコール飲料を楽しんでいない。
(P197)
これは、アルコールに限ったことではなく、あらゆる「依存」に共通していると私は思う。飲食のみならず、人に対してもある。いわゆる「推し活」のなかにも「恋愛」のなかにも、同様のことはある。
自分の何かを埋めようとして、それらにすがり、次第に度を越して理性を失っていく。大小の差はあると思うが、誰でも一度は経験したことがあるのではないだろうか。

②へつづく
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