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パンセ(みたいなものを目指して)

長年付き合ってきたGooブログからの引っ越しです 思いついたこと、日記風なもの、年相応の社会的なもの、市政のこと、音楽、サッカー、つまりはごった煮の内容です

新城市議会 一般質問初日

新城市議会の一般質問が昨日から始まった
市議会議員は18名、議長を除く17名が登壇することができるが
市議会のHPで発表された質問者の数は15名
2人が一般質問をしないことになるが
新城市では毎回ほとんどの議員この機会を利用しているので
質問をしない人は逆に目立つことになる
(このうちの1人は相変わらずこの機会を使わないし
 もう1人は新人議員)

今回の選挙で新人は4人で、そのうち2人はよく知っている人物
1人は共産党系の方で名前だけは知っていて、残る1人は全く知らない人
新人の一番若い彼は、少年サッカーのコーチ時代に少しばかり面倒を見た人物で
人は小さな頃と随分変わるものだと実感することになったが
いざ中継もある一般質問となると心配で本人よりもドキドキしそうだ
(彼ともう一人の質問が見たくて現場で傍聴した)

実際は「案ずるより産むが易し」の典型で、初めての一般質問は問題なかった
市民病院と消防団の問題を取り上げていたが、彼の実体験に基づく問題提起なので
リアリティがあって途中から安心して見られていた
質問を終えて休憩時間になると、彼は傍聴席に歩みよって何か聞きたそうな表情
「まずまず良かったよ」
その評価にホッとした表情を浮かべた
でも始まったばかりで、任期中に16回あるうちの1回が済んだだけ
新人の時の気持ちがずっと続くことを期待したい

気になるもう一人は、やる気はあるのだがいつも空回りするタイプの人
一般化されていない独特の言葉遣いが多く、何を言いたいのか、聞きたいのかが
はっきりしないことが多い(彼のテーマは公共交通と観光施策についてだった)
最近は慣れてきたので、あのことが聞きたいのだろう、、と想像できるが
もう少しわかりやすい表現をすればいいのに、、といつも思う

それを思うと、質問に答える行政の人の(質問の)読解力は凄いな、、と思う
質問に意図を把握して具体的に答える
その行為自体がどれだけの力量を必要とするかを想像すると
壇上にいる人たちはそれなりの力を持っている人たちだとは思う
(みんながみんなその力を持っているとは言えず、特に一人だけ感心したのだが)

 

ところで一般質問は内容が被る場合もあるが、殆どが違うテーマになっている
それを思うと、議員の数がそれなりに多いのも意味あることかもしれない
多くの視点から市政のチェックをする、、
形式的にはそれも良いかもしれないと思えないこともない
(でも正直なところ中にはちょっとどうかな、と不安な議員さんもいる)

議会傍聴をするといつも驚くのは、
世の中は本当にいろんな法律で縛られているということ
行政は勢いで何かをすることはできず、あらゆることに何らかの縛りがあって
それに従って行うようだ

そうはいうものの、少し違和感があるのは行政の事業の進め方で
ほとんどの場合が、現状分析、検討委員会、それから基本計画、それから、、
と何年もかかりそうな手順を踏むようになっている
そこで感じるのは「会議ばかりしている」という印象で
その会議自体が本当に機能しているのか?」と思えてならない
会議に参加するメンバーの選択が果たして適切なのか?
会議の進め方自体に意図的なものはないか?
そんなことを思うと、しっかり段取りを踏んでいるとしても
どこか違ってるのではないかと気持ちを払拭できない

と文句はあるものの、今日も一般質問は続く
もう一人の知り合いのデビュー戦を見に行くつもり
(多分彼には余分な心配は必要ないだろうが)








新城市議会 一般質問初日

新城市議会の一般質問が昨日から始まった
市議会議員は18名、議長を除く17名が登壇することができるが
市議会のHPで発表された質問者の数は15名
2人が一般質問をしないことになるが
新城市では毎回ほとんどの議員この機会を利用しているので
質問をしない人は逆に目立つことになる
(このうちの1人は相変わらずこの機会を使わないし
 もう1人は新人議員)

今回の選挙で新人は4人で、そのうち2人はよく知っている人物
1人は共産党系の方で名前だけは知っていて、残る1人は全く知らない人
新人の一番若い彼は、少年サッカーのコーチ時代に少しばかり面倒を見た人物で
人は小さな頃と随分変わるものだと実感することになったが
いざ中継もある一般質問となると心配で本人よりもドキドキしそうだ
(彼ともう一人の質問が見たくて現場で傍聴した)

実際は「案ずるより産むが易し」の典型で、初めての一般質問は問題なかった
市民病院と消防団の問題を取り上げていたが、彼の実体験に基づく問題提起なので
リアリティがあって途中から安心して見られていた
質問を終えて休憩時間になると、彼は傍聴席に歩みよって何か聞きたそうな表情
「まずまず良かったよ」
その評価にホッとした表情を浮かべた
でも始まったばかりで、任期中に16回あるうちの1回が済んだだけ
新人の時の気持ちがずっと続くことを期待したい

気になるもう一人は、やる気はあるのだがいつも空回りするタイプの人
一般化されていない独特の言葉遣いが多く、何を言いたいのか、聞きたいのかが
はっきりしないことが多い(彼のテーマは公共交通と観光施策についてだった)
最近は慣れてきたので、あのことが聞きたいのだろう、、と想像できるが
もう少しわかりやすい表現をすればいいのに、、といつも思う

それを思うと、質問に答える行政の人の(質問の)読解力は凄いな、、と思う
質問に意図を把握して具体的に答える
その行為自体がどれだけの力量を必要とするかを想像すると
壇上にいる人たちはそれなりの力を持っている人たちだとは思う
(みんながみんなその力を持っているとは言えず、特に一人だけ感心したのだが)

 

ところで一般質問は内容が被る場合もあるが、殆どが違うテーマになっている
それを思うと、議員の数がそれなりに多いのも意味あることかもしれない
多くの視点から市政のチェックをする、、
形式的にはそれも良いかもしれないと思えないこともない
(でも正直なところ中にはちょっとどうかな、と不安な議員さんもいる)

議会傍聴をするといつも驚くのは、
世の中は本当にいろんな法律で縛られているということ
行政は勢いで何かをすることはできず、あらゆることに何らかの縛りがあって
それに従って行うようだ

そうはいうものの、少し違和感があるのは行政の事業の進め方で
ほとんどの場合が、現状分析、検討委員会、それから基本計画、それから、、
と何年もかかりそうな手順を踏むようになっている
そこで感じるのは「会議ばかりしている」という印象で
その会議自体が本当に機能しているのか?」と思えてならない
会議に参加するメンバーの選択が果たして適切なのか?
会議の進め方自体に意図的なものはないか?
そんなことを思うと、しっかり段取りを踏んでいるとしても
どこか違ってるのではないかと気持ちを払拭できない

と文句はあるものの、今日も一般質問は続く
もう一人の知り合いのデビュー戦を見に行くつもり
(多分彼には余分な心配は必要ないだろうが)








新城吹奏楽団 第101回定期演奏会

100回目の先回は、99回目に行われたクイズに当たって
招待券を2枚手にすることができて、その1枚は知人に渡した
101回目の昨日はその知人から
「同時刻の別のイベントに行くことになって、行けなくなったから」
と彼が購入したチケットを頂くことになった

午後2時から開催された新城吹奏楽団のコンサート


年に二回の定期公演、これがなかなか楽しい
演奏曲のほとんどが10分くらい
長くて集中力を要するクラシック音楽とは違って気軽に楽しめる
何よりも演奏しているメンバー自身が楽しそうだ
でかい音を思いっきり出す生理的な快感は、出す方も味わう方も
生でしか味わえないものだろう

プログラムはこんな感じ


大トリはショスタコーヴィッチの5番の交響曲の第4楽章
勢いがあって派手で、これは盛り上がるだろうな!
とポスターを見た時点から想像する

最初の曲は、新城吹奏楽団の実質的な運営者だった故山本家寛さんの曲
毎回のように彼の曲は演奏されるが、難解とは言わないまでも
今の気分を滲ませる音楽で、美味しいメロディはそんなに無い
むしろ響きの鋭さみたいなものが主体で、武満徹の音楽を連想させる
同じ現代のひとの次の演奏曲と比べると日本的な感覚がよく分かる
と同時に、聞きやすいメロディがあることの良さも実感する

真ん中のプログラムはバッハの曲
アリアは前はバッハの音楽への導入部のようで
2曲目はまとわりつくような伴奏に併せてコラールがトランペットで
奏されるが、その明るさというか輝きの気持ちがとても気持ちよかった
そしてフーガト短調はバッハの得意な対位法による作品
演奏している人たちは、和音でその瞬間の気持を表すのではなく
個々の声部がそれぞれ主張する音楽を楽しんでいるのだろうか?
と気になった
それは、小学生の時、器楽演奏で少ない楽器から徐々に楽器が増えて
  ハーモニーが確立されるようになった時、自分はふわっとした心地よさ
を感じたのだが、個々の声部が独立して合わさっていくのは
奏者の感覚としてはあのふわっとした感覚とは違うのだろうな
と思ったのだった

また少しの休憩を挟んで、サンサーンスの「サムソンとデリラ」からの音楽
聞いたことはなかったが、異国風のメロディがなかなか面白かった
特に難しそうなところはなく、その異国風自体を味わえばそれで良さそうな感じ
そして大トリのショスタコーヴィッチの5番、
大きな音をみんなで思いっきり出すこれは楽しいだろうな、、と聞いてる方も実感する
多少の演奏のほころびなどは気にならない
イケイケ、ドンドンみたいに始まったらノーブレーキで進んで行く感じ
何回か前にもこの曲は演奏されたような記憶があるが
奏者自身も演奏したい曲なんだろうな、、と思ったりする

実は家に帰ってからレコードでショスタコーヴィッチの5番の最終楽章を
復習の意味で聴いてみた
この最後の楽章もいいが、その前の夜を感じさせる第三楽章もなかなか良い
実演ではゲルギエフ指揮のマリエンスキー管弦楽団で聴いたが
ゲルギエフはロシアのウクライナ侵攻以後、音楽会の主要ポストから
外されて今は何をしているのか、、と気になる

ということで日曜日は、なかなか良い日だったということ
ショスタコーヴィッチの5番の終楽章はこんな曲


www.youtube.com


マーラーを思い起こさせる第3楽章はこんな曲


www.youtube.com




ChatGPT&Copilotの教科書

最近、面白半分に使っている生成AI
使い方も原理もわからないが、試行錯誤であれこれやっても結構楽しめる
確かに質問(プロントプト)の出し方の優劣で出てくるようだが
今のところ不満な答えはない状態だ

ただ、彼らを全面的に信じるのはまずいとの気持ちもあるので
ChatGPT、Copilot、Gemini、Grokに時々、同じ問をして
その答えの比較をしてみることがある
大半は同じ様な答えだが、それでも個性のようなものは存在する感じだ
個人的にはChatGPTが一番充実している印象を持つ

無料で遊べるのでありがたいが、深堀りしていくと無料使用の制限量に
達したので、一旦時間を空けて再挑戦してほしいとか
有料プランを採用してほしいとのメッセージが現れる

現役から離れて、やらなければならない作業もほとんどない
だから仕事でこの文明の利器を使う機会もなく有料化までには気が進まない
限られた範囲内で、ただただ彼とのおしゃべりを楽しんでいる

とりあえず遊べているので不満はなかったが書店に行くとこの本が目に入った



確かにわかりやすい
原理とか仕組みとか、プロンプトの仕方とか(気づきもしなかった方法があった)
彼らの回答が誤ったものにならない様にするための方法とか
人は本当にいろんなことを考えるものだ!と改めて感じるものだった
(生成AIが嘘を発出することをハルシネーションといい
 それに対する対応策も書かれていた)

この本を読んだ後、個人的に気になっている市政とか社会の問題点を庶民が
気軽に話し合うおしゃべり会のチラシ作成を頼んでみた
親しみやすいイラストを入れることをお願いしたら、すこし時間がかかったが
とりあえず作成された
これはちょいと使い物にならない感じだったが、修正等を指示していけば
良くなるらしい

Copilotはマイクロソフトの運営なので、パワーポイントとかエクセルでの
回答もできるらしい(パワポでプレゼン資料の作成指示ができるということ)

ということで、何となく試行錯誤で使っていたこれらのおもちゃは
こうして秩序だって学んでいくと頭がスッキリする
そして改めて感じるのは、昔、インターネットが広が始める時に漠然と感じた
「新しい可能性に満ちた世界が誕生する」との印象とそっくりだったこと
でも反面、付き合い方を注意しないとまずいことになりそうな気もする

それにしても凄い時代になっている












シッダールタは、何故ゴータマに付いて行かなかったのか

少しばかり面倒くさいことを、、

昨日の続きっぽくなるが、ヘッセの「シッダールタ」についてのこと
シッダールタは友と覚醒を求めて一緒に旅に出た
そこである時ゴータマ(佛陀)に出会った
彼は明らかに覚醒者で、その教えは多くの人の心に届いた
友はゴータマに付いていって自己の完成を志した
しかし、シッダールタは
「教えられて身についたことは、自分の求めるものとは違う」
と友と別れて、しなくてもいい苦労を負うことになった

しなくても良い苦労とは、人が生きていくうえで実感するのような

一見無駄のような行い
欲望や性欲や怠惰に対する、、およそ完成された人間とは離れたものだ

しかしその経験をして自己とずっと向かい合ったシッダールタは
晩年になって友と出会う
友はシッダールタの目に覚醒者の存在を感じる
結局のところ、行儀よく学んでも、社会でしなくてもいい経験を積んでも
人の完成というものに達することができる、、
そうしたことをヘッセはおそらく説いていると自分は確信している

そして、これこそがこの作品を好きな作品としている理由だと思う
ヘッセの晩年の作品「ガラス玉演戯」では名人のヨーゼフ・クネヒトは
恵まれた名人の地位を自ら離れて、市中の不条理も存在する世界に
入ろうとする
それはこのシッダールタの判断と似ていると思う

教えられた方法では面白くない(真に身につかない)というのは
もしかしたらコンピュータゲームのクリアするための方法として
解説本を読んでクリアするのと、まずは自身があれこれ試行錯誤して
クリアするのと同じかもしれない

達成感は圧倒的に試行錯誤のほうが大きそうだ
また山に登るのも自身の足で登ったほうが、ロープウェイで登ったよりも
数倍も感動は大きいと思われるが、実は今の時代に欠けているのは
こうしたことではないかと思う

それは最近のSNSのわかりやすい断定に安易に同調する人々への不安のことだが
本質を掴もうとするよりは、短い断定の言葉で何かわかったように気になり
その数が多いという感覚だけでそれを信じる傾向
なんでも直ぐに答えを聞きたがり、自身の感覚よりは自身がどう見られるか
を気にして、多くの塊の中から逃れられない人

でも、もう少し自分を信じてあげられたら(つまりは個の確立ができたなら)
少しは世の中が少しは良くなりそうな気がするし
ヘッセを始めとする物語の存在価値もあるものと思えるのだが、、
ノーベル賞に限らず、役に立たない研究とか思考の産物はいつか役に立つと思う)

まとまらない話

シッダールタ

高校時代に夢中になった「カラマーゾフの兄弟」は読書体験だけでなく
映画、舞台でも見た
映画は大学時代に学園祭で、舞台は豊橋でアリョーシャを浜畑賢吉
演じたものを見た

表現様式が違うものを見るのはそれなりに面白い
映画、舞台は時間的制限があるのでポイントを絞るしかないのだが
上手くまとまっていると見るか中途半端と見るか分かれるところだが
自分以外の解釈を知ることは興味深い

映画と本を経験したのは夏目漱石の「それから」がある
森田芳光監督、松田優作藤谷美和子主演)
これは個人的な思い出もあるが映画が圧倒的に良かった
しかし、だからと言って、「もう一度見るか?」と問うと
「もう結構!」の気分で初めて見た時の印象を大事にしたい気分だ

本だけでなく、現在舞台で上演されいるので見てみたい!
と思うのがヘッセの「シッダールタ」
(「シッダールタ」は個人的にヘッセの中で一番好きな作品で
 最後の河のシーンは涙が出てきてしまう)
出演は草彅 剛 杉野遥亮 瀧内公美 会場は東京の世田谷パブリックセンター
家を長時間空けられないものの、東京へ日帰りで見に行くことは
不可能ではないが、そう思った時にはチケットは売り切れていた

それでと言うわけではないが、購入して放ったらかしになっていた本を
引っ張り出してみた

 

これは「シッダールタ」のストーリーを追って、その舞台となる光景を写した写真集だ

よく理解するためには、その場所に行け!と言われる
確かに、その場所に立つと何か感じるものがあるのは事実だ
現に本で読んだ「シッダールタ」と写真で見る光景は少し違った印象を持つ
本は観念の中、写真集は生活の一部の中、、そんな気がする

この舞台の「シッダールタ」は「デミアン」のエピソードも入っているようだ
「内面への道」と言われる同時期の作品群で、2つの物語が混在するのは

半ば必然のように思えてしまう

いつもは思わないが、時には東京の人を羨ましく思うことがある
それはこうした舞台とか気になるコンサートがいつも行われていること
田舎ではそういうわけには行かない(でも田舎には田舎の良さがある)

豊橋と言わないから、せめて名古屋でも上演してくれないかな!
そうすれば、迷わず行くつもりなのに





ちょっと驚いた今朝のおしゃべり

「月曜日、木曜日はおじさんがいるから(手が)暖かい」
(月木はあいさつ推進運動で校門まで付き添いウォーキング)
いつものように袖に手を突っ込みながら2年生の女の子が言う
いつかはそんな事も忘れて話にもノッてこない時がやって来る
彼女が忘れてもこちらは幸せな時間だっことは
ずっと覚えているだろう

今朝もいつものようにおしゃべりしながら校門まで歩いた
「Kちゃんは半ズボンで寒くない?」
「ストッキングとズボンではズボンのほうがあったかいだろうね」
「Iくんのランドセルに吊るされているキャラクターは何かな?」
「このキャラクターはゲームの何か?」
「男の子と女の子では好みが違うだろうね」
「ゲームは何時間くらいする?」
2年と3年の子とそんな会話をしていた時
ブラジルをルーツ持つ2年の男の子が急に
「3時間!」と会話に参加してきた

びっくりした
その後、彼は妹がいて彼女はもっと短い時間と説明したが
その話っぷりは日本人の会話と遜色はなかった
早口で言いたいことが問題なく言葉に出るようで、、
今までは彼に話しかけようとしても、日本語がわからないかも知れない
と気遣って、あいさつは「ボン ジア」というくらいですませていた

彼はほとんど問題なく会話ができるようだ
少なくともあの発音とか話しっぷりではそう思う
彼は登校時のIちゃんとKちゃんといつもの会話を聞いて
こちらがどんな人物かわかってきたのかもしれない
それで今朝は話してみようと思ったのかも知れない

なんか理由もなく嬉しかった
この嬉しい気分は校門まで続いた
校門で子どもたちを待っている校長先生に聞いてみた
「Iくんはもう日本語を喋れるみたいですね」
「はい、悪い日本語も覚えて、、、」と笑いながら答える

たったこれだけのことが、気持ちを軽くする
そう言えば前々回だったかに彼は、自分が被っているあいさつ推進運動の帽子を
さっと取り上げて、すこしからかうような素振りをしたことがあった
あの時から彼はこちらへの抵抗感はなかったのかもしれない

ということで、次回からはI君にも気軽に話しかけるようにしよう
彼には日本での生活は楽しいと実感してほしい
彼のためにも、日本のためにもそう思う



 

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