
連携している高田商業高等学校の先生方と懇親会を開いた。
今年は、年度初めから学校に入らせてもらい、今まであまり関われなかった部活動や体育科での連携をさせてもらった。
正式な連携期間は12月末なので、今までの総括と来年度に向けての展望を話し合った。
こういう飲み会では、「こういうことをやってみたい、やってほしい、やらないか?」という話がどんどん出てきて、それを実現に向けて作っていけるのが面白い。
何か出来ることをそれぞれが考えるというのがとてもいいディスカッションを生む。とても貴重な機会だった。
来年度の野望は、大学生が商業高校の授業をみたり、施設を見学したりする機会を作ること。これから教員、特に義務教育の教員になる人は、ほとんどが普通高校出身で、こういう実業高校がどのような勉強をしているのか知らないまま進路指導はできないだろうということで、その機会を得たい。
まだ来年のメンバーは決まらないので、何とも言えないのだけれど、安定した連携を続けていきたい。(477字)

「好ましい」授業の風景として、教師が質問して、学習者が「はーい!」と手を挙げ、教師が当てて、学習者が立って答えて、教師が「はい、拍手」と言って拍手を促し、学習者が着席するという、ステレオタイプなものがある。
授業の風景として、学習者が先生に当ててもらいたくて「はい、はい!」と手を挙げる姿が「スタンダードなよい授業」という印象を持っている人が多い。
はて、これって日常生活で起こるのだろうか?この、「手を挙げて発言する力(?)」って、身に付けるべき能力なのだろうか?と、先日ゼミで触れてみた。
教師が教室内のメンバーを完全にコントロールしていないとこの構図は生まれない。
発言をするには、教師の許可が必要である
というルールだ。これは民主的なのだろうか?絶対的権力者である教師の許可が必要となってくる。
そもそも、誰かがコントロールしないと意見、意思、感想を表明できない集団はよい集団なのだろうか?
上記構造ではある手順を踏まないと意見表明ができないことになる。手を挙げ、当てられ、集団の中でたった一人でみんなに対して(ほとんどの授業では教師に対してだが)いわなければならないという、かなり高いハードルが求められる。
さて、そのハードルはこの21世紀を1/4も過ぎようとしている世の中で、越えるべきハードルなのだろうか?
今や、意見表明はそんなことしなくてもいろんな手段を使って可能になっている。ICTを教室内に導入しているんだったら、意見の共有はいとも簡単にできる。それなのに、このハードルを設定し、「越えなければならない」としている教室文化は、前時代の遺物なのでは?
冒頭に書いた「挙手→指名→起立→発言→拍手→着席」という流れで、「拍手は必要なの?」というツッコミに対して、たくさんの人は
拍手をすると自分も拍手されたいという気持ちになり、手を挙げ、発言したくなるから
と答えるのだが、授業中の意見表明が挙手によるもので無ければならない理由は無い。つまり、意見表明の機会を限定して、その手続きをわざわざ踏ませることを敷いているところにも「権力者のエゴ」が感じられる。
じゃあ、みんな拍手もらうために手を挙げて意見を言っているの?拍手が無くなれば意見をいわなくなるの?そんなの外発的動機じゃんか。
この挙手意見表明の手順は、「会議で意見を言うことの練習」という例も出されたが、30〜40人以上規模の会議で、手を挙げて発言をするという機会が、国民のどの位の人にあるのだろうか?
私は、その規模の会議は、学校のしか知らないが、ほとんどの決定事項はその会議では決まらず、事前の少人数のワーキンググループは、委員会、部会等で原案が出される。そして大きな会議では、その情報伝達がなされるだけである。
たまに、それに対して質問、提案がなされることがあるけれど、全員がそれをおこなっているわけではない。つまり、大きな規模の学校の会議でそれをする人は、全体の10%程度(体感)となる。
つまり、挙手意見表明の手順を全国民が乗り越えなくてもいいということだし、だいたいこういう会議で意見が言える人は、その手順を授業で「乗り越えた」人ではなく、もともとできる人なのでは?と思える。
大規模会議の前段階の少人数ワーキンググループ等のディスカッションが、たくさんの人が経験する意見表明の場面だと思われる。別に学校や会社の会議じゃ無くても、地域の集まりでも、部活の活動方針決定でも、児童生徒は若い頃から経験する。
そんなところで挙手意見表明の手順は役に立たない。
「他人の意見を聞き、自分が思ったこと、考えたことを良いタイミングで表明する」という手順を身に付ける必要がある。
そこで発言したからといって誰も拍手はしない。拍手をもらえないからといって発言しなければ、自分の意見は通らないばかりか、存在しないものになってしまう。
意見が存在しないで良い、と本人が思っていればそれでいいのか?というと、そういうわけでもない。その集団が「健全な集団」であるためには、違う人からの違う視点での「ツッコミ」が必要になる。ツッコミを受けることにより、主流の意見を言っている人はちょっと立ち止まり再考し、もしかしたら意見を修正するかもしれないし、しないかもしれない。ただ、独断専行よりは、「民主的」な集団となるはずだ。
こういう意見表明の手順を学校の授業で学ぶ機会が無いことが問題である。
もう一度このことについて考えてみると、結局は教師がコントロールした意見表明の仕方は誰もが意見を言えるという機会を奪い、しかも、拍手をするかどうかも教師がコントロールしている場合、誰もが評価するという機会も奪っている。
大げさに言えば、言論の自由を奪っているということになる。
そのことにこれから教師になろうとしている人は気付かなければならない。
以上のことは、授業中の課題に対する発言等について述べたものであって、課題を練習し、発表するもの(合唱、群読、演劇、スピーチ等)に対しては、その労をねぎらうという形で、または、その内容が素晴らしかったという称賛の拍手は、どしどしするべきである。
ここをごっちゃにしてもらうと困るんだよね。(2406字)

吉川中学校の3年生が本学を見学しに来てくれた。
大学講義体験の講師を募集していたので、手をあげてみた。
これまで、このような講義体験の講座講師をしてみたいとは思っていたけれど、中高生向けの内容を持ち合わせていた無かった。「群読」もあるのだが、授業実践的で、「大学講義体験」というのにそぐわないかな?と思い、二の足を踏んでいた。
しかし今回の「ラップと音韻意識」というネタを学部1年生授業用に作り、超有名になったCreepy Nutsの「Bling-Bang-Bang-Born」をネタにすれば、ティーンも食らいついてこられるかな?という見込で実施させてもらった。
中学生はかなり緊張していて笑顔が見えない。もうちょっといじればよかったのかもしれないけれど、距離感がつかめないから、それもなかなか……。
それでも、興味を持って訊いてくれたとは思う。
「Bling-Bang-Bang-Born」のライム解析をして、どうしてここまで売れたのか?を説明した。もうちょっと時間があれば、各自ラップを作ってもらうのだが、私の自己紹介ラップの披露で終わりとした。
45分間は短いが、中学生にとっては、いっぱいいっぱいだったかな?(555字)
menu
1.語への注視と語の記憶
2.情報・感覚の伝達
3.フィジカルの強化
4.感情の浄化
5.メタ言語能力向上
6.文章内容理解
7.音象徴感覚の体得
8.聴取能力の持続
今回は「6.文章内容理解」のつづきです。
高橋麻衣子「文理解における黙読と音読の認知過程—注意資源と音韻変換の役割に注目して—」*1という研究では、
通常時と注意散漫の状況時、音読と黙読で文章内容理解の比較実験を行った。実験は例えば
太郎がその会場で花子を呼んだ女性と話をした。
というかかり受けが分かりにくい文章を読ませて、それに対する問題に解答するという形です。
その結果、注意散漫な状況な時、黙読は正答率がかなり下がり、音読は、それほど変化がないという結果が出ました。
難解な文章理解のため、より集中して読むべき時には音読が効果的という結果があります。
私も、役所からの文書を理解するとき、本当に難解で、思わず口に出して読み、意味の句切りを見つけるという作業をしたことがあります。
ある自治体の2024年付け給付金支給条件のお知らせですが、
世帯が、住民税が課税されている者から扶養を受けている者のみで構成されていないこと。
という一文がどうにもこうにも分からない。何度も句切りを変えて音読して、その時は理解した気になりました。
つまり、理解するために音読するということはあるということです。意識をそこ集中させるために音読するということです。
しかし、何度も述べていますが、音読すれば理解できるということではありません。これを混乱して文章理解のために音読させようと勘違いして授業実践をしている先生は多いです。
特に、授業中、学習者に当ててみんなの前で音読させると、間違えの無いよう、すらすらと音読することに集中し、文章の内容理解まで意識が向かないことがあることは心に留めておかなければなりません。
前回に紹介した小学校学習指導要領国語編にあった
「文章全体の構成や内容の大体を意識しながら音読すること。」
という記述は、「文章内容を学習し、それを反映した音読をする」(≒朗読)ととらえた方が良いでしょう。(955字)

イオンシネマ新潟西視聴 2025年 日本
細田守作品は全て家族で観に行っている。今回も公開3日目にイオンシネマ新潟西で観た。
イオンシネマ新潟西だから、人はそれほどいないんだろうな、と思ったのだけれど、これほどいないのかと愕然とした。一番大きいスクリーンで、20人程度。え?この作品の人気が無いのか、イオンシネマ新潟西が寂れているのか。
私としてはこの映画のテーマはいいものだと思うのだけれど、ちょっと分かりやすすぎているところがあるのかな?とも思った。テーマは分かりやすいのだけれど、設定が分かりにくい。
「時間も空間も生死も一緒」という舞台というのは、最近読んだ小説のテーマでもあるけれど、それらはすぐに腑に落ちず、いろいろ固定観念が邪魔をしてしまう。難しい設定で作品を貫くテーマを描くのは、至難の業だよな、と思った。
細田守作品は、現実世界と異空間(仮想空間)がリンクするものが多いのだけれど、現実世界のウェイトがちょっと少なすぎたから、いろいろ混乱したのだろうと思う。
16世紀のヨーロッパの戦乱時代から始まる。この時代のヨーロッパは「果てしなき」戦乱が続いていて、みんな殺戮と強奪で生計を立てているような時代だ、というのは、私のアニメからの情報が偏っているからなのかもしれない。
vinlandsaga.jp
berserk-me.com
それぞれ時代は違うと思うのだが、上記「ベルセルク」では、生と死が同じにあると語られてもあり、まさに「果てしなきスカーレット」の世界でもある。
中世ヨーロッパの思想なのかな?とも思う。
細田守作品は、いつも新たな切り口で世界を届けてくれるので、それまでの作品が好きだった人には受け入れがたい部分もあるのかもしれないが、私は好きな世界観だった。
それから、今まで描かれてきたヒロインの中で一番格好がよく、素敵なキャラクターだったので、アクリルブロックを買ってしまった。(写真)芦田愛菜の吹き替えは、初めは凜とした強い女性の雰囲気だったのだけれど、それを最後まで貫いて欲しかったというのはある。(948字)
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1.語への注視と語の記憶
2.情報・感覚の伝達
3.フィジカルの強化
4.感情の浄化
5.メタ言語能力向上
6.文章内容理解
7.音象徴感覚の体得
8.聴取能力の持続
今回は「6.文章内容理解」です。
小学校学習指導要国語編の3、4年生の目標及び内容には
文章全体の構成や内容の大体を意識しながら音読すること。
とあります。この記述を元に「音読すると内容を理解できる」ととらえる人も多いです。
さて、音読をすると本当に文章内容を理解しやすいのでしょうか?
国語の授業で新しい単元に入る時、音読をさせることが多いと思います。児童生徒が初見で教科書を音読します。順番に一人ずつ読ませて他の人たちが聴きながら字を目で追うということをしていると思います。
音読をしている児童生徒は文章を読んでいるとき、その内容が頭に入ってきているでしょうか?私の経験や、学生に訊いてみたところ、音読しているときは文字を音声に変えることに集中して、内容が入ってこないと言う人が多いようです。
平成29年(2017年)3月告示国語科学習指導要領の第3学年及び第4学年 の「教科の目標,各学年の目標及び内容」には、
ク 文章全体の構成や内容の大体を意識しながら音読すること。
とあります*1。これは、初見時の音読というよりも、単元を学習する過程で、もしくは学習した内容を意識して音読するということでしょう。
同じ項で5、6年生の欄には「朗読」という語が出てくることからも、「朗読」に繋げる過程としての「意識して音読」という語になっていると思われます。
それでは、音読は文章理解に影響を与えないのでしょうか?
文法的に意味をとりにくい文章が与えられたとき、何度も音読したことはありませんか?役所からの通知文等、語のかかり受けがよくわからないものを理解しなければならないとき、何度も音読をしたことがあります。この行為はどんな意味があるのでしょう?
これに関する学術研究を次回紹介します。(つづく)(890字)
*1:〔知識及び技能〕⑴ 言葉の特徴や使い方に関する事項
belphegor729.hatenablog.com
2025年 日本 ワーナーブラザース配給 Amazon Prime Video
上記のブログ記事を読んで、すかさず観た。
この事故から約5年、我々は、当時何があったのか、何を起こしたのか、そして我々はその後のコロナ禍で何をしたのかを検証しなければならないと思う。
5年前のことを思い起こせば、ダイヤモンドプリンセス号が日本に入港して、なんだか関東の方で大変なことが起こっているらしい、程度の「対岸の火事」としてしか観ていなかった。これを機に日本中がとてつもない感染災害に見舞われるなんてことは一切思わなかった。
しかし「フロントライン」だけに最前線で奮闘している人たちを描いている映画だし、その現場の人たちの苦労や苦悩を丁寧に描いていた。
エンターテインメントとしても、素晴らしいもので、あっという間に時間が経ってしまった。これを映画館で観れば良かった。
DMATという任意の医療集団が奮闘していたということも知らなかった。国や自治体では感染対策の専門家集団が存在していなかったというのも驚きだった。未知のウイルスというものに対する我々やマスコミのヒステリックな対応もこの時に始まった。対岸の火事と思っているから安易にヒステリックにわめき立てていたんだと思う。
また、六合教授という感染医療の専門家のYouTube動画によって、上記のヒステリックな対応がさらに熱を帯びる。実際のところ、現場のことをよく知らない知識だけの意見だったというのが後から分かり、それに踊らされたマスコミも少し反省する。
という、分かりやすい構造を描いてはいるが、コロナ禍が収束し、冷静にあの頃のことを我々は振り返る時期になっているんだと思う。
特に、大学に勤めている私としては、現場の状況を考えに入れない身勝手な意見は、言ってはいけないと、再確認した。
DMATのリーダーの小栗旬や、対応した厚生労働省の役人の松坂桃李がとてもよい。それぞれの立場でできることを何とかしようと奮闘する姿が、がんばっていかなければならないと思わせてくれる。
あ、クルーの森七菜もとってもよかった。森七菜、今、夜ドラにも出ているけれど、やっぱり演技がいいな。
劇中、マスクを取っているのは、映画だから顔見せ無きゃなんだよね、と思っていたら、エンドロールできっちりその説明をしていた。そういうところも素敵。(1066字)
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