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シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

読書は孤独じゃない、なぜなら天才や怪物を召喚できるから

 
いつも読書の参考にさせていただいているホリィ・センさんのアカウントに、ゆうべ、以下のようなメンションがあった。それを読み、勝手なことを書いてみたくなった。
 

令和人文主義者全体それぞれの人たちはあまり分からないが、少なくとも三宅さんの言う「読書」はけっこうラディカルなものを志向しているように見えるが

— ホリィセン放言取り急ぎ (@noisysen)2025年12月1日

読書をすることで一人になれるだとか半身になれるだとか言っているのって、今ある社会秩序を揺るがそうとしてはいるよね

— ホリィセン放言取り急ぎ (@noisysen)2025年12月1日

 
ホリィ・センさんのこのメンションは、最近一部で話題になっている「令和人文主義」なる語彙に関連したものらしい。私は、この「令和人文主義」なる語彙についてよくわからない。「令和人文主義の解説」なるものを読んでも理解した気持ちにならなかった。ただ、言及する人たちの熱量のうちに、ブログがブームだった頃のような熱量を嗅ぎとった気した。
 
それより、読書の孤独性や一人性について、私は考えこんでしまう。
独りで読書している瞬間には誰もいないし誰からも邪魔されない……ようにみえる。でも、読書している時って、本当に人は一人だろうか? 最近の私は、そう感じていない。昔からある程度までそうだったが、特に最近は孤独な読書をしていない気がする。そのあたり、好きなことを書いてみたくなったから書いてみる。
 
 

みんなで読む読書・コミュニケーションを伴う読書

 
はじめに、孤独でも一人でもない読書の、わかりやすい例について考えてみたい。社会には、狭義の「みんなで読む読書」に相当する行為が幾つかある。それらの読書は多かれ少なかれ孤独ではない。
 
たとえば大学の研究室で皆で本を読む時、その読書は孤独ではない。そのとき読書は本と一対一で向き合うものではなく、指導教官と学生たちがコミュニケーションを行いながら書籍を紐解いていくかたちになる。そういう読書の良いところは、指導教官から読み方や読み筋を教えてもらえること、他の学生と議論をしたり補足しあったりしながら読めるところだ。そのかわり、読み方や読み筋はある程度まで指導教官や他の学生の影響下に入ることになる。読書をとおしてインストールされる知識、または読書体験そのものは、指導教官や他のゼミ生からの影響のカラーを免れ得ない*1
 
それよりもっと緩い、読書会という集まりもある。読書会には指導教官は存在しないが、コミュニケーションは存在する。読書会には複数名が含まれ、そこにコミュニケーションもあるだろうし、読み方や読み筋についても幅があって面白かろう。とはいえ、この場合もインストールされる知識や読書体験には他の参加者からの影響のカラーが紛れ込む。
 
それらをもっと緩く・もっと広くした体験として、「話題の本を読む」「誰かの書評記事を見て本を読む」という体験もある。自分の属しているインターネットの界隈で話題になっている本があり、その感想文や引用文などがチラチラ見える状況下で読む読書は、読書会ほどではないにせよ、その本について言及しているメンバーからの影響を被る可能性がある。同じく、書評記事を見て本を読む行為も、大学の指導教官ほどではないにせよ、書評記事というメディアをとおして書評者とコミュニケーションが行われ、書評者の影響を受けながらの読書になる。なら、それだって厳密には孤独の読書と言い切れない。
 
逆に、自分が読書について「発信している」場合もあろう。
レビューを書き残したり、その本についてSNSに書いたりしているなら、それも孤独の読書とは言えない。読書した事実や読書をとおして獲得したことをブログや SNSに書き残し、他人がそれを読むよう期待するのはコミュニケーションである。そうしたコミュニケーションが織り込み済みの読書はどうにも孤独じゃないし、それで「いいね」がついたりつかなかったりする読書も孤独じゃない。それも読書には違いなかろう。ただし、それはコミュニケーションに紐ついた読書だと言えるし、社会的相互行為としての読書、ときには政治的行為としての読書というニュアンスさえ含んでいるかもしれない。
 
こうした要素をできるだけ切り捨て、読書体験の孤独さの純度をあげていくとしたら? 最も孤独な読書とは、ぶらりと本屋を訪れ、店内をぶらぶらしたり立ち読みしたりしたうえでこれぞ、という見知らぬ本を手に取る体験……あたりが該当するんじゃないだろうか。書店員のオススメ欄に置かれていた本を読む読書、派手な広告に惹かれて読む読書、帯に記された推薦者の売り文句に釣られて読む読書も、若干、孤独ではないかもしれない。なぜならそれらのメディアをとおしてコミュニケーションが発生し、そのぶん、誰かの影響下に入っていると言えるからだ。
 
そういったものをガン無視して、前評判や前知識や人間関係などと無関係に手に取って読む読書が、一般的には孤独の読書といえるんじゃないかと思う。
 
 

でも、いつだって著者が存在している

 
で、そうやって前評判や前知識や人間関係から距離を置いた読書をしていてさえ、最近の私は孤独を感じない。なぜなら、そこには著者という人間がいるからだ。
 
たとえば、この『西洋近代の罪』という本には大澤真幸という著者がいらっしゃる。
 

 

 これらは、全体としてどこに向かっているのか。それは、西洋近代の裁量の部分、啓蒙主義が見出した価値や理念の否定であろう。多文化主義、気候主義、LGBTQ+、ジェンダーの平等等の思想の多くは、直接的には、20世紀の終わりから21世紀にかけての時期に唱えられるようになった新しいものだが、それらを基礎づけている基本的な価値や理念は、ヨーロッパの啓蒙主義の時代(17-18世紀)に見出されたものだ。多文化主義や気候正義等は、この時代に定期された人権、平等、自由等々の概念の発展や現代版だ。トランプの制作は、これらをすべて否定するものである。
(中略)
トランプは、AIの開発などIT関連のビジネスを大々的に支援するつもりでいる。これもまた、西洋近代の理念的な産物の否定を促進する仕事になる。なぜか? ミシェル・フーコーが、1966年に発表した『言葉と物』で、西洋近代(19世紀)のエピステーメー(認識枠組み)は、「人間」の概念を中心に置いて成り立っている、。と論じた。フーコーは1960年代後半の段階で、人間主義の終焉を予言していたわけだが、AIの急速な発展とともに私たちが今立ち会っているのは、19世紀的な人間概念の崩壊の過程以外のなにものでもない。トランプのIT企業への肩入れは、この家庭にさおさすものである。

私は大澤真幸という著者が特別に好きなわけではないが、上掲の文章などを読むと、「ああ、この著者さんならこう書くのはわかる気がするなー」などと感じ取ったりする。近代社会と啓蒙とトランプとAIについて論じる人はたくさんいようが、この著者ならこう書くのはすごくわかるし、この著者がこう書いたからこそ私が受ける影響というのもある。たとえば私は、これを読んで本棚の隅っこで居眠りしているフーコー『言葉と物』を叩き起こしたいと思ったわけだ。
 
この本に限らず、新書タイプの書籍は著者に教えられて次の読書に広がっていくことが多い。新書というフォーマットはおしゃべりだと思う。新書それ自体で一冊の読み物をなしていると同時に、著者が「この本は面白かったよ」「この本を引用してこれを書いているんだよ」と教えてくれる。これは新書に限ったことでもないか。著者はいつだって何事かを読者に投げかけてくるし、本とはそのようなメディアだ。だから私は読書をとおしていつでも著者の影響を受けているし、著者とのコミュニケーションを感じ取っている。
 
さきほど挙げた大澤真幸の新書にしても、それを通して私は彼の近代観、彼の啓蒙観、彼の21世紀観を浴びているわけだ。そしてイエス! と思ったり ノー! と思ったり ウムム…… と思ったりして、いわば討論している。私はこれをkindle版で導入したけど、メモ欄には、著者に向かって書いたことや自分と著者の考えを結び付けるために書いた殴り書きが残されている。読書であると同時に紛れもないコミュニケーションだと思う。
 
 

読書は天才や怪物を召喚する

 
で、読書の面白さとヤバさのきわみにあるのは、「読書は天才や怪物を召喚する」点にあると思うんですよ。
 
新書の著者だってコミュニケーションの相手として十分に面白いしヤバい。けれども、読書でコミュニケーションできる相手はもっともっと広い。その分野を代表する学究や思想家、数百年前の偉人とさえコミュニケーションできてしまう。
 

「読んだら二度と戻れなくなる本」として私が経験した本といえば、『消費社会の神話と構造』『幼児期と社会』『進化と人間行動』『ディスタンクシオン』あたりで、それらを読んだ後は前のように娑婆を眺められなくなった。内容はさておき、それらの本の膂力に私はねじ伏せられ、感化されてしまったhttps://t.co/GWDVu2o22y

— p_shirokuma(熊代亨) (@twit_shirokuma)2025年11月28日

 
上掲ポストの著者であるボードリヤールやブルデューも、そうした召喚可能な天才や怪物だと思う。彼らの著書が欠点を含んでいないわけではないし、今日の研究では否定されている部分もある。しかし、著書の実物を読んで得られるものは「まちがいがある」「今日の研究では否定されている」といった切り取りだけでは到底済まない。その時代・その社会状況のなかで達成した偉業に驚いたり、それらを紹介する入門書には記されていない含蓄の深さや思慮深さ、ユーモアなどあてられたりする。
 
そうした過去の天才や怪物の著書は新書よりも読みづらかったり、その時代・そのジャンルのコンテキストを踏まえておかないと読めたものじゃなかったりすることが多い。だから、一冊読む前に何冊も新書や入門書で準備をしたり、同じ時代の異なる著者を当たってからアプローチしなければならない等の面倒さはある。
 
だけど、いざ自分で読み切れた時の喜びは大きい。過去の学究や思想家の怪物じみたパワー、知の脈拍をじかに感じ取れる。私は我を忘れ、その知の営みを賛美する。そんな読書体験の最中において「まちがいがある」「最新研究では否定されている」なんてのは、小さな問題でしかない。もちろん、引用する際にはそうした部分を点検すべきだろう。でも、読書をコミュニケーションとみなす場合、まずは眼前にフーコーやブルデューやルソーといったすごい面々が召喚され、じかに自分に向かって語り掛けてくる戦慄、遠い過去からものすごいものを投げかけてくる感覚に打ち震える。
 
だから、読書は著者を、過去の天才や怪物たちを召喚する魔術なのだろうとも思う。この点において本とは正しく魔導書であり、「読んだら発狂する本」「読んだら戻れなくなる本」「読者を下僕にしてしまう本」が世の中に沢山存在するのは間違いない。そういう目でジュンク堂書店や八重洲ブックセンターの奥のほうを眺め直すと、過去の大物たちが手招きしている危ない洞窟のようにみえてならない。大書店の静かなエリアは、天災や怪物たちが眠るカタコンベと言っても過言ではない。
 
 

天才や怪物は、何度でも召喚できる

 
そのうえ、そうした強烈すぎる天才や怪物たちは何度でも蘇ってくれる。たとえば私も、さきに挙げた書籍たちを何度か通読している。飽きる気配はなく、暇な時にパラパラとめくったりする。手許に書籍さえあれば天才や怪物たちは何度でも召喚できるし、する甲斐がある。まるで『Fate /Grand Order』のカルデア召喚術のごとく、私たちは読書をとおして天才や偉人たちを何度も何度も呼び出し、サーヴァントのように使役することができる。
 
もちろん、ここでいう使役とは考える対象としての使役、そしてコミュニケーションとしての使役だ。自分の代わりに考えてもらう使役もあり得るだろう。時間をかけて向き合うも良し、枕頭の書として少しずつ言葉をわけてもらうも良し。彼(彼女)らは一筋縄ではいかないので、一度読んだだけで理解できるとは限らないし、下僕にならずに済むのかもわからない。が、何度でもいつまでも召喚できるのだから、細かいことは気にしなくて構わない。なにせ相手は、何十年も何百年も前に時代や分野のパイオニアになったような偉人なのだ。まずは怪物じみたパワーに惚れこみ、噛みしめようじゃないか。
 
そうして自分の本棚の一番良い場所に、お気に入りの天才や怪物の本を並べておけば、彼らを召喚しっぱなしにしているにも等しい。これも『Fate Grand Order』のチームバトルに似て、自室のいちばん手近な本棚に並べる本のチョイスは、(ソーシャルゲームやカードゲームで)デッキを組むのに限りなく近い。いちばん手近な本棚の本たちは、ほぼ直接的に自分の思考やアイデアに影響をもたらすし、それらは一番手近な話し相手としても機能する。個人的なイメージとしては、以下のようなチョイスに近い。
 

手近な本棚って、ソーシャルゲームのお気に入りデッキ編成にすごく近いと思う。今、自分に必要なバフや援助を与えてくれる本を並べておくと、いろいろはかどりやすくなるのでお勧め。

 
ページさえめくれば、いつでも過去の天才や偉人、怪物じみた力を持った著者たちが待ち構えていて、相手をしてくれるって素晴らしいと思いませんか? 私は思います、本ってすごい発明品だよね。
 
こうして考える場合、読書はまったく孤独な体験でなく、いつでも著者とお話できる召喚魔術ってことになる。私はそんな風に読書をしていて、私の本棚からはたくさんの偉人や天才や怪物や大学者たちの叫び声やうめき声や金切り声や演説が聞こえてくる。大きな書店や図書館でも同様だ。そうした著者たちの声がよく聞こえる日には、寂しがりな私でさえ寂しさが吹き飛んでしまう。
 
 

*1:もちろん、それがリテラシーやディシプリンを身に付けるうえで大切なのだけど、それは於く

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